後編

 私は石ころしか転がってない湖の畔に、裏山で集めた勿忘草わすれなぐさを手向けた。

 三日前、少し離れた湖面に少女と思しき人体が仰向けになり浮いていた。

 私が発見した時にはすでに亡くなっていて、身体も腐乱していた。

 今はその遺体もなく、静かに水がたゆたうだけになっているけれど、私は手を合わせた。

 おそらくその少女は二ヶ月前にこの鬼が棲むの河原に流されてきた生け贄だった。

 私と同じ生け贄。

 遺体を見つける何日か前に、私は生け贄が乗せられた舟だけを見つけた。

 少女はおそらく自力で身体を縛る紐をほどき逃げたが、溺れてしまったのか亡くなってしまった。

 それはある意味では幸せかもしれない。

 もし生きていても鬼に食べられてしまうのだから。

 私も一年前に鬼の胃袋に収まる予定だったけれど、ここに棲む鬼のあざみさんに面白がられて、従者になった。

 共に生活を送るうちに私は彼女に「コイ」をした。

 相手のことが好きで好きでどうしようもなくて、自分だけを見ていてほしくて、時には触れたくなり、ずっと一緒にいたいと想うこと。

 それが「恋」というもので、私はまさに薊さんにそんな感情を持ってしまった。

 最初は訳が分からなくて辛かったけれど、今は薊さんが以前より構ってくれるので、とても幸せだった。

 薊さんも私に「恋」をしているので、私のことが大好きだと言ってくれる。

「なずな、またここに来ていたの?」

 臙脂色の着物を纏った薊さんがこちらへやって来る。

「何だか生け贄だった女の子が可哀そうになってしまって……また花をお供えしてました」

 薊さんは心配そうに私の頬に触れて優しく撫でてくれる。

「なずなが気に病むことはないわ。死んでしまったのは彼女の運命だったのよ。さぁ、家に戻りましょう」

 私は薊さんに手を引かれてその場から離れた。

(薊さんの手、温かいな)

 何度も触れたことがあるのに触れるたびに心の中が満たされてゆく。

「また来年、生け贄が来たら薊さんはどうしますか?」

「この湖は広いから、毎年必ず生け贄がこの緋の河原にたどり着くわけではないのよ」

「そうなんですか?」

「ええ。なずなとあの亡くなった少女はたまたまここに流れ着いただけ。何も来ない時もある」

「ここに来なかった生け贄はどうなるのでしょう?」

「他の鬼の元に行くか、どこにも着かずに湖上で死んでしまうかのどちらかでしょうね」

 


 家に戻り、私は人間を解体する時に使われる板の間に入った。

 あちこちに赤黒い血が染みとなって、生臭い匂いを放っている。

 鬼の世界に人が生け贄以外で迷い込むこともあるらしいが、ほとんど遭遇することはないと聞いた。

 なのでここで解体されるのは、人よりも獣の方が多いと後で知った。

 私も薊さんがどこかで捕まえた獣を解体しているのを見たことがある。

 その獣の肉を何度も振る舞われた。

 私はそれまで魚や野菜しか口にしたことがなかったから、最初は獣の肉は苦手だった。生肉というのは鬼が好物でも、人間の私の舌には合わなかったのだ。

 それに気づいた薊さんは、香草と焼いたり、汁と似たりして食べやすいようにしてくれた。

 おかげで私も今では獣の肉も美味しいと感じるようになった。

 薊さんも調理された肉を食べるけど、やはり生肉が一番好きらしい。

 それより更に好きなのが血だ。

 特に人間の血は美味しいと言う。

(毎年生け贄が来ないなら、来年も薊さんは好物を口にできないかもしれない)

 私は好物の鮭を薊さんが何度もおかずとして出してくれて食べているのに、何だか不公平に思う。

(私の腕か足の一部でも食べてもらえば、薊さんは満たされるだろうか)

 私は部屋の隅に置かれた鉈を持ち上げた。

 きっと切り落としたら痛いに決まっている。

(でも薊さんが喜んでくれるなら…)

 鉈を掴んだ右手を振り上げ、左腕に落とそうとしたけど、寸前で止まる。

(やっぱり、怖い)

 薊さんの牡丹の花がふわりと花開いたような笑顔を思い出す。

(大丈夫、薊さんを喜ばせてあげなきゃ)

 私は鬼の毒が変な作用を起こして死なない身体になってしまった。

 腕を一本落としたところで死にはしないはず。

 再び鉈を振り上げるが振り下ろせない。

 右腕を薊さんに強い力で掴まれていた。

「なずな、何をしようとしているの?」

「薊さん……。私の身体を食べてもらおうと思って」

「はぁ……。もうあなたは本当に突拍子もないことばかり考えるんだから。見つけるのが遅かったらどうなっていたか…。あなたは普通に生きていたら死なないけれど、大きな怪我をしたら簡単に死んでしまうのよ。想像しただけで血の気が引くわ」

