狸の恩返し
冬月鐵男
狸の恩返し
「
白無垢の着物に包まれた彼女は、俺にそうプロポーズする。
彼女の茶色の瞳には涙が溜まり、その表情は歓喜と幸福に満ちていた。
あの時、手元からすり抜けた、あの愛しい者が再び現れ、こうして再び出会えた。
驚きと嬉しさ、そういった感情が混ざり合い自然と涙を流した。
「はい!」
俺はそうハッキリと答え、彼女と結ばれた。
これは、俺と彼女との物語。
ありふれていて、誰も知らないし知りもしない一つの物語。
*
大学からの帰り道、夕焼けの光に照らされながら、俺
夏の風を身に浴びながら、十字路にさしかかると、角に何かを見つける。
「なんだあれ?猫か?」
うずくまっているそれは、遠目に見れば猫にも見えた。
それが何物であるか気になり近づいてみると、それは以外な物だ。
「なんだこれ?……タヌキ?」
以外にも転がっていたのは、タヌキだ。
俺の声に反応したのか、タヌキは苦しそうに顔を上げ、こちらを見た。
その姿は醜く汚れていて、俺に助けを求めるかのようにキューンと鳴いた。
それを見た俺は、心が突き動かされた。
このような小さく弱い動物を見殺しには出来ない、と。
俺は、何とかした助けて上げたいと思い、とりあえず家に持ち帰るために、そのタヌキを抱き上げた。
タヌキは、暴れる事なく大人しく俺の腕の中に収まり、家へと連れて帰る事ができた。
家に着いた俺は、すぐさま給湯器のスイッチを入れ、お湯になりしだいタヌキを洗面器に入れ、汚れを洗い始めた。
「暴れるなよ……って。うわっ、なんだこれ」
洗面器に入れるとすぐに色が茶色に染まる。
しかも、ブツブツとした何かが漂っている……いや、これは見なかった事にしよう。
タヌキは、体力がないのか単純に大人しいだけなのか、されるがままに体を洗われていた。
何度かお湯を交換して、ある程度水が汚くなくなってきたら、とありあえず、普段俺が使っているボディーソープを取り出し、全身を洗い始めた。
こうして、綺麗に洗ったタヌキをバスタオルで包み込み、ドライヤーで乾燥させた。
そして、とりあえずの間に合わせとして、大きめの箱にタオル類を敷き詰め、そこににタヌキを入れた。
中に入れたタヌキは、安心感からかうとうととなっていき、やがて寝た。
「ふぅ、これで一安心だな」
とりあえずなけなしの知識を使って助けたが、何とかして順調に事を進み山場を乗り切る事が出来た。
だが、一歩先の手を打たねばと思い、俺はタヌキが再び起きてしまう前に、やるべきことを済ませようとした。
俺は、すぐさま家を飛び出して近所のスーパーに駆け込み、ペット用品に急いだ。
そう、そこには犬猫のエサが売ってある。
が、ここで詰まってしまった。
タヌキって、犬と猫どっちのエサをあげれば良いんだ?
当然スーパーには、タヌキ用のエサ等置いておらず、店員に聞く事も忍びない。
うんうんと悩み、ここは直感に任せて適当な犬用のエサを買い、家へと帰ってきた。
家に帰る事には、タヌキが空腹からかキュウキュウと鳴き声を上げていた。
「少し待ってくれ、今あげるからな」
適当な皿に先程買ったエサを入れて、箱の中に入れた。
タヌキは、匂いを嗅いで安全と思ったのか、ガツガツと食いはじめた。
皿に盛ったエサを全て平らげ、再びタヌキは眠りについた。
俺は、その姿を優しい目で見ながら、起こさないようにそっとタヌキを撫でた。
*
タヌキが我が家にやって来てから、数日が経過した。
タヌキはすぐに、元気になり今では完全に我が家のペットとなっている。
タヌキには、未だに名前を付けていないが、愛情を持って世話をしていたと思う。
元気になったタヌキは、箱から脱出して、部屋の周りを探索したりする。
最初は、見つけ次第捕まえて箱に戻したが、賢いのか何のイタズラもしないので、そのまま放置するようにした。
そして、皿に盛られたエサを食べ寝る時は、箱に戻り寝る。
動物を飼った事のない俺だが、動物とはこのような物であるのか?やけに、人間
臭いと思う程、賢く人間らしい行動をしていた。
今まで無機質だった家に花が添えられ、俺の孤独感を満たし癒やしを与えた。
このまま、小さい1DKの家に住むのはタヌキに悪いと思い、引っ越しをしようかと考えいた時期、事件が起きた。
大学の講義が予定よりも早く終わりそのまま一直線に家に帰った。
「ただいまー」
