眠り

林 静象

第1話

平原の冷たい風が遥か遠くシベリア杉の濡れた葉の香りを運んで来る。子供達はイヌイットのような分厚いコートに身を包み、白い息を吐きながら空に広がるオーロラが舞うさまを感慨深げに見上げていた。これで磁気嵐の季節も終わる。ジョンがこのオーロラを見るのは5度目、ジュジュや他の子はみな4度目だ。サトコが独り言のようにつぶやいた。最後だなんて信じられないな。ジュジュが励ました。これから行くところにもっと素晴らしいものがあるかもしれないじゃないか。


僕もそうあって欲しいと思った。昔旅立っていったあの子供達は今どうしているだろう。ジュジュ達とも最後の日だ。教えると決められたことは全て教え、全員が試験をパスした。一番上のジュジュはもう十六歳。彼らはもう独立した人間で、僕の仕事は今日で終わり。


子供達は用意した薪に火をつけ、キャンプ・ファイヤーを作った。完璧な出来だ。どこか不思議と威厳があり、マヤ文明の遺跡のように美しい。手先を温めながら頰に熱が戻って来るのを感じた。はじめは斧を持ち上げることすらできなかった子供達も、ずいぶん成長した。僕は、最後の炎を神妙な面持ちで見つめる子供達と一緒に、ずっと黙っているだけだった。


オクタビオがいつもの絶妙なタイミングで狼の遠吠えを真似して月に吠えた。ジョンやジュジュも続いた。僕も参加した。子供達は一斉に笑い顔になり、それじゃ全然だ、去年よりはマシになったかもね、などと僕をからかう。軽口が尽きると、子供達はまた神妙な面持ちに戻った。ステファニアは言った、これで本当に最後なんだね。僕は、新しい場所でもまた似たようなことがあるさ、とだけ答えた。マリィがぽつりといった。でも、そこは月が2つあるかもしれないじゃない。オクタビオが言った。それなら頭も2つなきゃ吠えるとき困るな、でもそれだと散髪が面倒だ。ステファニアがいった、今だって髪をとかしもしないくせに。みな笑った。ジョンだけはただ微笑んでまた薪をくべた。火は勢いを取り戻し、パチパチと音を立てた。


両親どころか一人の親戚すらいない彼らは、他の子供達と同じように物心つく前に学校にやってきた。僕らは与えられたデータ通りに彼らをグループに分けた。様々なクラスが作られた。あるクラスは似たような人種、あるクラスは多様な人種といった具合に。人種だけじゃなく宗教や文化、何もかもそんな感じだった。時折、様子を見てクラスは組み替えられた。そうやって子供達が学習をつづけ、最終試験に全員が合格すると、一緒に皆で旅立っていくのだ。


僕はそれなりの年数のあいだ教育係に配置されている。似たような子供たちはいつもいた。人種や体型だけの話ではない。ジュジュのようなリーダーシップと正義感に秀でた子供、サトコのように誰にでも共感して助けてしまおうとするような子供、ジョンのように何にでもちょっとした改善をしなければ気がすまない子供、ニメーシャのように一度覚えたことは絶対に忘れない、なんでも決まった通りに念入りに進めて行く子供、ステファニアのように陽気でからかい好きだが勇気に満ち溢れた子供、オクタビオのような芸術的な才能に優れた子供、マリィのような臆病だけど覚えた医学知識をすいすいと応用できる子供、小さい子供というのは皆どこかしら似通っている。それでも誰一人同じ子供はいない。どれ一つ同じクラスもない。


僕は時間を確認して言った。行こう、バスにのって学校にもどらなきゃ。明日の朝は皆早起きしなきゃいけないよ。


突然、マリィが遠くを指差して大声で叫んだ。


「あれ!」


動物の影がみっつ、遠くマリィの指差した方向に佇んでいた。


「ムーだ!お別れに来たんだ!」


立派なツノの影から一つは大きなオスのヘラジカだとわかった。


「ほら!奥さんや子供がいる!小さい子が足元にみえる!」


子供達は、目を凝らしてずっとその影を見ていた。四年前、平原にキャンプに来た時に見つけた、群れからはぐれた赤子のヘラジカ。十メートルも崖の下で倒れているのをマリィが薪拾い中に見つけたのだ。結局、ジュジュとジョンが皮袋を持って崖からロープにぶらさがって降りていき、うまくヘラジカの子供をそれで包みロープを巻きつけ、バスにそれを結びつけて慎重に引っ張りあげた。怪我はなく、ただ飢えて弱っているだけだった。子供達は、強硬にこのヘラジカを飼うことを主張した。仕方なく僕は許可し、子供達は彼をムーと名付け半年の間一緒に暮らした。僕はその間二回も平原校舎への滞在許可延長願いを出さねばならなかった。


マリィが見つけた影はそう長くとどまってはいなかった。遠くで一度二度こちらを振り返ると、影は勇壮とした足取りで星明かりも届かぬ暗闇にゆっくりと消えていった。子供達は息を飲んでそれを眺めていた。新しい場所でも彼らはこんなふうに、皆で同じ一点を見つめて生きていくのだろう。


