『エピローグ』
「じゃあ、そろそろ行くね、お母さん」
その声を聴いた初老の女性は名残惜しそうに、半分起こしたベッドから背を剥がして小さく頷いた。
この部屋を出ればまた、一時も気を抜けない新たな戦場へと舞い戻っていく。そんな我が子に心配を掛けまいと、柔らかだが芯の強い笑みと一緒に小さく手を振った。
それとよく似た――本当に瓜二つの笑顔を浮かべ、同じ部屋にいた主治医に一礼してから母親の病室を後にしていく。
そんな詩緒を、俺は中空に漂いながら眺めていた。
赤の他人の見舞いを覗くという慣れない行為に、身体は知らずして緊張を覚えていたようだ。廊下を歩き出す詩緒についていこうとする前に、大あくびが胸からこみ上げてきた。
ここまで誰とも視線は合っていない。そのはしたない姿を誰も見られないのは分かっている。だがそれでも反射的に口元を抑える手は、昨日よりも更に向こう側を透かしているように感じた。
――こりゃあ、あと1週間持つかどうかかも。
停電、足音、そしてマネキン。俺が即興でアイデアを練り上げ、たまたま放置されいたプロ用カメラで2カメを勤め、ネット上では『おもらしプロデューサー事件』と名づけられたあの配信。
恐らく一生ネットの語り草になるであろうあの事件から2週間。俺の身体は日を追うごとにここにあるという確かさを失っていっている。
詩緒の歩幅と同じペースで廊下を進みながら姿勢を仰向けに変え、もう一度眼前に手をかざしてみる。電灯の光はまるで遮るものがないように、全く減衰することなく瞳に突き刺さった。
しかも、それに目が眩むこともない。エレベーターに乗る前に昼食の配膳ワゴンとすれ違ったが、食べ物の匂いにが微かにも鼻をくすぐってもこない。
つまりはだんだんと、五感がこの世界から隔絶されていっている。
そいつは恐らく、この世との別れが近い兆し。あの場所からろくすっぽ動けなかった俺が、こうして彼女のその後を見に来れているのも、地縛霊でなくなり成仏が近い証だ。
そして、原因に思い当たりはある……ある意味で非常に不本意な事だが。
死してなお俺をあの場所に縛っていた『ここで誰かのあられもない姿を見るまでは』という未練。どうやらそいつは千駄木プロデューサーの絶叫、アンド失禁シーンによって満たされてしまったらしい。
いや、確かに死ぬ直前に『それがエッチなものでなくては』とか『そもそも女性に限る』とかいちいち考えを絞ってはいなかったしそんな余裕はなかった。だがだからといってあんな……『中年男性のベストオブ無様お笑いシーン』としか形容しようのないものでOKが出るとか、我ながら未練の柔軟さには言葉を失うほかなかった。
いきなり、全くそのつもり無しにゴールテープを切ってしまった。成仏への喜びより先に立つ戸惑いや、あの世というまた未知の世界への不安。そいつをごまかすようん色々調べたり噂を聞くうちに、あの事件をきっかけに大きな変化が起きたのは自分だけではないという事が浮き彫りになってきた。
あの衝撃配信は深い時間帯というハンデをものともせずに世界トレンドをマークし、そこから逆行する形で『霊ドル』のアーカイブが恐ろしい勢いでぶん回った。その功績を認められ、番組は現在も高視聴率をキープしたまま続行中。
……だが、そこに残っているのはMCのカガミだけであり、他の主要人物たちはもう関わってはいない。
当然と言えば当然である。いくら数字を上げたからといって、現場に巻き起ったトラブルの責任は誰かが背負わなければならない。そんな段になってまず番組を去ったのは、すっかり威厳を失くしてしまった千駄木だった。
形としては引責だが、居たたまれなくなって逃げだしたというのが正直なところだろう。それきり本業の領分を踏み越える事は一切なくなり、セクハラパワハラも消え失せて真っ当にアイドルプロデュース業に専念しているらしい。
当然、それで今までの蛮行が帳消しになるわけでもない。方々になめた態度を取られ、いつまでもあの動画のネタを擦られながらのイバラの道らしいが……更生した、といえば聞こえはいいのかな。
そんな彼を追いかけるように、志賀谷もまたディレクターの看板を下ろした。こちらは紛れもなく各方面から惜しまれながらの勇退だったが、本人曰く「現場の運営に重大な
無論それは千駄木の専横によるヤラセ強要を差すのだが……それを明言しなかったのは友人としての最後の情け、なのだろう。
『新しい人に現場の空気を換えてもらい、番組はまた新たなチャレンジに立ち向かってもらいたい。自分もまた、新しい試みに挑む』
どこかのインタビューで彼が『霊ドル』のディレクターとして残した最後の言葉だった。当初はそれが一体何を指すか誰も見当がついておらず、様々な憶測が飛び交ったものだ。