 薊さんは私の手から鉈を取り上げると、離れた場所に投げて、私を抱き寄せる。

「私はなずなを食べたいなんて思わないから、こんなことはやめなさい。絶対に」

「でも薊さん、人間を食べたくならないですか? 私、前は鬼に食べられるなんて怖いと思っていたけど、今なら薊さんに食べられてもいいと思ってます。大好きな人の糧になれるなら幸せです」

「そんなことをしたら私が不幸になるから駄目よ。別に人を食べないと死ぬわけではないし、獣の肉でも充分。だから、二度と私に食べさせようなんて考えないで。分かった? 分かったならきちんと返事をしなさい」

「……はい。私が死んだら薊さんは不幸になるんですか?」

「当たり前でしょう? 大好きな人がいなくなってしまったらそれは不幸よ。なずなは私が死んだらどう思う?」

「それは…嫌です。薊さんがいないなんて嫌だ……。ずっと一緒に………いたい………っ」

 薊さんがいなくなったことを想像したら涙が溢れた。

「泣かないで。ずっと側にいるから」

 柔らかい薊さんの指が私の目元を拭うと、顔を近づけて唇を重ねる。

 まるで私の口を食べてしまうかのように、唇と唇を絡ませて、私は気持ちよさに身体の力が抜けそうになる。

 離れそうになったところで私は更に薊さんに身体を寄せて抱きつき、おねだりをする。

 薊さんはまた私と唇を合わせる。

 しばらく私たちはそうやって触れ合っていた。

「なずなって欲張りね。いけない子」

「だって、こうやって唇を合わせると幸せな気持ちになれるから……」

「そうね、ここよりマシなところで続きをしましょうか」

 私たちは他の部屋に移ると、また飽きるまで唇を求め合った。





 私は字が読めなかったし、書くこともできなかった。

 今では薊さんに教わったおかげで理解することができる。

 この屋敷には書斎と呼ばれる、本ばかりを集めた部屋があった。床の上に山のように本が積まれている。 

「何でも好きなものを読んでいいのよ」

 私は薊さんから許可をもらったので、いつでも読んで楽しめる。

「女同士の『恋』の話は何故ないんだろう」

 たくさんある本の中には、私が知ったばかりの恋の話があったけれど、どれも男と女しかない。

 薊さんと私は女同士だから、女同士の恋の話を読みたいのに。

「探したら見つかるかな」

 全部の本を読み終えるのに何十年かかるか分からないくらい量がある。この中に見つけていないだけであるかもしれない。

「なずな、面白い本、あった?」

 薊さんがやって来たので、私は読みたい本について聞いてみた。

「私、女同士の恋の話が読みたいです。どこにありますか?」

 薊さんは少し困った様子で床に座る私を見下ろしている。

「ごめんね、なずな。恋は本来、男と女でするものなの。だから女同士の恋の物語はないのよ」

 それは初耳だった。

「何でですか? 私だって本の中の恋人たちみたいに薊さんと過ごしているのに、女同士の話がないのはおかしいです」

「納得できないかもしれないけど、そういうものなのよ。ここでは私が規則。だからなずなと私が愛し合って恋してもいいの。お話は所詮作り話なのだから、そういうものだと諦めないと」