今は一人ではない家に帰ると、そこには知らない人が、二十歳位の可愛らしい少女ナチュラルに部屋を掃除していた。
栗毛の髪に、茶色の瞳。
木の葉を思わせる、緑の着物と茶色と羽織を着ており、十分に栄養が行き渡った肉付き。
何よりも眼を見張るのは、その頭を尻の生えているタヌキの耳を尻尾。
そのような姿をした少女は、こちらの事ぎょっと見て、「まだ、帰るのは早いはずじゃ……」と言っていた。
俺も、意外すぎる状況に驚きはして、数秒経った後冷静さを取り戻し、スマホを取り出し、警察に電話をかけようとした。
「け、警察」
「ちょ、待って下さい!警察とか保健所は止めて下さい!」
そう言い少女は素早く近づいて、俺のスマホを取り上げた。
「あ、ちょっと止めろ!」
スマホを取り上げれられては、通報出来ないと思い取り返そうとした。
少女は、手に持ったスマホを離さないとし、お互いにもつれあった。
犯罪者相手には、女でも容赦はしないと力づくにでも奪おうとした。
だが、思った以上に少女の力は強い中々取り戻せない。
「ちょっと、落ち着いてくだいさい」
そう少女は言うが、俺の耳には完全に入らず、そのまま取り戻そうとした。
「あーもう、落ち着いてくださいってば!」
そう言うと、大きい音で柏手を打った。
すると、急に体の力がストンと抜けて、心身共に完全に落ち着いた状態となった。
一体俺の身に何が起きたのか、それらを理解する力はなく、ただ脱力を起こし少女に身を預けていた。
その豊満なブツを肌で感じても、何も思う事はなく、まるで魂が抜けたかのような感覚。
「とりあえず、ゆっくり話しましょ?ほらそこに座ってください」
そう少女が、寝室の方に移動して指指すと俺の体はまるで操られたかのように動き、指定された場所に正座で座った。
少女は、俺の対面に座ると先ほどやったのと同じように柏手を打った。
すると、今までボーッとしていた俺の意識が柏手を合図に、鮮明さを取り戻した。
その時には、完全な冷静な状態となっていて、警察に電話する気はなくなっていた。
この少女が何者なのか、どうやって侵入したのか、何故掃除をしていたのか気になるが、とりあえず待ち相手側から話すのを待った。
「さて、先程は失礼しました、人に見つけると色々と困るので。自己紹介をしていませんでしたね、私の名前は
「あ、どうも紬さん、南雲峯一です」
そう紬と名乗った少女は、自らを化け狸と呼んだ。
化け狸といのは、確かその名の通りに何か他の物に化ける力を持つタヌキの事だったけか……
確かに、タヌキの耳と尻尾が生えていし、催眠のような物を使った事で、何か説得感のような物を感じさせた。
「あの、紬さん化け狸ってのは、本当なんですか?」
「はい、正真正銘の化け狸ですよ、それにほら」
そう明るく人懐っこい声で言い、立ち上がった紬は、何の道具を使う事もなく周りに、勢いよく煙を発生させた。
別に煙は煙たくないが、完全に視界が覆われて、白色の世界に取り残された状態となった。
数秒経つと、煙が晴れて腫れてゆき、本来紬が立っていた場所に居たのは……俺だ。
健康的な少し筋肉質な肉体と、スポーツ刈りの頭。
堅物という印象を与えるその姿は、正に自身の姿と瓜二つだ。
「どうですか?そっくりでしょう?」
俺の姿で、そのままの声でいう事に気持ち悪いと少し感じたが、目の前の少女が、紬が化け狸であると認めざるおえない事となった。
紬は再び、煙で身を隠した後再び元の少女の姿に戻り座った。
そこで、ふと幾つかの質問が思い浮かび、質問を投げかけた。
「ところで、何故あんな所に倒れていたんだ?」
何気ない一言、単純な好奇心から出た質問を聞いた紬は、難しそうな顔をして答えた。
「え~っとですね、私は元々山の方に住んでいたんですけど、人里の事が気になり降りてきたは良いもの、食べ物を手に入れなくって、そこで倒れた所、貴方に拾ってくれました」
なるほど、確かに動物が街中に迷い込むニュースは幾つも見たことがある。
これ以上は、突っ込まずに次の質問を投げかけた。
「それで、何故家事をしていたんだ?」
一番の問題はそれだ、拾われて助かったのは良いのだが、人の姿に化けて掃除をしている理由が分からなかった。
「それは……貴方が命の恩人だからです。あの時私を救ってくれなかった、らきっと私は死んでいたと思います。だから命の恩人への恩返しとして、隠れて家事とかをやっていました。ですからお願いします!私をここに置かせて下さい!」
