空に走る

西木 草成

 

 夫のつかさが死んだのは、彼が大好きだった梅雨明けの匂い香る八月の始まりのことだった。


 喪主として、毅然とした態度をしていたものの目の前の焼香台で消防士だった彼の職場の友人が一礼するたびに涙を零さないようにするので必死だった。


 ふと、前を見れば生前の眩しい太陽のように笑っている彼の遺影が私のことを見ているようだ。


「故人の、最後のお別れです」


 アナウンスと共に全員が席を立ち、全員が夫の眠る棺の中を覗き込みながら明るく死者に思い出話を語りかける者もいれば、感極まって隣の友人と思しき者の肩を借りてすすり泣いている姿もある。


あおい、最後に。ご主人の顔を見なくていいのかい?」


「え……、うん……」


 後ろに立っていた母の声にもうまく返事をすることができたかわからない。自分でも良くわかるほどおぼつかない足取りで棺へと近づく。喪主が近づいているのだから当然のように道を開ける周りの人達の表情は暗い。それもそのはずだ、人が死んだのだから暗い表情もするに決まっている。だが、それが今はひどく怖い。


 恐る恐る棺の中を覗き込み、最愛の夫の死顔を拝もうとして視界が激しく揺れる。


 すでに枯れたと思ったのにパタパタと両目から壊れた水道のように溢れる涙が、痩せこけて遺影とは似ても似つかない夫の微動だにしない頬骨をゆっくりといって吸い込まれてゆく。


 骨肉腫と診断されたのは、一昨年の冬だった。仕事で怪我をし、消防士という職業柄いつもの怪我だと思った矢先だった。左肩にできたそれは、すでに肺にまで転移していて手のつけようがなかった。


「ごめんな、あお。今年は東京マラソン行けないなぁ」


「今は治ることだけ考えて。治れば何回だって付き合ってあげるから」


「あおは運動が嫌いだからなぁ。俺が無理やり誘わなきゃ絶対に行かないだろ」


 入院と抗がん剤治療が始まったのは診断されたすぐ後で、副作用で髪が抜け落ち、止めどなく押し寄せてくる吐き気に襲われながらも彼はいつでも気丈に不安げな表情を浮かべる私に太陽も吹き飛ばすような笑顔を向けてくれた。


 そんな彼が、心の底から大好きだった。


 そもそも、詞と出会ったきっかけが友人に無理やり誘われた一般参加枠の東京マラソンで、運動音痴で体力のなく友人に置いてかれてしまった私に詞が声をかけて一緒に走ってくれたのが出会ったきっかけだった。そこから、運動不足解消も兼ねて東京マラソンに向けて詞と一緒に一年練習を積み重ねながら参加することが通例行事になっていた。


「来年辺り一緒にマラソン行けるかなぁ? 俺、あおが走ってるの見るの結構好きなんだよ」


「なんでよ、私。運動音痴なの知ってるでしょ」


「小動物が走ってるみたいで結構可愛いぜ?」


「身長気にしてるの知ってるくせに、もう知らない。治っても絶対にマラソン出てやんない」


「ごめんごめんっ! この通りっ! 絶対に、来年には治すから。一緒にマラソン出ようっ! この通りっ!」


「ハァ……、次身長について弄ったら許さないからね。それに、約束だからね。絶対に元気になって一緒にマラソン出るんだからね」


「あぁ。もちろん、約束だ」


 何もかもが絶望的に見えた私を笑わせてくれたのは、常に夫だった。そんな彼が、死んでしまうだなんてとても信じられなくて、そしてそれはあまりに突然で。


 梅雨の開けた、雲の割れ目から彼の大好きな太陽がようやく見え始めた季節だった。


『ご臨終です』


 死に際なんか、到底会えるはずもなかった。


 人は突然死ぬものなんだと改めてよくわかった。


 病院からの知らせを受け取って駆けつけたときには医者が彼の胸を叩き潰すような勢いで心肺蘇生を行なっている最中だった。そして、そんなことをされても微動だにしない彼を見て恐ろしくなって膝がすくみ病室の床にへたれこんだのは今でもよく覚えている。


 遺書は彼の病室の机の中に見つかった。普段の彼から想像できないほど弱々しくか細い文字で、遺産の相続先と職場の人に向けて、そして最後に私に対しての感謝と謝罪が書かれて終わっていた。


 色々言いたいことはあったのに、たくさんやりたいことがあったのに。


 来年は東京マラソンに一緒に出ようって言ってたのに、


 それなのに、


 それなのに、


 それなのに、


 すでに物言わぬ彼に何を言っても響かなくて、徐々に冷たくなってゆく彼の体をたくさんの涙で溺れさせながら一晩を過ごした。


「出棺です」


 車のクラクションの音と共に、夫を乗せた霊柩車が葬儀場を出てゆく。ほとんど記憶がないまま、葬儀場のマイクロバスで火葬場へと連れていかれる気分は死刑執行を待つ囚人のような気分だった。


「お母さん……。私、ダメかもしれない……、もう」


「気をしっかりしなさい。あなたにはまだこれからがあるんだから」


「……本当に、そうかなぁ……」


 火葬場には先程までの夫の友人はおらず、ほとんど夫の親戚と私たちだけだった。夫が死んでからよく会うようになった相手側の家族は大変優しく、何かを考えられる状況でなかった私に変わって今回の葬儀を取り繕ってくれた。