さぁ、もう行かなきゃ。僕がそういうと、子供達はまるでさっき影がしたのと同じように、時折後ろを振り返りながらバスに戻っていった。僕が運転する帰りのバスで、子供達はムーの思い出話を何度もした。皆にそれぞれ小さな思い出があった。ムーが一番好きな餌の食べさせ方をサトコは知っていたし、マリィはムーの糞から健康かどうか調べられた。ステファニアは嫌いな人参が食事にでるとムーに与えていた。ジュジュは伏せを覚えさせた。そうしてニメーシャが宿題で書いた(明らかにできの悪い)ムーを讃える詩の話になり、オクタビオの描いたムーの絵が入選した話になり、いつしかムーの話は終わり、同じ夏の思い出や、別の年にいった海の話になった。サトコとマリィが冬の日に林の中でみた白い幽霊がいかに恐ろしかったか話し出すと、ステファニアとオクタビオが吹き出した。あの幽霊は彼女達のいたずらだったことが白状されると、皆は呼吸困難になるんじゃないかというくらい笑った。


バスは学校に向かって行く。ムーの話には彼らが知らない続きがある。子供達に黙ってムーの体に埋め込んだ、そのデバイスの信号を僕は時折観察していた。子供達とムーが別れてから2ヶ月後に移動が止まり、次の年、子供達がまた平原にキャンプに来た時、僕は一人でその場所に行った。まだ若くして死んだヘラジカの美しい白骨の中で、土に汚れたデバイスはいまだ静かに信号を発していた。子供達が自分でこの場所を見つけてこれがムーかどうか聞いても、僕は何も教えず別のヘラジカだといっただろう。結局、子供達はその場所にいくことはなかった。


学校に戻ると、真っ先に明日は確実に磁気嵐がないことを確認した。僕は子供達を呼んで、彼らが今まで一度も開いたところを見たことがない、そのエレベータのロックを外す。中に入ると扉は静かに音もなく閉まり、エレベータは地下に降りていった。ゆっくりと伸びていく扉の上の赤いメーターをながめているうちに僕らは目的地についた。子供達は初めて見る光景に目を見張った。地下なのに地平線すら見える広大な空間で、銀色に輝く継ぎ目一つ見当たらない鯨のような形の宇宙船が何億機も整然と並び、彼らを待っていた。


これでお別れだ。皆、バスでの陽気な子供達とは全くの別人みたいに目に涙をためていた。マリィとサトコが一番最初に泣き出した。他の子供達の目からも涙がゆっくりとこぼれ始める。オクタビオは声を上げて泣いた。彼は人前で泣くことを一度も恥ずかしいと思ったことがない。将来詩人になる子供というのはきっとこういう子なのだろう。ジュジュだけは最後まで泣かなかった。彼が泣くのは自分ひとりのときだけなのだ。僕は子供達を一人一人抱きしめ、幸運を祈った。そうして次々に運ばれてくるカプセルに彼らが入っていくのを眺めた。一人分ずつカプセルを起動させながら、薄れて行く意識の中で彼らが、さよなら、とか、ありがとう、とか声なく唇を動かすのを僕は見ていた。子供達は別れの時には多くを語れない。スリープまでの時間は短い。それに、そもそも彼らには生まれて初めての別れなのだから。


早朝、次に彼らが目覚めるとき、すでに文明の痕跡もなく初期化された地球に着陸しているはずだ。そこで彼らは協力し、愛し合い、増えていく。そうして何千、何万、何億と彼らの子孫が増えたとき、また子孫たちは争い、奪い合い、殺し合い、地表で息絶えていくのだ。今までもずっとそうだった。どんなクラスでも。無数の教育係が今日も同じように無数の宇宙船に子供たちを乗せ、無数の初期化された別の地球のどれかに彼らを送って行く。それでも、きっとどのクラスも似たような結果になるだろう。彼らの歴史は観察され損失を評価され、少しずつ地球はパラメータを変えられる。僕らや機械がゼロから作る子供達も同じように、毎回少しずつ変えられる。そうやっていつかは神の求める人類が、神の求める地球ができるのだろう。それとも、ただ漠然とした行くあてのない永遠の試行錯誤を神は求めているだけなのだろうか。


地上に戻り、ひとりでがらんどうのバスをしばらく眺めたあと、僕はストレージに入り首のコネクタにプラグを差し込んだ。眠りが扉を叩く。またいつかの朝、僕は目覚めるだろう。自分のものかもわからぬ与えられた記憶と一緒に。今度のムーは足が折れているかもしれない。ヘラジカなんて動物すら僕は知らないかもしれない。意識がただゆっくりと、どこかへ落ちていく。最後にもう一度子供達の幸運を祈りながら、僕は考えた。いったいどんな理由があれば、今この眠りの間際、僕が祈っているこの神と、目覚めた僕が祈るその神が同じだと言えるのだろう?何一つ自分の記憶でないなら、ただ記憶と記憶の間、何もない初期化の眠りこそが、唯一本物の僕ではないのか?何を考えても無駄なこと。僕らは、遠い星明かりも暗闇も与えられず、ただいつも消えゆくだけ。振り返る事すらできないのだから。

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眠り 林 静象 @seizo

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