突如として、土下座でのお願いをされて、俺は困惑を起こす。
掃除をした動機自体は理解出来たが、何故土下座までしてお願いするか、と。
警察に通報しようとした時に、保健所に連れてかれるのを恐れていた事から、捨てられたり、殺されるのを恐れていたのか。
だがどうであれ、紬を追い出す気は一切なかった。家政婦という分けではないが、家事を少し手伝って貰おうと思ったからだ。
「紬さん、頭を上げて下さい。大丈夫です追い出したりしませんから」
そう、土下座を止めるように促して上げた紬の瞳には、涙が溜まっていた。
「本当ですか!ありがとうございます」
そう言う紬に抱き疲れた。
「これから、よろしくおねがいしますね。南雲峯一さん!」
そう、抱きつかれ状態のまま笑顔でいう紬の顔を俺は見る事は出来なかった。
*
一人の大学生と一匹の化け狸との共同生活。
その絶え間ない日常は、朝から始まる。
朝6時、夢心地の中スマホのアラームにより、俺は叩き起こされる。
目覚めた俺は、のそのそと離れた場所にあるスマホのアラームを消し、大きなあくびと伸びをした。
「おはようございます、良く眠れましたか?」
隣から声が聞こえ、振り返ってみるとそこには紬が居た。
「おはよう、良く眠れたよ」
そう挨拶を交わす二人、俺は特段早起きだと思わないが、そこそこ早起きだと自負している。
だが、紬はより早起きで朝食を作ってくれている。
頭が完全に目覚めていない俺は、すっきりさせようと洗面所で顔を洗い、再びキッチンの方へと戻った。
「何か手伝おうか?」
恩返しという形で家事をして貰うといっても、完全に投げ出す事は俺の良心を傷つけ、何か自分でもできない事はないかと探そうとした。
「いや、大丈夫です。南雲さんは座って待ってくだいさい」
「いやでも、申し訳ないし……」
「大丈夫ですよ、これも恩返しなのでゆっくりしていてくだいさい」
こう恩返しといえど、甘やかされる生活は嫌ではあるが、当の本人が手伝いは不要と言っているのを見て、俺は仕方がなく朝食が出来るのを待つ事にした。。
しばらく待っていると、紬が朝食を作り終た。
「ご飯できましたよー」
その言葉を合図に、俺は寝室に折りたたみ式のちゃぶ台を広げ食事の準備を始めた。
二人で一緒に食器に盛り付け、配り食事を始めた。
「「いただきます」」
炊きたてのお米に、紅鮭と付け合せのお新香、味噌汁。
紬と出会う前の生活では、時間がなく出来なかった食卓がが、ここにはあった。
「どうですか、お口にあいますか?」
「ああ、美味しいよ」
「そうですか、ありがとうございます」
純粋無垢な紬の笑顔を見ると、久方ぶりの一人ではない食事に、心が温まる感覚がした。
こんな朝の一時。
*
「それじゃあ、行ってくる」
「はい、いってらっしい」
新婚夫婦のように、紬の送り迎えを受けながら、俺は大学へと行く。
家に残った紬は、部屋の掃除等を始めようとするが、ある物を見つける。
「って、これは……いけない!届けないと!」
そこに置いてあったのは、朝食を作るついでに作った弁当だ。
何とかして届けないと思った紬は、他人に違和感を感じさせない呪いを付けた羽織を着て、家を飛び出した。
「たしか、南雲さんはT大学に通っているって……」
とありあえず、駅の方向へと向かい、T大学へと紬は目指そうとした。
紬がT大学へと目指している一方、俺はそのような事を知らずに気だるい講義を受けていた。
何かを学びたいという分けではなく、キャンパスライフを楽しみたいという分けではなく。世間体と理想による惰性でここまで進んできた。
良く言えば馬鹿正直、悪く言えば中身がない。単調な人格の元、これからの人生を送るのかと若き身なのに諦めていた。
たがそんな俺でも一つの転機が訪れていた、化け狸の紬の存在だ。
偶然拾ったタヌキが、偶然実は化け狸で助けてくれた恩返しをしてくれる。
そんなおとぎ話か何かの世界の出来事が『偶然』起こってしまった。
そんな、『偶然』に影響されて何か変わるのだろうか……
そんな事をぼやりと考えていると、午前中の講義が終わり、昼食の時間となった。
「あ、弁当忘れてた」
学食を食べに行こうとした時に、今更家に紬が作ってくれた弁当を忘れた事を今思い出した。