 そんな彼らに何か言葉をかけられているけれども、目の前で棺の中に収まっている夫の最後の姿を見たときにはすでに遅かった。


 お願いです、連れていかないでください。


 お願いです、連れていかないでください。


 お願いです、連れていかないでください。


 私を置いて、先に行かないで。


 気づけば私は子供のように泣きじゃくって、火葬されそうになっている棺にすがり寄っていた。


………………………………………………………………………………………


 葬儀から一ヶ月が経ち、夫の身辺整理がほとんど済んで元々手狭だった部屋が一人分ぽっかりと穴が空いたみたいになってしまった。その開いた穴を埋めるように、彼の遺骨と遺影が飾られている。改めて、私は彼の存在がどれほど大きかったのかを知ってしまった。


 食事は取れない、それに食事をしたところで味がしない。


 仕事には身が入らず、休職した。


 今では、一日の時間の感覚がおかしくなって。パソコンの中にある彼との写真を漁る毎日で、気付けば気を失うように眠って、彼の夢を見て、目が覚めて彼がいなくなったことに泣いて、またパソコンを見ている毎日だった。


 スマホに入った留守番電話の通知はすでに百件を超えて、今ではバイブ音が鳴るだけでも彼からの電話がきたのではないかと期待してしまうので電源を切ってしまった。


「……こんなに、私。弱かったんだ」


 パソコンのデスクトップには初めてマラソンを完走した時の記念に撮った写真が大きく写っている。ひどく疲れ切った表情の私と、疲れを一切感じさせない太陽のようなあなた。


 締め切ったカーテンの隙間から、あなたの大好きだった太陽がよく見えた。


 私も、今行けば。あなたに会えるのかな?


 こんなところにいる意味なんてないじゃない。


 もう、私と一緒にこれから先一緒に歩んでくれるあなたはもういないじゃない。


 一緒に、マラソンを走ってくれるあなたはもういないじゃない。


 あなたに合わせて買ったスポーツウェアも、スポーツシューズも、お揃いの水筒も、全部見ているだけで辛いだけ。


 なら、私も。


 なら、私も。


 なら、私も。


 彼の遺骨の入ったペンダントを握りしめて鴨居にぶら下げて置いたロープを手にとり、足場のテーブルの上に乗り輪を首に通す。きっと彼は怒るだろうな、そんなことはよくわかっている。


 けれども、もう。耐えられないんです。


 テーブルを蹴って、ロープに体を預けようとした時だった。


『斎藤 葵さん、メールが一件届いてます』


 とこか気の抜けた電子音が空虚の部屋に響いた。それは、詞が便利そうだといって買ったアレクサで、パソコンと連動して通知を知らせるものだった。突然のことに、踏み出そうとした足が止まる。


 企業のスパムメールだろうか。そのあまりのタイミングの良さに思わず顔をしかめてしまうが、そのタイミングの良さ故にどのような内容なのか気になってしまった。


 ロープを外し、テーブルから降りる。


 パソコンのデスクトップに表示されたメールボックスの着信履歴を起動して中身を確認しようとして、その件名を見た瞬間に思わず目を見開いた。


「え……、どうして」


『東京マラソン一般参加者、応募通過のお知らせ』


 もちろん、今年の東京マラソンの一般参加など応募した記憶がない。とっさにメールの内容を確認をすると、そこには件名にもあった通り来年の東京マラソンの一般参加の応募に通過したという旨の内容が書かれていた。


 参加者の名前は二人。


 斎藤 葵


 斎藤 詞


 と書かれていた。


 こんなことをする人間は一人しか知らない。間違いなく、夫の仕業だ。けれどもどうして、私に一人寂しく長いコースを走れというのだろうか。


 あなたがいたから走っていたのに、運動嫌いの私がついて行こうと思ったのに。


 思わずパソコンの電源を勢いよく引き抜き地面に叩きつけようとする。悔しくて涙で顔がグシャグシャになって、持ち上げたパソコンを振り下ろそうとした時に、彼が言っていたことを思い出した。


『来年辺り一緒にマラソン行けるかなぁ』


 頭上で振り下ろそうとしたパソコンが止まる。鼻をすすり、ディスプレイの文面を読み返しそこに並んでいる私と夫の名前を確認した。


 私は約束をしていたのだ、夫と一緒にマラソンに出るんだと。同時に、自分自身が酷い状態にあったにも関わらず夫は約束を守ろうとしていたのだ。だが、今年は一緒にマラソンに参加してくれる夫はすでにいない。


 体力のない、身長もない、運動音痴で走るのが苦手な私を隣で励ましてゴールに導いてくれる大好きな彼はいないのだ。


 あぁ、なんて残酷なのだろう。


「約束破ってるじゃない……、バカ……。一緒に出ようって言って約束したじゃない……」


 私は彼の遺骨の入ったペンダントを握りしめた。同時に思い出されるのは、初めて彼と東京マラソンで出会ったときの記憶。もう彼は死んでいるはずなのに、


 走りに行け、そう言われたような気がした。


……………………………………………………………………………………………


 東京、三月某日。


 一般参加枠のコースに私は立っている。どこか不恰好なスポーツウェアにスポーツシューズ、そして首には彼の遺骨が入ったペンダント、そんな彼とお揃いだった水筒を腰に下げている。


 周りの人たちも自分と同じような格好をしているけど、やはりペアになっている人の方が目立って見えた。けれども、私は不思議と一人で走るという気持ちはなかった。今回は、無事に完走をすることができるのだろうか。


 でも、完走できなくても大丈夫。


 また、今度があるのだから。


 私は、決して一人じゃない。


 遠いところで、スタートの合図が鳴るのと同時に全員が一斉にゴールに向けて走り出す。全員が何かを抱えながら、時には支えあいながら走ってゆく。


 その歩みは長くて、遠くて。











『さぁ始まりました。東京マラソン一般参加枠です、今年は珍しく生憎の雨でランナー達にとっては災難でしたが、ご覧ください。空は青空で澄み切っており、懸命に走るランナー達を応援するかのように太陽が暖かく出迎えております———』











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空に走る 西木 草成 @nisikisousei

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