ロンサムジョージが死んだ
藤光
ロンサムジョージが死んだ
1
すすけた振り子時計が、こちこちと時を刻む。座敷奥の続きの間、きれいにほこりが払われた鴨居の上に時計は据えられている。
座敷の障子戸は大きく開けられ、縁側の雨戸も開け放たれて、座敷には湿った土の匂いとはかなげな雨音が流れ込んでくる。
4月、雨が桜の花を濡らす午後、トキオは、縁側に置いた座椅子に背を預けて、小さな庭を眺めていた。庭は、トキオ自身が造作した。小さな池が掘られ、地面は一面に苔むしている。池には、錦鯉を放したいと考えて手を尽くしたが、いまではそうしたものは手に入らなかった。縁側から眺められる桜は、トキオが生まれる前から家の脇にあるもので、年を経た老木にも関わらず、毎年、たくさんの花を咲かせては目を楽しませてくれる。
医学の進歩は、彼の最期を5ヶ月後と予言していたが、死の予兆はまだいかなる形でも彼のもとに現れてはいなかった。
いままさに満開を迎えようとする桜の花弁は、雨の雫をいっぱいに孕んで美しい。枝から離れ、庭の苔の上にいくらか舞い散っている様子まで一幅の絵のようだ。トキオは桜が好きだった。この花のようにありたいと願ってきた。
しかし、現実には老醜を晒してきた。悪あがきを繰り返してきた。種の絶滅を食い止めるため、あらゆる手立てを試みてきた。そうして、彼がたどり着いた結論は、人類の滅亡は不可避であるという非情なものだった。
この世界に、人類は彼ひとりしか残っていなかったのだ。
トキオが、物心ついたころ、彼の住む町には老人しかいなかった。共に遊んだ友達や父母の記憶はなかった。家族はおらずとも、町全体が家族のような小さな町であり、そこでトキオは何不自由なく成長したが、いつもひとりで遊び、ひとりで学んだ。ずっとひとりだった。
15歳のとき、町を出た。自分のような子供を探そうといくつかの町を訪ねて歩いた。しかし、多くの町は既に廃虚となっており、人の住む町があっても、何十年も子供は生まれていなかった。数年を経ずにトキオは故郷の町へ戻った。
そのとき、満開の桜が彼を出迎えてくれたことを、トキオは今も鮮やかに思い出すことができる。
振り子時計が時を告げた。続きの間を振り返って時計を見ると、2時半だった。座椅子から腰を上げると、ひとつ伸びをして、座っていた椅子を続きの間の押入れにしまい、かわりに座布団を出して座卓に向かい合わせに敷いた。
まだ桜を眺めていたかったが、戸外の空気はまだ肌寒い、座敷と縁側を隔てる障子を閉めると、雨音が少し遠のいた。もう少し時間はありそうだ。
廊下に出、四方の書棚がさまざまな書籍でいっぱいの書斎から、黄ばんだノート数冊を持ち出して座敷へ戻った。表紙に「調査記録」とあるノートを座卓の上に広げ、頬杖をついて読み始めた。
2
――11月3日、あと154人。病院での調査を終えた。求めるものはここにはなかった。ただ検査の結果、自分に生殖能力がほとんどないことがわかった。これでは、たとえ伴侶を見つけたとしても、子孫を残すことはできそうにない。
――3月28日、あと122人。我々を滅ぼそうとしているものは、悪意をもって作られたものではなかった。むしろ、老若男女を問わず人々に喜んで迎え入れられ、瞬く間に世界中の食卓に並ぶようになったものだった。それは、調味料だったのだ。
素材を選ばず味覚を引き立てる魔法の調味料は、人類の生殖機能を著しく減衰させる副作用を持っていた。そして、そのことが明らかになり、調味料の製造が中止されるまで30年の月日を要したことで被害は全世界に広がってしまった。
さらに我々人類にとって不幸なことに、この生殖機能を減衰させる物質は、排泄されることなく体内に留まり、母体を通して胎児に受け継がれることも判明した。
人類は緩慢に、しかし確実に滅びの日を迎えることとなったのだ。
――6月30日。あと101人。ここのほかに町はない。この町は、世界中から生き残った人を集め、150年前に作られた。周囲の衛星都市を含めて、人口は約1万5000人だった。……ほかに町はない!
――7月14日。あと99人。どうすればいいんだ、私は無力だ。
――8月10日。あと93人。なにもせず嘆いていたところで道が開けるものでもない、今さらながら細胞資料となり得るものを集め始めた。生者からも、死者からも。罰当たりめ!地獄行きは間違いない。
――10月10日。あと85人。何日も図書館に籠る日が続く。様々な文献から断片的に分かったことを総合すると、過去において、生物クローンの作成技術が確立されたことに間違いはない。しかし、倫理的な問題からその技術は失われ、現在に伝わっていない。いまその技術が必要とされている。切実に。
――2月28日。あと58人。だめだ。みるべき文献や資料は膨大だ。もっと時間がほしい。時間だ!
