第6話

 二人の刑事が奥に消えるのと、エレベータホール手前の第一休憩室から、愛梨たちが出てくるのがほぼ同じタイミングだった。

「どうしたの? 浮かない顔して?」顔面に化粧を塗りたくった、母の美香が訊いてきた。香水の匂いも今日は一段と強い。

「どうも冷えたみたいでさ、さっきから腹の調子が悪いんだ」啓斗は腹の辺りで円を描いた。演奏を抜け出す伏線はこれで充分だろう。

「ちょっと冷房が効きすぎてるのかしら」美香は掌を天井に向け、風量を確かめた。

「暑がりのお兄ちゃんらしくないね、ほんとにお腹こわしたの?」醒めた口調で愛梨がいった。

 嘘だと疑われている。そしてなぜ嘘をついたのかについて、考えを巡らせているに違いない。その訝しむ様子は喜美代も同じだった。

「啓斗あんた」と着物姿の祖母が睨んだ。「なにか隠してるんじゃないだろうね」

「……んなわけないだろ。もういいから早くホールに入ろう。いい席が取られる」

 これから控室へ移動する愛梨と別れ、残りの三人で広いホールに入った。まず目に飛び込んできたのは、音響工学で設計しつくされた構造だった。それは音楽を追求する芸術家と、音波を制御する技術者との間に生まれた神秘的な空間である。

 三人は中央辺りの席に腰を下ろした。その際、啓斗は通路側の席を確保した。左隣には母が座り、それが祖母でなくてよかったと少し安堵する。

 ホールの照明が弱くなる。

 そして、ピアノ付近に強いスポットライトが当てられる──。

 舞台右手から幼稚園の女の子が登場し、ぺこりとお辞儀した。背丈よりかなり大きな椅子に座ると、まるで跳ねるようにして、鍵盤のうえで自由な世界を表現していく。スマホで動画を撮っているのは親族だろう。どこかで耳にしたことのある曲調だが、タイトルまでは思い出せなかった。しかし大事なのはそんなことではない。

「あのさ」と啓斗は美香に小声で呼びかけた。

「何?」

「ちょっとトイレ行ってくる。やっぱり冷えたみたいなんだ」

「そう。じゃあついでに温かい飲み物でも買ってきたら? 愛梨の演奏はまだまだ先だしゆっくしておいで」

 啓斗は頷くと、祖母の視線を背中で受けつつ、大扉まで階段を上がった。喜美代には確実に怪しまれている。さっさと刑事の攻撃を振り切り、ここへ戻ってこよう。ただ、何とも言えぬ不吉な予感に蝕まれていく感覚もある。

 あの長谷川の自信、威圧感。やはりふつうの刑事とはどこか違う。まるで執着心を具現化したような男だ。

 第二休憩室には、二人の男を除いて誰もいなかった。観葉植物のすぐ近く、彼らは自販機の手前のソファに並んで座っていた。その首がくるりとこちらに向く。

「それで、話とは?」彼らの対面側のソファに啓斗は腰を落とした。すでに唇が渇き切っている。このままでは本当にお腹が痛くなりそうだ。

 口を開いたのはやはり長谷川だった。膝の上にはなぜかタブレットが置かれている。

「この際、前置きはなしにしましょう。あなたも早く終わらせたいでしょうし、早速本題に入ります。あなたは以前、埠頭の中央に車を停め、三人で海風を楽しんでいたと供述しました。それについて、何か変更点はありますか」

「ないといったら……」

「そういうなら、こちらをご覧ください」そういって彼はタブレットの電源を入れ、動画のフォルダから一つを選択し、それを啓斗に差し出した。「どうぞ」

 つまりこの動画を見ろ、ということらしい。啓斗は躊躇ったが、もう引くことはできない。魔の再生ボタンを震える人差し指でタップした。

 そして次の瞬間、天地がひっくり返るような衝撃を味わった。さすがにがくがくと体が痙攣を始めている。画面上に映し出されたのは、まさに自分たちが岸で狼狽する姿と、自慢のマニュアル車のツーショットだった。

「驚かれたようですね」塚岡がさりげなくいった。啓斗はしばらく顔を上げることができなかった。「どういうことか、教えていただけますね」

「それは……」

 長谷川は背もたれから身体を離すと、両手で自らの膝に体重を預けた。

「あなたは確かに埠頭の中央に車を停め、三人で海風を浴びていた。だが、思いがけないことが起きてしまった。停めたはずの車がなぜか前進し、それが尾上さんの背中にヒットして海に突き落としてしまった。クーラーボックス、チェアもろとも巻き込んだ。おそらくサイドブレーキを引き忘れたことが原因だろう。埠頭の縁に引っかかった車に慌てて駆け寄った君たちは、救助に役立つものがないか急いで探した。だが結局見つからず、高齢の尾上さんは海に沈んでしまう。このままだと罪に問われると思った君たちは、警察にいわずに隠蔽する道を選んだ。もし事が発覚すれば、ドライバーは致死罪に問われる可能性がある。それが怖かったんじゃないのか。だから逃げ切ることを選択した」

 いい加減にしてください! 

 という声が突然休憩室に響いた。真っ青な顔で啓斗が入口のほうを向くと、そこには喜美代が立っていた。「おばあちゃん……」

「刑事さん、私が真実を話します。それで構いませんね」

「本当のことを語っていただけるのであれば、どなたでも」長谷川がちらりと塚岡に目をやると、彼は小さく顎を引いた。

 喜美代は啓斗のとなりに座った。彼女は背筋をぴんと伸ばし、向かいの二人を見下ろして威嚇した。一点の揺らぎも感じられなかった。

「刑事さんの推測はすべて聞いておりました。ですがそれはまったくの見当ちがいです。問題の映像ですが、私たちは魚を観察していただけです。中ぐらいの魚が岸のすぐ近くで泳いでいましたので、車を近くまで持ってきて、慌てて網がないか車を隈なく探しましたが、見つかりませんでした。ちなみに亡くなられた尾上さんは、カメラには映っていない場所で釣りに勤しんでおられました。以上が真実です。これが嘘だと仰りたいなら、証拠を見せてください」

 啓斗は救われたと思った。滞っていた血流が復活し、体が蘇生されていく。

 刑事たちは何もいい返してこなかった。あと少しだったのに、という悔しさが、結んだ唇から溢れ出している。塚岡は苦しまぎれに咳払いをひとつした。

「用がないなら戻らせていただきます。啓斗、行きましょう」喜美代は啓斗の肩にそっと手を置いた。その手は温かかった。

 啓斗が静かに立ち上がると、長谷川はこちらをじっと見据えてきた。何かをいいたいのか、はたまた啓斗が真実を喋るのを待っているのか。その眼には、百戦錬磨の洞察力が宿っているように思われた。

「発表会、我々も観ていってよろしいですか」長谷川は、ほくそ笑んだ。

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