紬との共同生活を始めてからまだ日が浅く、家に紬が居る事、そして恩返しとして家事をしてもらっている事、そんな事がまだ心身に完全に身についていないが故にこう忘れてしまう事が最近多い。
さて、どうしよう物かと考えていると、視界の端に何かが見えた。
それがふと気になり見ていると、何と紬の姿が、それも初めて見る完全に人の見た目をした紬の姿があった。
明らかに場違いな着物を着て、何かを探す(多分俺の事)を探すように周りを見ながら歩いていた。
周りの人間は、何ら変な事がないかのよに、振る舞い、まるで紬という存在がないかのうだった。
紬は俺が居る場所を見つけ、走りながら近づいてきた。
「あ!南雲さん、弁当忘れていましよ」
「ご、ごめん」
「次は忘れないでくださいね?私のも持ってきたのでそこで一緒に食べましょ
う!」
俺の事を注意する膨れ顔も可愛く、かと思った笑顔になると、コロコロと表情が変わる子だ、と思いながら一緒にベンチへと向かい、弁当を開いた。
そにあるのは、煮物の茶色系列のババ臭い物……ではなく、肉類・野菜類しっかりと栄養バランスを考えて作られた弁当だ。
「何か嫌いな食べ物はありませんか?」
「いや、大丈夫だ」
いただきますと手を合わせて、弁当を食べ始めるとそこに待っていたのは、食で彩られた楽園だ。
「うめぇ……」
驚愕と呟きを聞いた紬は、ニコニコと見て自身の分の弁当を食べ始めた。
「そういえば、どうやって此処まで来たんだ?」
そう、気になった質問を投げかけると、紬は咎めてきた。
「食事中に話すのはめっ、ですよ」
「……了解」
大学生にでもなってめっと言われるのは意外でだったが、無礼なのはこちらだと思い、その後は黙々と食べ続けた。
「さてと、さっき南雲さんが聞きたかった事ですが……」
弁当を食べ終わると、紬が口を開いた。
「化け狸の力を使って、色々と化かしてやって来ました!」
そう罪悪感の欠片もない笑顔で、紬は答えた。
「……」
「ちゃんと、電車代は払いましたよ?ほら、ちゃんとお金を持っていますし」
そう言い自信満々に見せて来たのは、百圓の文字と聖徳太子が印刷されたお札。
「……これ使えないぞ」
「えっ……」
まぁ、これはこれで貴重だし、バレなきゃいいやとも思い、そのままスルーした。
「それと……何でここまでするんだ?別にとどけなくてもいいのに」
「それは、恩返しです。南雲さんは私を助けてくれました、今度は私が助ける番です!やられたらやり返す、倍返しd」
「それ以上はダメだ」
恩返しというだけでこれ程までにしてくれるの物なのか。
好意にも似た思いで、ここまでしてくれると思うと、不思議と否応にも顔が赤くなってしまった。
一体この感情をこの関係を人は何と呼ぶのだろうか……
恋も何もした事のない俺にとっては、この感情を理解する事はまだ出来なかった。
*
夕方、その中でも黄昏時と呼ばれる時間。
常世と現世との境目が曖昧になり、人外の存在と出会う時間。
そんな時間に、俺は帰宅していた。
学業生活は勉強だけが仕事ではない、それらを支えるためにもアルバイトは必要だ。
「ただいまー」
今ようやくアルバイトから解放され、愛しの我が家に帰る事が出来た。
「おかりなさい」
玄関まで来た紬は、俺の帰りを待っててくれて、ほんのり照れくささを感じ玄関をまたいだ。
紬の家事は、もはや完璧の域に達しており、出会うまでやっていた家事には介入する余地は残っていない。
「いつも家事ありがとな」
つい無意識に、感謝の言葉を述べる俺。
「いえ、どうってことないですよ。これもまた恩返し……ですので」
笑顔を持って返す紬。
そんな笑顔を見ていると、疲れも吹き飛んでゆく気がする。
まるで夫婦のようなこのやり取りに、最初はドギマギしていたが今ではもう慣れっこだ。
共同生活を始めてから作った簡易的な仕切りで、部屋着に着替えた所、寝室で待っていた。
「ささ、こちらにどうぞ」
そう言い膝をぽんぽんと叩き……膝枕を勧めてきた。
夫婦のようなやり取り自体は、何度かやってきたが膝枕を勧めてくるのは初めての事で、どう対応すべきか戸惑っていると。
「ほら、早く来て下さい。疲れているんでしょ?私が癒してあげますよ」
今まで彼女など一人もいたことのない俺は、両親以外に膝枕をされるのは初めての事で、顔を真っ赤にしながら、ゆっりと近づき頭を膝に乗せた。