だが今日になって一足先に、俺だけがその真意を知るところとなった。
「お待たせしました」
エレベーターの中で変装を終えロビーに戻った詩緒が声を掛け、それまでソファに足を組んで沈み込んでいた長身の男性が立ち上がる。ふたりはいちど周囲に目を配り、それから人並みに自然と溶け込むように歩き出した。
「うん、お母さんは元気だったかい?」
「はい。新しいお仕事がお芝居だって話したら、ちょっとビックリしてましたけど」
ティアドロップ型のサングラスの向こうで少しばつの悪そうな笑みを漏らし、詩緒は鞄に手を突っ込んで束ねられた数枚の紙束を覗かせる。
それは企画書の更に雛形……ちらりと見えるその表紙には『主演:Es(日生 詩緒)』の文字があった。
「もう話しちゃったのかい?まだスポンサーも決まってないのに」
男性は驚きに目を丸めた後、行き過ぎを嗜めるように口を尖らせる。
「ごめんなさい……『霊ドル』から降りたって知って心配してたから、少しでも安心させたくて」
「全く……一応、まだ秘密なんだよ?」
元より大して怒るつもりもなかったのだろう。駐車場に出てポケットから車のカギを取り出すころには、男性の顔はすっかり元の柔らかな笑みに戻っていた。
「誘った時点で元から路頭に迷わす気はないけど……こりゃ失敗できないな」
「大丈夫ですよ。志賀谷さんなら。もういろんな人にお話通してるんでしょう?」
確信を得たうえで語尾を上げる詩緒に下から覗き込まれ、志賀谷は肩をすくめる。
「どうしてわかるんだい?」
「だって、話の進みが早すぎます」
――つまりは、そういうことって訳。
ふたりの真後ろという特等席でやりとりを見守りながら、俺は余人が知り得ない情報を独占しているという謎の優越感に浸っていた。
番組に愛着を持つような発言を残しておきながら、その実志賀谷の思いはかなり以前から『新しい挑戦』へと傾注していたらしい。
それは即ち、彼の史上初となるドラマの企画に詩緒を起用するという目論見だった。番組降板から企画立ち上げまでの異様な早さから見て取れるのは、『霊能アイドルシオ』としての仮面を年単位で被り続けたその演技力に、前々から目をつけていたという事実。
この一連の事件も、彼にとっては待ち望んでいた切っ掛けに過ぎなかったのかもしれない。ある意味で一番得をしたというべきか……単純なパワープレイヤーである千駄木なんぞよりよっぽどこの志賀谷という男の方が、能力としての底が知れない。
「ありがとうね」
「……?志賀谷さん?」
まさにそれを証明するかのように――車に乗り込む直前、いきなり自分の肩越しに礼を述べた志賀谷に、詩緒は小首を傾げていた。
やっぱり見えていたか。俺の事
降参の意を込めて両手を上げ、志賀谷に視線を合わせてやる。今になって思い返せば彼が『見える』人間であるヒントは至る所に転がっていた。
とくれば俺もまた、掌で踊らされていた1人なんだろう。
「……ああ!」
もはや爽やかさも覚える敗北に薄笑いを浮かべていると、一拍遅れてからその真意を読み取ったシオが倣うように後ろへ――こちらへと振り向いた。そのまま志賀谷より少しあやふやな視線を宙に泳がせ、ぺこりと頭を下げる。その拍子に胸元に揺れるタイピンが陽光を鮮やかな緑色で反射した。
……まったく、君はどうせ見えていないだろうに、几帳面なんだから。
死んでからこうもしっかり礼を述べられたのは初めてだった。むずがゆい心地に苦笑を漏らしながら遠ざかる車を見送り、それから茂みに隠しておいたスマホを取り出す。
透け始めたこの手では、少しでも指の力を抜けばすり抜けてしまう。苦心を重ねて一言だが、しっかりとした返礼の言葉を打ち、どうにか送信ボタンを押した。
しかしどうせ、届くのはいつもの文字化けメール。
だがそれでいい。立ち回りを見ればわかる通り、志賀谷は頭のいい男だ。このタイミングでメールが届けば、意味は自然と解するだろう。
そして、彼女は恐らく――
※ ※ ※
『縺ゅj縺後→縺?h』
「ん、メールかい?」
「ええ」
ハンドルを握る志賀谷に頷きを返した詩緒は、端末に映し出される半角文字の羅列を眺めながら、小さく笑う。
「それは、こっちのセリフですよ。幽霊さん」
詩緒の呟くその声は、ちょうどタイヤがアスファルトの切れ目をまたぐ音と重なってかき消されていった。
ふたりを乗せたセダンが、昼下がりの首都高を走っていく。白銀のボンネットに反射する青空は高さを増して秋の気配――幽霊の季節の終わりを告げていた。
無力な霊能者と無害な悪霊~ままならない僕たちのお話~ 三ケ日 桐生 @kiryumikkabi
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