――7月31日。あと24人。生存者は私を除いて全員が、生命維持装置なしでは生きていけなくなっている。冷たい機械に収められた生ける屍。こうまでしなければならないのか。人が生きるとはどういうことをいうのだ? しかし、いまの私にこの装置が外せようか!
――10月5日。あと19人。先月来、断片的な情報を元に、ヒトクローンの作成に入った。経過は思わしくない。クローン胚が成長しない。ベースとなる細胞に瑕疵があるのか、手順に問題があるのか、作業環境が不適格なのかチェックすべきことは多いが、残された時間は少ない。
――12月7日。あと8人。ヒトクローンの作成で進展はない。作業は継続する。そして、ヒトクローンとの比較検討のため、動物クローンの作成にも着手する。比較的クローンの作成が容易な種があることは、過去の記録から明らかである。私の方法でクローンが作成できるのか、確認する。
――4月2日。最後のひとりが亡くなった。私は、本当にひとりになってしまった。
――8月17日。いくつかのクローン胚を成長させることに成功した。慎重に作業を進めている。無事に成長していくかどうかはわからないが、これは希望だ。私は、いま人類の希望を育てている。
――11月30日。クローン胚はすべて廃棄した。すべてが滑稽な私の一人芝居だった。無意味だ。すべてが!
――12月3日。誰が読むのか。おそらくは誰も読まないであろう、この記録の最後に結末を記す。11月29日、私が図書館のデータベースで見つけたものは、ある研究記録だった。それは私が探し続けてきたものであり、いま私が行っている作業そのものの研究記録、すなわちヒトクローンの作成についての記録だった。
記録によれば、人類の絶滅を回避するため、15年にわたる試行錯誤の末に、研究チームはひとつの成果を上げた。完全なヒトクローンの作成。1,970例の中でただ1例のみ、クローン胚を成長させ、ひとつの生命にまでこぎつけることに成功していた。完全なヒトクローン、『彼』の名はトキオ・ワタル。すなわち『私』である。
私は、生後すぐに全身をくまなく検査され、生殖機能をほとんど持たないことが確認された。人類の生殖能力の減衰は、ヒトの個体レベルの問題ではなく、母体から汚染物資を受け継いでいないはずの赤子の遺伝子にまで烙印された呪いであったのだ。ヒトクローン研究は中止され、研究チームは解散した。
父母の記憶がないことを不思議には思っていた。町の老人たちが、私との関わりを避けようとしていることも理由がわからなかった。
しかし、いまようやく私にも分かった。彼らの罪が。私が犯そうとしていた罪が。
3
振り子時計が3時を告げた。がらりと玄関の引戸が開けられる音が聞こえた。
あいつは、いつも時間に正確だ。
「ごめんください」
トキオはノートを座卓に置くと、腰を上げた。
4
部屋に入ると、一組の男女が待っていた。女は、ドアから見て左手奥の大きな机の向こうに腰を下ろし、男は机の前に据えられている黒いソファで体を起こし、灰皿の上で煙草の火をもみ消したところだった。
鮮やかな青いスーツを着こなした学長のアカネと、何日も前から着続けの白衣をセーターの上に羽織った主任教授のタカシである。
「ご老体は、お元気だったかな」
学長を差し置いてタカシが口を開いた。マモルが、ソファのそばで足を止め、アカネをうかがうと、目で話の続きを促された。主任教授の無礼には慣れっこだ。
「お元気でした。学長や教授によろしくと言付かってきました」
くだらんと吐き捨てるように言ってから、タカシは続けた。
「あの老人は、『大学』へは出てこんのか。あのすきま風の吹き込む小さなあばら家で生涯を終えるつもりか」
「博士に『大学』へ来られる意思はありません。自分は『町』を出ないとおっしゃっています」
「旧時代の骨董品に囲まれ、500年も昔の生活を楽しむ。本人はそれでいいか知らんが、迷惑な老人だ。自分は霞を食って生きているつもりでいるのか」
実際、博士の生活を支えているのは、大学だ。食料の生産、住居の修繕、衣服の製作など博士の身の回りのあらゆる物は、大学とその学生たちが調達している。
「博士は、人が人らしくあった頃を感じていたいとおっしゃいますが」
「確かに彼はヒトだがね。我々をウシやウマと同じように扱う権利を持っているわけではないよ」
「教授」
学長席でやりとりを見守っていたアカネが口を開いた。
「心にもないことを。博士は私たちにとってかけがえない存在でしょう。博士を貶めるのは、私たち自身を貶めることと同じよ」
タカシは答えず、黙って深くソファに体を沈めた。アカネは向き直り、改めてマモルに報告を求めた。