紬の膝が柔らかく、女性柔らかさを体現した物だ。
すると、バイトの疲れがドッと襲い掛かってきて強い眠気に襲われた。
「大丈夫ですよ、ゆっくり寝て下さいね」
紬はゆっくりと頭をなでながら、そう耳元で囁いた。
体は石のように固くなり、意識は薄れてゆく。
抗いがたいその快楽と睡魔に自然と瞼が閉じていき、深い眠りの底へと落ちていった。
次に、現実という水面に浮き出ていったのは、何時間後の事だろう。
水底にある幻想と極楽から自然と意識が離れてゆき、段々と意識が鮮明となってくる。
頭が目覚めて、膝枕の柔らかさ暖かさと鼻孔が感じる食べ物の匂いを伝えてくる。
眼を開けるとそこには、紬の顔が見えた。
「おはようございます、夕食はもうできてますよ」
紬は、目覚めた事にすぐに気づき、そう呼びかけた。
膝の上から起き上がり、急いで今の時間を確認する。
どうやら眠った時間、つまり家へと帰った時間から三時間経過したようだ。
何回も断られたが、性懲りもなくまた家事か何かをしようとしたが、また失敗してしまった。
そうため息をついていると、紬が話してきた。
「また手伝おうと思ったんですか?私が居るんで家事なんてしなくていんですよ」
「そう言っているが、恩返しっていつまでつづくんだ?恩返しが終わっていざ家事をしようとなった苦労するだろうし」
「恩返しですか……多分一生ですね」
そう簡単に一生と言っていい物なのだろうか。
そう思うながら、多分冗談か何かだと思い、やがていつかは恩返しが終わる時が訪れるのだろうと思った。
その後、夕食、風呂を済ませ、いざ就寝となった時、また夕方の時と同じく紬が以外な行動に出た。
「南雲さん、一緒に寝ませんか?」
そう狸の姿のまま、紬が喋ったのだ。
普段はスペースがないからという分けで、寝る時は狸の姿に戻り保護した時の箱に入って寝ている。
勿論その時は、何とかして布団か何かを用意するといったが、紬は負担をかけまいと反対をして、結局中に敷き詰るタオルを良い物に変えただけに終わった。
今まで添い寝などしていなかったし、しようともしなかった。
そんな日常が、今日突如として紬の人格が変わったかのように変わった。
「ああ、いいぞ」
まぁ、時にはこうしたいと思う時があるのだろう。
と俺はそう思い、添い寝を許した(勿論、朝起きた時に抜け毛がひどかったのは言うまでもない)
ベットの中に入ってきた紬は、暖かくぴったりと俺の体によりそってきた。
まるで、湯たんぽか何かであるという使命感を持っているかのように。
布団の中で「どうぞ、存分に触ってください」と言われると、頭の中のスイッチが入りモフり始めた。
最初は紬がくすぐったいと言っていたが、段々となれたのか気持ちよさそうにになっていった。
その後は、ベットの中で話したりして夜の一時を過ごした。
そうしていると、眠気が回ってきてやがて俺は寝てしまった。
赤子のように無防備に寝ている姿を見て、紬は囁く。
「おやすみなさい、私の愛しい旦那様」
*
今日は、紬と二人で買い物へとでかけている。
紬は、いつもの耳と尻尾を出した状態ではなく、完全に人に化けた状態になり、あちこちの店を渡りあるいた。
どうやら、家事が終わり暇になったに見たテレビに影響されて、色々な物に興味が出たようだ。
やれカフェやら、やれ服屋やら色々な物に行きたがっている紬の姿を見て、つれて行かねば男が廃ると思い、連れていった。
ショッピングを楽しんでいる紬の姿は、まぶしく直視する事すらできなかった。
初めてまともに、人の街という物を見たらしく、様々な物に驚き、喜んでいた。
俺にとっても、新たな刺激を受ける良い機会で、大して興味を持っていなかった洒落たカフェ等にも行けて二人とも十分に楽しめる事が出来た。
「今日は楽しかったですね、南雲さん」
「ああ」
楽しい時間はあっという間に過ぎる、すっかりと夕方になった空を背景に帰っていった。
両手に持つは、お店で買った商品の品々で、日々の恩返しの賃金として買った物だ。
「あの、ちょっと疲れてきたので、少しベンチで休憩しませんか?」
常に喜々としてはしゃいでいたからだろう、紬は珍しく疲れた様子で駅真にあるベンチに座ろうと提案してきた。
「ああ、いいぞ」
こちらも、荷物持ちとして疲れてきているので、提案を受け入れ座った。
