第五章――その声はあなたをおそらくへと手招く⑥――

「わたし達のため?」


 苛立ちが達したライアはとんでもない!と叫びそうになった。腹の底で渦巻く物を、痛いほど拳を握りしめて堪えたが、それでも恨み言が迸った。

 アウルがこれまで自分達のために、一体、何をしてくれただろう。


「父は、母が死んだことすら知らないんですよ」


 エレナが読んでくれると、ライア達が元気でいると信じきって、あのような手紙ひとつだけを寄こしたアウル。一獲千金の夢を見た、向う見ずなアウル。

 彼は家族の誰かが、自分を恋しがって泣いているかもしれないとは、自分の知らない所で危うくなるかもしれないとは、考えなかったのだろうか。

 アウルの身勝手さの結果は、シーナががみがみ怒るよりも、誰よりも、物言わぬエレナが証明している。


「わたし達のためって言うなら、側にいてほしかった。一緒にいてほしかった。贅沢したいなんて、お母さんは絶対に言わない。わたしだってそんなのいらない」


 エレナがベッドで、誰にも看取られずに一人冷たくなっていたあの朝にこそ、帰ってきてほしかった。一緒に哀しんで、寄り添ってほしかった。

 あの朝にこそ。


「今さら帰って来たって遅いのに。それなのに無関係では無いなんて、厄介事しかないでしょう。なのに会わなきゃいけないなんて、もう、今さら、遅いのに――」


 堪えていたものが込みあげてくる気配があった。ライアが顔を覆って俯くと、察したイーグルが素早く動き、窓枠で良い香りがするように活けてあった薔薇の盥をとってライアに持たせた。

 ここがどこであるかも忘れてたまらず盥に顔を突っ込んだものの、轢かれた蛙のようなうめき声しか出てこなかった。薔薇の揺蕩たゆたう水面はむせ返るほどの芳香だと言うのに、えずくばかりでかえって苦しかった。

 結局吐き戻さなかったのは、最後の自制心が働いたためかもしれない。

 エディリーヌとイーグルの二人はライアが落ち着くまでの間、辛抱強く待ってくれた。やがて角に刺繍のあつらえられたハンカチを手渡されて、最悪の気分で顔をあげた。

 このように繊細なハンカチの持ち主がイーグルだった事に密かに驚いていた。


「吐くほど親父さんが嫌いだとは思わなかったよ」

「……吐いてない」


 ハンカチを受け取って抗議したが、アウルを嫌って、いっそ憎んでいたのはノアだけではなく、ライアも同じだったことに気づかされた。

 なまじアウルを知り、接していたことがある分、見捨てられたと言う気持ちはライアの方が強いかもしれなかった。


「すみません、見苦しい所ばかり見せてしまって」

「いいえ」


 エディリーヌが首を振った。


「わたくしも、不確かなことばかり口にして、貴女をいたずらに追いつめました。……実の肉親でも、わかりあえる事ばかりではないものね」


 ぽつんと一滴、インクを滲ませるような哀しみに充ちた一言だった。ライアは追放の噂は真実なのだと、この時確信した。


「どうか怒らないで聞いてほしいのだけれど、わたくしはやっぱり、お父様と予言は無関係ではないと思うわ。お父様はご自分を探す何者かについて、知っている気がする。そしてそれは……きっと、あまり良くない事なのよ」


 エディリーヌは再びライアの手をとり、ひたむきな視線で真剣に言った。彼女の青い瞳は再び冷ややかな美しさを帯び始めており、言葉の一つ一つが、しんしんと胸の奥底へ降り積もるようだった。


「再会できれば予言が何を伝えようとしていたのか、わかるはずよ。もう、そう遠くないでしょう。それだけでも考えようがあるわ。どうか協力させてね、予言を紐解く事は、わたくしにも意味があることだから」

(――どちらか一方と、言った)


 ざらつく複数の声が、耳元に蘇った。あの声は、確かに助けになるだろうと告げた。ただし、どちらか一方。


(それは誰のこと?)


 アウルか、ライアか、どちらの助けに成り得るのだろう。それは果たして本当に、選べるものなのだろうか?

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ラピスラズリの小箱 ノミ丸 @nomimaru

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