第8話

 ガレージで休む青いマニュアル車を見て、こいつが自分を導いてくれたのか、と長谷川は感激した。その一方、解決までに時間がかかりすぎてしまったという負い目もある。

 インターホンを鳴らすと、中から出てきたのは久松美香だった。派手な化粧はピアノの発表会のときと変わらない。常日頃から手入れは怠っていないらしい。

 そんな彼女は見知らぬ二つの顔を見比べ、「どちらさまですか」と尋ねてきた。

「どうも、双葉署の長谷川といいます」手帳をみせ、軽く会釈する。

「同じく塚岡です」

「警察の方? ああ、もしかして例の事故についてですか。先日、うちに刑事さんが来たと息子から聞きました」

「お察しのとおりです。もう解決したようなものなのですが、最後にもう一度だけ話を訊いておこうと思いまして。単なる確認です。三人ともご在宅でしょうか」

「ええ、おりますよ。よろしければ上がってください。あの、私はこれからパートなんですけど」

 右手に握りしめているのは、おそらく自転車の鍵だろう。パートに行く際、彼女が車を使わないことは調査済みだ。そして、あえてその時間を狙って来たのも事実である。

「行ってもらって構いませんよ。奥さんはあの場におられなかったので、特にお訊きすることもないですし」

「わかりました。じゃあ、せめて案内だけさせてください。このまま行くのも気が引けるので」

 美香はドアノブを引くと、二人をリビングまで誘導した。が、そこには誰もいなかった。冷房はついているので、ついさっきまではここに人がいたのだろう。いや、美香だけだったのかもしれないと即座に思い直すが、和室を覗くとそうでないことが判明した。

 座卓のうえに半紙があり、墨汁の筆跡はまだ乾き切っていない。つまり、先程まで喜美代が書道をしていたのではないか。『忍耐』と達筆な字で書いてある。

 長谷川はテーブルにつくと、「誰もいませんね」とわざとらしく呟いた。声が二階まで届くように、という魂胆がある。

「私、呼んできます」冷えた麦茶を二人に差し出すと、彼女は二階へと急いだ。何も知らないのが気の毒でならない。パートから帰ってきたら、何もかもが一変していることだろう。

「長谷川さん、ほんとに奥さんを同席させないつもりですか」塚岡が歯がゆそうに訊いた。

「彼女は何も知らないんだ。俺たちが話を進めると、いちいち質問してくるに決まってる。あんな化粧をするような女が、大人しく最後まで聞いてくれるわけがない。大切なのは迅速に真実にたどり着くこと。どうだ、間違ってるか?」

「いえ、そのとおりだと思います」

 階段で音がするのを聞き、二人は再び正面を向いた。こそこそと話していては、刑事の迫力が台無しになる。被疑者より常に優位であれ、というのが尊敬する上司の口癖だった。

 まもなくして三人が現れた。覇気を失い、死人のような顔をしているのは久松啓斗だ。愛梨と喜美代は、不審者を威嚇する番犬のような表情をしている。

 美香が家から出たのを皮切りに、まず長谷川が口を開く。

「単刀直入にお訊きします。我々がなぜ再びやってきたか、その理由はもちろんおわかりですね?」向き合う三人と順番に目を合わせていく。

「わけがわからないわ」喜美代が怒気を含ませていった。「いくら聞いたって憶測の域を出ないのに、往生際が悪すぎますよ」

「じゃあ、すべての切り札が揃ったといったら?」

 それを聞き、喜美代は目を剥いた。いい返す言葉が出てこないらしい。

「正確にいえば、ピアノの発表会を観たときすべてのカードが揃いました。あのときは正直驚きましたよ。あの最後の映像がヒントになっているとはね。君もさぞかしびっくりしただろう」

 長谷川が啓斗のほうを向くと、彼は初めて目を逸らした。もはや逃げることしかできないのだろう。さらに追い討ちをかける。

「愛梨さんのピアノの練習風景、どこかで見たようなポーズだなあと思ったんです。しばらく考えて、やっと閃きました。あれは、マニュアル車のイメージトレーニングをしていたのではないかと。三本のペダルがそれぞれアクセル、ブレーキ、そしてクラッチ。両手で持っていた楽譜がハンドル。たしか愛梨さんは映像のなかで、両端のペダルを交互に動かしていました。あれはマニュアル車の発進時の動きに似ています。クラッチを慎重に繋ぐのは、初心者にとって難しい技術ですから。ではなぜ愛梨さんはそんなことをしていたのか。それはもちろん、お兄さんの運転するマニュアル車に自分も乗ってみたかったから、ですよね」

 すでに愛梨は身体を硬直させ、激しく不規則な呼吸を繰り返していた。

「だったら何? そんなの……あたしの勝手でしょ!」

「あなたは今、教習所に通っておられるそうですね。しかも女性には珍しいミッション車ときている。やっと仮免許を取った段階かな。つまり、まだまだ運転技術は未熟だと推測できる。そう考えれば、あらゆることが数珠のように繋がってくるんです」