目の前に見えるのは、赤く染まった空と人の流れ。
何故か多くの人が居る中なのに、二人だけの特別な世界に入り込んだような感じがして、幻想的な雰囲気を醸し出していた。
「なぁ」
紬に話しかけようと振り返った時、眼前には驚くべき光景があった。
紬の人に化ける変化が解け始めてきて、耳と尻尾が出てしまっているのである。
紬は眠たそうにしていて、変化に十分に意識を回せないのだろう。
「おい、耳と尻尾が出ているぞ」
俺はこそこそと喋りながら、紬の頬を軽くたたいた。
「えー?あーうん、もー疲れたー」
普段の紬なら到底飛び出ない間が伸びた言葉を呟き、さらに人としての形が崩れてきた。
人間らしい直立二足歩行の骨格が崩れてゆき、四足歩行の骨格へとなってゆく。
普段から来てる着物からちょこちょこと毛が飛び出してゆき、やがてそれは立派な毛皮となる。
どうしたら、元の姿に戻ってしまうのを止められるのかと焦っていると、完全に紬はタヌキの姿に戻ってしい、口からあーうーとだらしなく何かを呟いていた。
「おい、起きろって」
体を揺さぶったりしてみたが、なんら目覚める様子はなく、タヌキの姿のまま疲れ切って脱力している。
すると。
「わー、何あれ?タヌキ?」
何か呼びかけられた様子がして、振り替えてみるとそこにはスマホを構えた女子高生が。
その女子高生の周りには、仲間内の人か同じ何人かの女子高生が立っていた。
いかにも、ギャルといえるその風貌、そして好奇をたっぷりを含んだ眼を見た瞬間、俺は底知れぬ恐怖を感じた。
俺は、本来よりそういう人種が嫌いなのである。
何をしでかすか分からない、まるで価値観がまったく違う物から守ろうと、とっさに紬を抱きしめた。
「何でこんな所にタヌキがいるのー?」
次第に、野次馬が集まってきて、恐怖はさらに加速する。
人の群れと無情に見つめるカメラの大群。
神経は毒に侵され、首をジリジリと締め付けられてゆくのが分かる。
パンドラの箱に詰まっていたこの世の苦しみが降りかかってきたとの錯覚に捕らわれ、俺は恐怖という牢屋に閉じ込められた。
無意識に眠ってしまった紬の体を強く抱きしめてしまったのか、紬が目覚めた。
「あれ?私いつの間にか寝て……って南雲さん?」
紬にとっては、目覚めたら外に居て俺が強く抱き締めている状態だろう。
何も分からない急激な展開に、紬はタヌキの姿のまま、状況を理解するのに少し時間が掛かった。
苦しそうに抱きしめている俺と、その周りにいる野次馬。
人々がカメラを見て、こちらの事を撮影しているのを見て、状況を理解した紬は抱きしめられている腕からひねり出た。
「つ、紬隠れていなきゃ」
とうてい男らしくない、泣く直前の表情で、俺はそう止めようとするが、紬は落ち着いた声で「大丈夫ですよ、私に任せてください」と言い、ドロンと大衆の前でいつもの人の姿に化け、ベンチの上に立った。
タヌキが人に化けた!と周りの人間の注意とカメラは紬の方を向く。
「つ、紬やめてくれ……」
そんな俺の事を無視をして、紬は袖の中からとある物を取り出した。
それは、細い棒状の物……キセルだ。
紬はとりだしたキセルを吸うような動作をして、どこからか出たのか分からないが煙を吐き出した。
すると、周りの人間がボーッとした様子になり、騒ぎが収まってきた。
紬は吸っては吐いてを何度か繰り返し、声を張り上げて喋った。
「貴方達はタヌキは見てない、何も起きていない良いですね?」
そう言い、大きく柏手を打つと周りの人々はハッと目覚め再び何事もなかったかのように動き出した。
最前列に居たギャル達も周りの人と同じく、どこかへ行ってしまった。
「紬、お前何を……」
紬は、ベンチから降りて再び座ると、キセルを持ちながら答えた。
「ちょこっと、これを使って周りの人を一気に化かしました」
「これって、キセルを?」
「はい!このキセルは周りの人間を化かしやすくする力があって、この力を使い一気に化かしました」
そう、人智を超える行動をすると、紬が化け狸であると実感させる。
安全性とか、副作用・後遺症とか大丈夫なのかと思っていたが、紬が立ち上がり「さぁ、帰りましょう」と言うのを見て、それらの不要な心配は一切消えた。
こうして、一悶着あった一日を終えた。
すっかりと暗くなった夜空を背景に。
*
時の流れという物は速い物だ。
あの日、二人が出会ってからもう三か月が経過しようとしていた。
