第5話

 ようやく人が集まり始めたロビーでは、小さい子がきゃあきゃあと蠅のように走り回っている。床は大理石なので、こけたら怪我は免れない。

 会場には定刻になってからでないと入場できず、人口密度は増していく一方である。まだ見ぬ舞台ではグランドピアノが設置されている頃だろう。

 ピアノの発表会ということで、どの子も親の見栄がまる出しの衣装に身を包んでいる。女の子はエレベータホール手前の鏡にうっとりし、男の子はところ構わず鬼ごっこを始めている。なかには本番前で緊張しているのか、母親のそばを離れまいとする幼稚園児の姿もあった。

 愛梨も臆病なタイプだったよな、と啓斗は懐かしく感じた。怖がりでかつ強がりなところは兄妹で共有している遺伝子なのかもしれない。彼はロビー中央に設けられた、冷房直下のソファに腰かけている。二の腕を軽くさすった。

 手持無沙汰なので、もう一度辺りを見渡した。中学生の数は十本の指に入るぐらいで、生徒のほとんどが小学生、あるいは幼稚園児だ。

 いうまでもなく、高校三年生の愛梨がこの教室の最年長である。年齢的にはもうとっくに卒業しているはずだが、教室の先生があと少しでいいから居てほしい、と要望を出してきたのだ。ぜひ発表会で一緒に連弾をしよう、というのが先生の提案だった。また、彼女の出身が愛梨の目指している音大ということもあり、続投が決まった。

 発表会のときには先生と二人で同じ椅子に座り、俗にいうF難度の曲を華麗にこなしていった。今日のラストを飾るのもこの二人である。

 そして──。

 今日は愛梨の目指す音大の関係者も出席する予定だ。教室長である鈴木千歳が人脈を使い、愛梨の腕を見てやってくれと打診したのだ。人生稀にみるチャンスだった。

 だからこそ、彼らに「あの事故」のことを決してばれてはいけない。今日までよく逃げ切ってきたものだと思う。

 特に何の才能もない自分とちがい、愛梨には音楽という武器がある。個性しだいでいくらでも羽ばたけるフィールド。それを警察ごときに奪われるなど、絶対にあってはならない。

 それにしても、あれから長谷川は一度も訪ねてきていない。やはりただの事故として処理されたのだろうか。獲物を見つけたら地の果てまで追ってきそうな刑事だったが、案外たいしたことはなかったのかもしれない。いや、しかし──。

「お兄ちゃん」と斜め上から声がした。顔を上げると、ダークグリーンのドレス姿が立っていた。

「愛梨……」啓斗はいま自分がどんな表情で、妹に顔を向けているのかさえわからなかった。

「もう心配はよそう。あれから一週間も経ってるんだよ。なんにも音沙汰ないんだよ。不幸な事故として処理されたって、あたしは信じてる」

「そうだな、そうだよな……、お兄ちゃんがこんなんじゃ、駄目だよな」啓斗はぱんと膝を打ち、無理矢理えくぼをつくって立ち上がった。「おふくろとおばあちゃんは?」

「第一休憩室で音大の先生と喋ってる。さっきまであたしも一緒にいて話を聞いてたんだけど、演奏楽しみにしてるっていわれちゃった」

「現役の先生に見てもらえるなんてこと、滅多にないんだろ? だったら全力で演奏してこい。余計なことは考えるな」

「あたしなら大丈夫だから」いつもの笑顔を残し、愛梨は休憩室へと戻っていった。

 嘘をつくのはやっぱり下手だな、と啓斗は思った。

 ババ抜きをしても、UNOをしても、いつも愛梨がビリだった。お前は弱いんだから、と馬鹿にすると、よく物を投げつけられた記憶がある。死んだ父も、母も祖母もみな面白おかしく笑っていたが。

 しかし、エレベータホールから出てきた人間を見て、啓斗の回想は吹き飛んだ。上品な芸術の舞台には似つかわしくない、人相の悪い顔が二つ。長谷川と塚岡だった。

 彼らがなぜここに? まさか、証拠を見つけたのか?

 やがて二人はこちらに気付くと、容疑者を追い詰めるような歩調で接近してきた。目まぐるしいスピードで脳が回転する。発すべき言葉が漫画の吹き出しのように、次々と浮かんでくる。

「お久しぶりです、啓斗君」そういって頭を下げたのは長谷川だ。塚岡はそれよりさらに小さくお辞儀した。

「なんの用ですか、今さら。これからピアノの発表会なんですけど」

「でも君が出るわけじゃないだろう」ちらりと腕時計に目をやる。「あと一分で入場時間か。妹さんの出番はラストらしいね。となると、君はしばらく暇なわけだ」

 うまい切り返しが思いつかない。完全に相手のペースに乗せられつつある。

「僕と一対一で話がしたい、とおっしゃりたいんですか」

「まあ、単刀直入にいえばそういうことだ。まもなく君たちは観覧席に移動するだろう。そのあと最初の演奏が始まったら、こっそり君だけ出てきてくれたらいい。いっておくが、どれだけ口裏を合わせても無駄だ。いっている意味がわかるよね?」

 単なるはったりには聞こえなかった。この刑事は確かな証拠を握ったうえで、挑発的な態度を取っている。だとしたら何を掴んでいる? 切り札は何なのか?

「前にもいったはずです。僕たちはただ埠頭で風を浴びていただけで──」

 そのとき、入場可能時刻を知らせるアナウンスがロビー内に響いた。客足が一斉にホールへと向く。我が子に頑張れよ、と声をかける父兄の声も聞こえてきた。

「じゃあ、我々は第二休憩室で待ってるから」

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