第7話
鈴木千歳がステージに登場すると、わっと盛大な拍手があがった。彼女の美貌からすると、女優の舞台挨拶を観ているかのようである。啓斗も一応手を叩くが、そこには何の感情も込められていない。ただ形式的にそうするだけだ。あの刑事さえいなければ。
鈴木のとなりに愛梨が並ぶと、二人は同時にお辞儀した。愛梨がダークグリーンのドレスにしたのは、鈴木先生の衣装と合わせるためだった。それが彼女のトレードマークらしい。
まもなくして、最初の一音が奏でられた。あまり音楽に馴染みのない啓斗にも、はっきりと聞き覚えのある楽曲だった。連弾曲は、『美女と野獣』──。
とても二人の人間が演奏しているとは思えないほど、息はぴったり。技量では明らかに鈴木のほうが上をいっているが、愛梨の指さばきも充分に流暢である。
周りからひそひそと、「さすがだなあ」という感嘆の声が聞こえてきた。万人を唸らせる繊細さと躍動感がしっかり共存し、聴く者の鼓膜を魅了する。
この素晴らしい演奏を、ホール内のどこかで長谷川が聴いている。いや、彼はピアノにではなく啓斗にアンテナを張っているのだろう。
それにしても、なぜ彼は演奏を聴くといいだしたのか。席に戻ってから、そのことばかり考えていた。もし愛梨と話をするためなら、彼らは絶対的なカードを持っていることになる。
塚岡の咳払い、長谷川の不敵な笑み。それはすべてを見抜いたうえでの所作ではなかったか。他にも証拠をもっているなら、次の一手はどう指してくる?
ふとしたとき、再度拍手が沸きあがった。どうやら演奏が終わったらしい。歓声が鳴り止まぬなか、鈴木にマイクが渡された。黒髪のロングヘアーを掻き分け、彼女は話し出した。
「本日はお忙しいなか、ご来場頂き誠にありがとうございます。ええ、時の流れは早いもので、おかげさまで発表会も無事に十回目を迎えました。この記念すべき節目に、私にとって最初の教え子である久松愛梨さんが卒業します」鈴木は愛梨のほうを向いた。「十四年間ありがとう。楽しませてもらったわ」
愛梨は師匠と握手を交わし、マイクを受け取った。愛梨は十四年間を振り返り、決して順風満帆ではなく、ときにはピアノを投げだしそうになったことを告白した。そして、今の自分があるのは先生や家族のおかげだと目を輝かせた。
再び鈴木がマイクを握る。
「じつは、久松さんのご家族からある映像をお借りしています。本日最後の曲となりました、『美女と野獣』の練習風景を撮影したもので、それを今から少し流したいと思います。では、門出を祝って」
そんなものいつ撮ったのかな、と啓斗は疑問に思った。提供したのが母だということは知っている。発表会の数日前にでも撮ったのだろう。ふと横をみると、美香がわくわくと口角を上げていた。娘が主役になってご満悦らしい。
舞台にスクリーンがおろされると、まもなくして上映が始まった。
そこは自宅だった。わずかに開いたドアの隙間。美香はこっそり愛梨の練習風景を撮影している。つまり隠し撮りだ。
だが次の瞬間、思わず啓斗は目を見張った。死に物狂いで封じてきた結界が、じわりじわりと破られつつある。
長谷川がこの映像に違和感を抱けば、すべてが終わる──。
鳥肌が立った。
ピアノの前に座り、愛梨は目を瞑ってルーティンを行っている。左右のペダルにそれぞれ乗せた足を交互に動かし、両手は楽譜を握っている。この格好は……。
やがてルーティンが終わると、ゾーンに入った愛梨は颯爽と『美女と野獣』を演奏しだした。ヘッドホンはしておらず、洗練された音階が踊りだす。
その映像を、現実の愛梨は悲しそうに見つめていた。この場に長谷川がいると知れば、その悲しみは恐怖へと変換されるに違いない。作ってしまった過去はもう変えられないのだから。
動画が終了すると、まもなく閉演のアナウンスが流れた。潮が引いていくように、観客の数が減っていく。喜美代と美香は脇に控えていた花束を抱え、愛梨のいる舞台のほうへ階段を降りる。人の波を逆行していく。啓斗もあとに続いた。
長谷川はどこにいるのだろうと思い、ちらりと辺りを一瞥するが、それらしき影はなかった。もう引き返したのだろうか。
二つの花束を両手で受け取った愛梨は、さして驚いたようすでもなかった。発表会の最後に渡したいものがある、とあらかじめ彼女に告げていたからだ。その代わり、啓斗の蒼白な顔を認めると、少しだけ眉を歪ませた。
「お兄ちゃん、やっぱり何かあったの?」
なぜかそれに応じたのは美香だった。
「やっぱりお腹が冷えちゃったんだって。演奏が始まってすぐトイレに行ったのよ」
「まあ、そういうことだ。たしかにあまり体調はよくない」
「へえ、本当だったんだ」
「逆になんで嘘だと思うんだよ? 身体壊したんだから少しは心配してくれてもいいだろ。まあそれより、とにかく卒業おめでとう。音大へのチャンスを活かせたみたいだしさ……」そこまでいったとき、頭の中でさっきの映像が再生された。愛梨もそれをステージの上で見ていたのだ。だからそれ以上、未来に繋がる話をしようにもできなかった。明るい未来、あるのだろうか。
人を死なせておいて。
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