 長く喋ったので、口の中が乾燥した。美香が淹れてくれた麦茶に口をつけると、体内が一気に冷却されていった。

 ガラスコップを置くのを待っていたように、啓斗がおもむろに語りだした。じっと俯き、その顔を上げようとする意志は感じられなかった。

「俺が……、尾上さんを海に……」

「啓斗!」と凄まじい剣幕で喜美代が叫んだ。

「もう疲れたんです、嘘をつき続けることに。ただの事故として処理されないかな、なんて甘い考えをもってたのは事実です。でも今日刑事さんが現れたとき、もうダメだと思いました。だから──」

「この期に及んでまだ嘘をつくつもりか!」長谷川はいい放った。

 啓斗ははっとしたように顔を上げた。

「えっ? どういう意味ですか……よくわからないな」

「なら説明するまでだ。あの日、あなたたちは単に海風を浴びに行ったんじゃない。愛梨さんの運転練習という目的も兼ねていたんだ。その際、同乗者として三年以上運転経験のある喜美代さんの付き添いが法的に必要だった。まだ啓斗君は免許を取って三年が経っていないから条件を満たせないんです。とはいえ、ご高齢の喜美代さんだけでは心もとない。だから三人で出かけることにした。つまり、あの日運転していたのは啓斗君ではなく愛梨さんの可能性が高いといいたいわけです」

「馬鹿げてますよ、また推測ですか。想像ですか」

 長谷川は腕組みをし、小さく吐息をついた。

「いったでしょ。我々はすべてのカードをもっていると。塚岡、例のものを」

 はい、と頷き今まで無口だった塚岡が鞄からノートパソコンを取り出し、それをテーブルの上で開いた。カタカタと数秒ほど操作し、それをくるりと三人のほうに向けた。

「これは?」啓斗と喜美代の声が重なった。

「事故当日、コンビニの防犯カメラの映像です。とにかくこれを見てください」

 彼らは大人しく指示に従う。すると、液晶を注視していた三人の表情が、にわかに曇りだした。映像が延々と続く。しかしやがて、「終わりましたけど」と啓斗がぽつりといった。急所を突かれたわけではないと安心し、肩透かしをくらっているようだった。

 長谷川は前のめりになり、こういった。

「これが最後の証拠です。そして、罪を犯したのは愛梨さんだということが示唆されています」

「これの? どこがですか?」

「お見せした映像のなかに、あなた方の青い車が映りこんでいますよね。コンビニ手前の道路で赤信号に足止めされています。角度的に運転手の姿は見えませんが、助手席にいるのが喜美代さんだということは明確に読み取れます。この時点で運転席にいたのが啓斗君なのか、それとも愛梨さんなのかはわかりません。やがて発進した車はカメラから外れますが、そのときにもドライバーの顔は確認できませんでした。そこで注目してほしいのは、道路の状態です」

 長谷川は一気に残りの麦茶を飲み干し、交互に指を組んだ。

「それがどうしたっていう──」啓斗の言葉が詰まった。「まさか……」

「お気付きになられましたか。じつはこの道路、そこそこの上り坂になっています。運転の初心者なら当然、発進するときにどうしても後退してしまいます。特にマニュアル車はクラッチを繋ぐ分、オートマチック車よりも難易度が高い。でもこの映像を見るかぎり、発進時にちっとも後ろに下がっていない。その理由は、サイドブレーキを使った発進操作を行ったからです。それだといくら初心者がやっても大して後退せずに済みます。でも我々は知っている。啓斗君が普段使っているのはこの方法じゃない。アクセルとクラッチを同時に操作するやり方だ。そこで、事故が起きる三日前の啓斗君の運転映像を確認したら、やはりそれなりに後退していた。つまり事故当日、車が後ろに下がらなかったのは運転手が啓斗君じゃなかったから。ドライバーは愛梨さんだった」

 長谷川はすべての駒を使い切り、塚岡に目配せした。彼はパソコンを回収し、持ち前の鞄のなかにしまった。沈黙の時が流れる。

 すると、向かい合う三人の態度に変化が生じた。啓斗は両手で頭を抱え、喜美代は静かに目を瞑り、愛梨の頬には涙が伝っている。その彼女が初めて長谷川と目を合わせた。

「全部、あたしがやりました。でも本当に事故だったんです。サイドブレーキを引き忘れて、気付いたときには車は動き出していて……。その先に、尾上さんがいました」

「よく話してくれた。我々も、偶然起きてしまった事故だという見解に変わりはない。でも結果として人を死なせてしまったのは事実だ」

 愛梨はこくりと頷き、さらに涙量を増やした。

 啓斗も喜美代もまったく姿勢を変えようとしない。今度こそ本当に絶望の淵、いや崖から突き落とされたのは明らかだった。守り切れなかったという無力感に打ちひしがれているのだろう。

「では、署のほうにご同行願えますね」

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