「…………」

 いくら薊さんが言うことでも、やはり私は納得できなかったが、諦めるしかないのだろう。

「それでは薊さん、こちらの本に描写されてるような行為はできますか?」

 私は別の本を取り出した。

 その本では男と女が裸で抱き合い、触れ合っている内容だった。情交というらしい。

「快楽がすごいらしいです。女同士でもできるのでしょうか?」

「もう、なずなって本当にいけないことばっかり言って!」

 何故か薊さんは顔を朱色に染めて怒っている。

「私も薊さんとしてみたいです」

「も、物事には順序があるのよ。なずなは今すごく恥ずかしいことを言ってるのよ。駄目よ。この手の本は読むのは禁止。次にこんな事を言ったら本当に食べてしまうわよ」

 薊さんはすごく狼狽していた。

 困惑させるようなことを言ってしまったらしい。

「でも、薊さんはこの間、私のことは食べないって…」

「………また別の話よ。中途半端に物を知らないのも困りものね」

 気難しそうに眉根をよせて、薊さんは部屋を出て行ってしまった。




 屋敷の裏には小川が流れている。透き通った水がさらさらと流れ、川底まで見渡せる。

 私は網と銛を持って、魚を捕らえるために川に入った。

 ここにいる魚はあまり大きくはないが、味が良いので持って帰ると薊さんが焼き魚にしてくれる。

 私は何度か魚を捕獲するうちにやり方を覚えて、二人分の魚くらいは調達できるようになった。

 今日も夕飯用の魚を捕まえられたので、帰ろうと思い川を横切って岸に向う。

「………!!」

 岸の方ばかりに目をやっていて足元を確認していなかった私は、右足のすねを岩にぶつけてしまった。

「……った……」 

 何とか網を落とさなかったので魚は無事だ。

 私は右足を引きずりながら進んだが、今度は川底の石についたぬめりに足を取られて尻もちを付いた。

「着物が……」

 私の着物は毎日、薊さんが私に合うものを選んで渡してくれる。

 菜の花色の着物は水分をたっぷり吸い込んで重くなった。

 岸に上がり、取り敢えず着物の裾を絞って水気を逃したが、大して意味はなかった。


「なぁに、川で転んだの?」

 ずぶ濡れになって戻った私を見て、薊さんは呆れたように笑う。

「ごめんなさい、着物……」

「洗って乾かせば済むのだから、そんな気落ちしなくて大丈夫よ。この魚は後で焼いて食べましょう。その前に着替えないと」

 薊さんは薄紫色の着物を取り出し、私が着ている濡れた着物を脱がす。

「足……どうしたの?」

 さっき岩にぶつけた所が大きな痣になっていた。

「川で岩にぶつけてしまいました」

「もう、痕になったらどうするの!? 大きな怪我じゃなくてよかった。しばらくは魚捕りは禁止」

「魚捕りも禁止ですか?」

「そうよ。川に入るのも駄目。なずなは迂闊だから、いつか取り返しのつかない怪我をするんじゃないかって心配なのよ」

 薊さんは別の部屋から薬と布を持って来ると手当してくれた。

「治るまでは家で大人しくしてるのよ、いい?」

「これくらい平気ですよ」

「駄目」

 有無を言わさない力強さで言われては逆らえない。

「魚……」

「なずなは魚好きよね。大丈夫よ、私が捕って来るから」

 私は薊さんの従者のはずなのに、最近はすごく大切にされすぎて従者としての勤めを果たせなくなることがある。

 だけど、薊さんはそれでも構わないらしい。

(これも恋してるから…?)

「………薊さん、足が……痛いです」

 本当は少しずきずきとする程度だけれど。

「私の言う通りに大人しくしていれば、すぐ治るわよ」

「それよりもっと治りそうな方法があります」

「どんな?」

 私は薊さんの腕の中に飛び込んだ。

「いっぱい抱きしめてもらったら治りそうな気がします」

「なずなは甘えん坊ね」

 思いつきのでまかせだったけど、薊さんは拒否したりせずに私を抱き返してくれる。

「…甘えるのも禁止、ですか?」

「それは禁止してないから、たくさん甘えていいのよ」

「そうします」

 日が暮れるまで私は薊さんの胸の中で幸せを噛み締めていた。

 




 満月が皓々と照らす中、私は廊下を走り目的の部屋へ滑り込んだ。

「薊さん! 契りって知ってますか?」

 私は書斎から見つけた本を開いて見せた。

「そんなに慌てて藪から棒に…知ってるわよ」

「男女がずっと一緒にいるって約束を交わすんです。契りを結ぶって言って。私も薊さんとこれをしたいです!」

「意味も分かってるから。本当、なずなって積極的よね。そんなに私が好き?」

 薊さんは妖艶な、でも穏やかな眼差しで私を見つめる。

 毎日顔を合わせているのに、鼓動が早くなる。

 一緒にいると落ち着いて安心して身を預けられる時と無性に胸が高鳴ってそわそわする時がある。

 でも恋というのはそういうものらしい。

「……大好きですよ。すごく。ずっと一緒にいたいって思ってます」

「私も同じ気持ちだから、いっそのこと祝言でも上げてしまおうかしら」

「シュクゲンって何ですか?」

「契りみたいなものよ」

「そうなんですか? 薊さんが私のツマになるんですよね、ツマ」

 意味は薄っすらとしか分かっていなかったけど、ツマという響きにうっとりする。

「もう、しょうがない子なんだから」

 薊さんは特別な存在で、私にはいなくてはならない人。たとえ鬼だとしても。

 身体が土に戻るまで、永遠にこの人と生きられたらどんなに幸せだろう。

「薊さん、大好きです」

「うん。私もなずな、愛してる」

 私たちは手を繋いで夜空に浮かぶ満月を眺めていた。

 側にいてお互いの温もりを感じているだけで、全ての幸福を手にしてしまったような高揚感に包まれる。

 私は家族もいなかったし、ただいつか捨てられるためにだけに、生かされてきた生け贄だった。

 今は薊さんと出会ってこんなに人生がきらめいていたことはない。

 生け贄になっていなければ、この大切で好きでたまらない人にも出会えなかったから、運命とは不思議だ。

「なずなにもっと触れたいのだけど、いい?」

「もちろんですよ」

 薊さんはゆっくり私を押し倒した。

 身体の上に感じる薊さんの重みが心地よい。

 何となくどうなるのか分かるような、分からないような。

 少しの緊張とはやる気持ち。

 重ねられた唇が蕩けそうなほどに甘くて恍惚となる。

 私たちは月明かりも気にせずに夜と共に愛を深めたのだった。

 



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生け贄と鬼 砂鳥はと子 @sunadori_hatoko

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