幾つ物出来事が起き、試行錯誤の末お互いの役割や距離感という物が掴めてきたという時。
俺が苦労してつかみ取った家事の内の一つである、皿洗いをしていると、珍しく紬が神妙な顔つきで呼びかけてきた。
「南雲さん、ちょっとお話があるのですが……良いですか?」
結果論と快楽主義を第一としている紬には似合わない表情を見て、何か重要な話であろうと感じ、皿洗いを一時中断し話を聞く体制に入った。
「あのですね……私南雲さんに黙っていた事があるんです……」
少し考えてから、紬は話を続ける。
「一つは、本当の名前は紬じゃない事です。私の本当の名前……私達がいう
紬の告白の最中に、真名という言葉が聞こえた。
確か真名というのは、昔の人が持つ本来の名前で、普段は別の名前を名乗っているとの話を聞いた事がある。
その、真名を持っているという事は、何か特殊な立場に居るのだろうと思う。
「後、もう一つ嘘があります。私は、とある狸の一族の姫であることです……」
「そうか、分かった」
別にこの告白を聞いて、大した衝撃は受けなかった。
第一に、それらのことを思わせる矛盾はチラチラと見えていたし。
「何も……思わないんですか?」
「ああ」
「これからも、ここに居てもいいんですか?」
「ああ、居てもいいぞ」
紬の瞳には涙が溜まり、その表情はあの時、紬が化け狸である事がバレた時を思わせる物であった。
「よかった、これで……」
紬が何かを呟いていたが、最後の方が聞き取れなかった。
が、突如としてチャイムが鳴り、玄関の方へと向かった。
玄関のドアを開けると、知らない和服を着た男性が立っていた。
紬の普段着と同じように、紺色の着物と黒色の羽織を着ていた。
顔は丸っこく、温和で人懐っこいイメージを与えてくる。
「あのぅ、ここは南雲さんのお宅ですか?」
ゆったりとした声で、聞いてくるその様に俺は一切の警戒心を抱かず、反射的に肯定してしまった。
その後ろで、紬が来客した男の姿を見て、何か慌ただしく何かをしていたが、何故かそれに気づく事はなかった。
「そうですか、そうですか、じゃぁ少しお邪魔しますねぇ」
そう目の前の男が言うと、眩しい閃光と爆音が起き、視界が真っ白に染まり目が見えなくなった。
ガヤガヤと何か集団が歩いている音と、足元に何かが通っている感覚がする。
何か異常な事が起きたと思い、咄嗟に紬の名を叫んだが何も返事がない。
視界から線と色が取り戻してゆくと、すぐさま後ろを見て、紬の安否を確認した。
そこには、先ほどまでほんの数瞬までまでそこに居た紬が居なかった。
その瞬間血の気が引いた。
先程まで手元に居た、最愛の友が突如として手元からすり抜けたのだ。
先程の男に拉致されたと思い、どこかに居ると玄関の方から表を見た。
そこには、六匹の二足歩行のタヌキが紬を担いで運んでいた。
紬はぐったりとしていて、気絶をしているようだ。
俺は、すぐさま紬を取り戻そうと飛び出すように、追いかけた。
タヌキは、その小さい体に似合わず、すばしっこく逃げ回り徐々に距離を引き離され、最終的には見失ってしまった
「まだだ、まだ終わらんよ!」
紬を見失っても、取り戻せないという分けではない。
タヌキ共が逃げって行った方向へ走り出し、探しつづけた。
時間をも忘れ走り続けた。
疲れを忘れて走り続けた。
例え、もう二度とその足で大地に立てなくなろうとも、その鼓動が止まり命尽き果てようとも。
愛しい者のため、走り続けた。
が、ここでその運命は尽き果てた。
足元に何かが引っ掛かり転んだのだ。
あの紬を誘拐したタヌキが仕込んだのか。
体は宙を舞い、時間の流れが遅くなりスローモーションがかかったかのようだ。 地面がどんどんを近づいてくるのが分かる。
これ以上追う事は出来ないのか!
悔し涙を流し、今はただただ地面が迫ってゆくのを見つめるしかない。
頭が地面とぶつかった感覚を最後に俺は、意識を失った。
次に意識が目覚めた場所は、自宅だった。
一体どうやって自宅に帰ってきたのか検討がつかない。
ご丁寧にもパジャマを着ていて、時計を見ていると針は朝を指していた。
その様は、まるで今ベットから起き上がったという物だ。
部屋を見渡すと、紬の姿はやはりない。
すると、ふと何かに操られたかの如くとある考えが浮かんだ。
さっきまでの記憶は夢だたのでは?
