最終話 夏の病気

「西倉」


 私を呼ぶ声に、心臓が止まりそうになって驚いて私は振り返った。お寺をでたすぐそばの自動販売機の前に青山くんがいて、私を見つけるなり走って近づいてきた。


「なんで、いるの?」

「いや、そもそも俺を置いて先に変えるとか非常識すぎねえか。先にそこの謝罪からだろ」

「あ、えっと。そうだね、ごめん」

「いや、別に。翔真から話聞いて、西倉ががんちゃんの話聞いてどこ行くかって考えたらここかなって思って」

「そう」


 青山くんが安心したように小さくため息をついて、私を見た。「泣いた?」と突然聞かれて、私はかぶりを振りながら「泣いてないよ」と答えた。

 青山くんは「そっか」と言ったきり、しばらく喋らなくなって、なんとなく私たちは一緒にバス停のほうまで歩いて行った。


「がんちゃんの秘密さ」

「……」

「翔真は教えてくれなかったけど、お前は分かったんだろ」

「……」

「言いたくないなら別にいいけど、西倉はそれでいいの」

「……それでいいって、どういう意味?」

「この先、ひとりで抱えて生きていくわけだろ。翔真があれだけ後悔の念を抱いてるくらいだし、きつくねえのか」

「そう、だね。そうかもしれない。だけど、それでいいの」

「傷ついてもいいってことか?」

「うん。大丈夫、私はそのぶん幸せになるから」


 バス停の近くまで来て、私は青山くんの手をそっと握った。

 最初は驚いたようにびくりと震えた手が、ゆっくり、力強く私の手を握り返してくれる。


「ずるいよね、私」

「そんなことないと思う」

「ううん。ずるいと思う。ごめんね」


 誰に対してのごめんね、なのだろう。

 茜に対してだろうか。それとも岩田くんに対してなのだろうか。

 もしかしたら青山くんに対してのごめんかもしれない。

 

「明日からどうしようか、俺たち」

「そんなの、決まってるよ」


 夕日が沈んできて、空がゆっくりと闇に染まっていく。

 バスが来るまでの間、私たちはずっと手を握ったまま確信の持てない未来の話をする。明日からは、めでたく留年の決まった青山くんのために勉強会をしようと言うと、彼は笑っていいねと言った。

 しばらく手を繋いでいると、手汗が気になって私は途中でそっと離そうとしたけれど、彼の手はそれを逃がさないように強く指を絡める。

 まるで、もうどこにもいかないで、と言われているように感じた。


 私たちはまだ、迷子のままだ。この先、どこにいけばいいのか、どうやって生きていけばいいのか分からないまま。


 青山くんと一緒に歩いていく未来だって不確かなものでしかない。

 それでも、一歩前に進めば何かは変わると思った。

 きっと、明日。何もないありふれた、幸せな一日が始まる。

 だけどそれが日常になったとしても、あの夏の日のことを私はきっと一生忘れないだろう。青山くんも、茜も、同じだと思う。

 逃げ出すほうがきっと簡単だ。それでも、私は前に進んでいこうと思う。


「好きだよ、西倉」


 その優しい声は毒薬か、媚薬か。

 私はきっとこの優しさに堕ちていく。次はきっと私だと思う。

 あの夏の日のことが思い出せなくなるくらい、私は彼と幸せに生きていく。それが、私の出した答えだ。どうぞ、岩田くん。



 天国で私のことを恨んでください。



 

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夏の虫は氷を笑った 花乃 @loveberry

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