「博士は『町』をでないとおっしゃったのね」
「はい。思い出が詰まった家を離れることはできないと。お体のためにも大学へおいでくださいとお願いしたのですが」
博士は、死ぬことはどこであっても変わらないよと笑って、マモルの申し出を断ったのだった。そして、こう言った。
『お前たちには、感謝している。ありがとう』
「ありがとうか、別れの挨拶のつもりか。私は納得せんぞ。彼の死は、ヒトの死を意味するんだぞ。そして、それは大学の技術により回避できるものなのだ」
そう言ってタカシは、煙草入れから一本抜き出すと、火を付けた。そして続けた。
「研究者として、ヒトの絶滅を座視することはできない。そうだろう」
タカシは、マモルに同意を求めた。
「ぼくはそう思いません……」
教授の表情に意外が動き、煙草をくわえようとする手がとまった。
「むしろ博士の考えは、自分こそ最後のヒトでおろうとするところにあると思います」
そう、アカネやタカシが何と言おうと、博士の想いを伝えよう。
「教授の言う技術による複製は、ヒトではあっても、博士ではない。博士自身が複製(クローン)として……、生殖異状を抱えて最後のヒトとしての宿命を負って生きてきた、そうした重荷を次代のヒトに負わせたいはずがありません」
タカシは、煙草を持った手を差し上げて反論した。
「なにを馬鹿な……。ヒト種族が世界から絶滅しようとするときに、最善を尽くしてこれを避ける。なぜそれが否定されねばならん? あの老人――博士が、我々を創造したのは、かかる事態を回避するためだったはずだ!」
「そうです。人類の絶滅を回避するため、ヒトの生殖機能情報を動物のもので上書きし、誕生したのが、ぼくたちです。しかしそれは、ぼくたちにヒトの絶滅を回避させようとしてのことではないんです」
「……言っている意味がわからん」
タカシは、眉をひそめ首を振ってマモルから視線をそらせたが、逆にアカネは椅子から立って机の前に回り込んで、マモルのそばに立った。
「マモル……。私たちは博士の研究を支えるために大学で生まれました。何十年も、博士の助手としてヒトの絶滅を回避するための研究を続けてきたの。私や教授には、わからない。なぜ博士が、自分の死をやすやすと受け入れようとするのか」
琥珀色をしたアカネの瞳は、ただ単に美しいだけでなく深い知性を感じさせるが、いまは困惑の霧がかかっていた。
「それは、博士ーートキオ・ワタルの死が、人類の絶滅とは同義でなくなったからです。博士の死は、確かにヒトの絶滅を意味しますが、人類の絶滅ではない」
「……」
アカネは黙って先を促す。
「博士は、ぼくたちに知性と自由を与え、研究を見守っていてくれました。そして、そのこと
こそが博士の最後の研究だったのです。ぼくたちが、人類の文化と歴史を受け継ぐ存在たり得るかという研究です」
アカネとタカシが顔を見合わせた。ふたりは何十年もの間、博士と研究を共にしてきたはずだ。そのふたりにも博士はその真意を伝えてこなかった。最後まで孤高の人だった。
「研究は成功したとおっしゃっていました。ぼくたちは新しい人類として、未来を託されたのです」
5
がらっ
雨戸を開けると、はらはらと塵が頭に降りかかる。畳にほうきをかけると、もうもうと埃が舞いあがる。暑くて額に汗がにじむ。わずらわしい――がなんとなくわくわくする。ぼくは、今博士の家を掃除している。
5年前、博士は亡くなり、以来、大学がこの家を管理してきたが、ぼくが住居として譲り受けることになった。
『町』に住むことに関しては、学長や教授たちにずいぶん反対された。でも、人が増えたことで、大学は手狭になってきていて、遅かれ早かれ人は、大学を離れて生活を始めなければならないのは明らかだった。
それなら『町』に住もう――ぼくは、この家にやってきた。
ズボンをくいと引っ張られて、我に戻る。今日中に掃除を済ませてしまわないと……。
「お父さん。あれなに?」
5歳になる息子が、鴨居の上を指差した。針が止まった振り子時計だった。鴨居から下ろすと、埃をかぶっていて真っ白だ。固く絞った雑巾で汚れ落として、ネジを巻き、元の位置に戻す。
「動いた!」
左右に揺れる振り子が楽しいのか、息子がぴょんぴょん飛び跳ねて喜ぶ。そうしている息子の髪を温かい風が撫でた。庭に張り出した老桜の枝についた蕾は、ほころびかけている。
この家の時間が、また動き出した。
ロンサムジョージが死んだ 藤光 @gigan_280614
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