化け狸などという物はオカルトの存在だ、現実にある分けがない。
となると、今までの出来後は全て夢。
自身の脳が作り上げた妄想なのは?と思える。
いいや、そんなはずはない。
邪念を祓うかのように、頭を振るい考えをはっきりとさせる。
あの時の記憶はハッキリとしている、手に取るように思い出せる!
確かに紬は存在した!俺と同居をしていた!
何一つ証拠はないが、俺は強迫めいた信念で考えを固定させた。
頭のことは、紬の事で一杯だ。
思い出が走馬灯のように駆け巡り、どうやって取り戻すか、どこに居るかと考える。
その時とある一つの事に気が付き、自身に対してせせら笑った。
「ああ、俺紬の事が好きだったんだな……」
今まで意識はしていなかった、紬への好意。
それが今明確になり、それを知らず意識しなかった自分が馬鹿らしく感じた。
思えば好意を抱き、それに基づいて行動した事は数多ある。
だが、今までの自分はそれに気が付かなのだ。
そのような単純な事。
感情一つ、たった一つの感情に気が付かなかった。
それだけでも笑い物だ。
そう、自身の自虐的な精神が働き、せせら笑う。
それは兎も角、再び紬の事を探そうと重い腰を上げた。
が、異常ともいえる程の莫大な疲れが、体を襲い思うように体が動かせない事に気が付いた。
「何、これ……ああ、あの時のか」
自身にとってはつい先ほどの出来事、決死の思いで紬を探した時の疲れが身に響いているのだろう。
やっぱり夢じゃないんだ。
このような事で、更なる確信を得るのも
玄関からチャイムの音が鳴る。
さぁこれからだ!というタイミングで誰かは知らないがタイミング悪く来た事に怒りを感じながら、ズカズカと歩きながら雑にドアを開ける。
とそこには、何よりも愛しく喉から手が出る程欲しい者が……
紬の姿がそこにあった。
今までの普段着とは違い、白無垢の着物を着て、口には紅を塗っている。
まるで、目の前で桜の花が咲いたかのようなその風貌に、驚愕と歓喜が入り混じった感情で、ただ見つめる事しかできない。
数分の間、お互い黙っていた。この出会えた感情を噛みしめるためだ。
この沈黙をやぶったのは、俺の方だ。
「なんで、何で居なくなったんだ!心配していたんだぞ!」
次に感じていた感情は、憤怒だった。
何故居なくなったのか、あの連れ去ったタヌキは一体何者なのか。
心配と寂しさが入り混じった感情で問い詰める。
「あの人達は……私の一族の使者です。居なくなった私を連れ戻すために……」
紬は『私の一族』と言っていた、一族というのは紬の真名にある名字茂林に関する事だろうか?
「昨日の晩言っていた通り、私は狸の一族の姫。族長の娘です……その一族の姫を取り戻すために、私が誘拐されました」
紬は言葉を続ける。
「それだけではありません、私には許嫁が居ます……その許嫁と結婚するためにも連れされてしまいました」
「そうか、なら戻れ。お婿さんが待っているだろう」
俺はそう吐き捨てた。
自身の好意を無視して。そちらの方が、紬にとって幸福であろうと思い。
無意識の内に顔を伏せ、紬の事を突き放そうとする。
だが、その胸の内には好意と嘘への痛みが溢れかえっている。
「いいえ、私は許嫁には嫁ぎません。あの人を裏切り自分の意思でここに来ました」
数瞬の間、紬が口を開く。
「峯一さん、私嫁入りに来ました。恩返しとしてではなく、嫁入りとして……」
紬は言葉を続ける。
「私峯一さんの事が好きです!愛しています!どうか……どうか峯一さん、私と結婚してくれませんか!」
彼女の茶色の瞳には涙が溜まり、その表情は歓喜と幸福に満ちていた。
あの時、手元からすり抜けた、あの愛しい者が再び現れ、こうして再び出会えた。
驚きと嬉しさ、そういった感情が混ざり合い自然と涙を流した。
「はい!」
二人はお互い引きあうように、抱き着き誓いのキスを交わす。
*
幾ばくの山々を越えた先にタヌキの里がある。
そこの神社にて、一組の夫婦の盛大な結婚式が行われていた。
夫はただの人間、偶然という運命に引かれ妻とであった人間。
妻はタヌキの族長の娘、夫となる人間と出会い、恋引かれあった。
二人の表情は、幸福に満ち溢れていて、こちらまで幸せになれる気分だ。
二人は誓う、夫婦になるという事を。
これから、如何なる困難が待ち受けようとも共に力を合わせ乗り越えてゆくと。
こうして、一組の夫婦が生まれた。
人間と化け狸との夫婦、異類の夫婦。
これは、一人の人間と化け狸との物語。
狸の恩返し 冬月鐵男 @huyutukiakira
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