第2話 話し合える相手がいるだけで

 あれは忘れもしない十五年前の冬、富山の底から体が冷えるような感覚を覚えるほどの寒さが日常になって、雪もしきりに降る二月の葬式場でのことだった。

 幼かった私は両親を失った実感が湧かず、ただ目の前で起きた出来事が脳内でフラッシュバックしているだけで、何があったかを話すことができなかった。


 そんな私の手を引いて、優しく話しかけてきたのは誰だっただろうか。目尻のシワが彼の生きた年月の長さを証明している。そのシワがクシャッとなった特徴的な笑みの中年男性が私に話しかけてきた。


らんくん。少し話をしようか」


「…………」


 当時、口から言葉を発することができなくなっていた私は小さなノートに返事を書くのだが、話す言葉の速さにペンを紙に走らせる速さではあまりにも追いつかなくて、少しイラつきながら返事を書く。そのイライラが彼にも伝わっていたようで、苦笑いしたその顔は私に聞く。


「やめたほうがいいかい?」


 見たこともないその男に、私は幼くて形の整っていない文字で返答を突きつけた。葬式場の入り口付近だったからか、人が中に入るたびに開く自動ドアから外の冷たい空気が入ってきて指がかじかんでくる。


『どちら様ですか?』


「そうだよな。まだ君は私と会ったことがなかったんだ」


 彼は三条藍さんじょうらんを知っているが、三条藍は彼にまだ会ったことがなかった。この葬式場での邂逅が初めてとなる。両親を失った悲しみと、これから自分はどう生きていけばいいかで悩んでいた頃のことだった。ストレスから胃は痛み、吐け口になるものが見つからない。


 そんな時期にいきなり出会った知らない男。きっと自分が大人になった時に相続される遺産が狙いなのだろう。当時の私は邪推しながら男を睨みつけてノートにペンを走らせた。何しろ、私の父は富山で一番大きな建設会社の社長だったのだから。


 祖父はすでに亡くなり、祖母も認知症が酷くなって施設に入ったばかり。叔父も叔母もおらず、三条建設の後継者は私しかいない。そんな状況だったからか。知らない親戚たちが甘い言葉で私を誘い、目の前で「御曹司を引き取るのは俺だ」「遺産はもらった」などといった喧嘩が目の前で繰り広げられていた。


 三条家の血筋を引く者や、私に血縁的に近い者はこぞって私が社長になるまでの椅子の座を争っていた。そんな状況で、私を愛してくれる人間などこの世にいないのだと知った。あの日曜の真夜中、両親と一緒に秋山呉羽の母に殺されて血を吸われて仕舞えば良かったのだ。

 そうすれば神様が両親とともに天国へ連れて行ってくれる。そんな幼い希望を抱きながら、私はいつの日か死を望むようになっていた。

 だからだろうか。ノートに書かれた答えを見て男が悲しい顔をして私の頭を撫でた。


「かわいそうに。そんなにレッテの奴らに殺されたかったのか」


 なんだこいつ。そう思いながらノートを見ると、そこにはただ一言「呉羽のもとへ」とだけ書かれていた。自分でも思いもしないことに驚いて、思わず声が出ない代わりに後退りする。すると男は立ち尽くしたまま、自己紹介した。


「わたしは三条燕さんじょうつばめ。藍くんのおじさんだよ。君と会うのは十年ぶりだね」


 思わない伯父の登場に、私は思わず涙をこぼしてノートにひたすら疑問を書きこむ。


『どうしておじさんは今まで家にこなかったの?』


「……君のお父さんと喧嘩してね。今まで家に近づくことはなかったんだよ」


 父は婿入りして三条を名乗り出した人間だった。きっと三条建設の社長に選ばれたのが自分じゃなくて京都の施設出身の人間だったから、地元の人間でないことも気に入らなくてずっと家に来なかったのだろう。

 脳内で自分の相手に対する悪いイメージが付いて悲しくなる。ひたすら自分の涙がこぼれ落ちるノートの上に拒絶の言葉を書き込んで、相手を拒絶するようにした。


『こないで』、『きえて』、『ひどい奴が』……。どんなに酷い言葉を書き連ねたことだろう。気がつくと涙を流す自分がたった一人葬式場に残されて、燕おじさんはいなくなっていた。


 それから父の親戚を名乗る柚木夫婦に引き取られたが、彼らに遺産のほとんどを横領されて大学の学費も払うほどの遺産は無くなっていた。


 バイト詰めの毎日を送っていたあの日のことを思い出すと、本当に吐き気がしてやまない。それはシッターのバイトをして、琳音と初めて出会った時もだ。

 出会った時、女の子の着るフリルのワンピースを着て、リカちゃん人形を手に持った少年は怯えた様子で私に挨拶した。その時、震えてたった一人で葬儀場に立っていた自分と重ねてしまって内心泣きたくなった。


 それから数年、琳音の元気な姿を見たときは思わず安堵の息を漏らさざるを得なかった。そんな少年と食べるカレーは美味しくて、彼のアレルギーでカレー屋に香辛料をミックスしてもらう代金が高くても食べさせたくなるのだ。


「ねえにいちゃん、なんでにいちゃんはいつも笑っているの?」


 なんだこいつ。突然変なことを話し始めたぞ。いつもなら「カレーが美味しい」と笑顔で頬張ってくれるのに、今日はやけに苦しい空気が流れる。


「琳音、俺がそんなふうに見えるのか?」


「ん? なんだろう、いつも苦しそうに笑うからさ。たまに泣くのかなって思ったんだよね。水曜日に図書館でにいちゃんが泣いたように」


 正直、なぜあの時泣いたのか今でもわからない。呉羽の記憶がかすかに脳裏をよぎったのは覚えているが、それが理由だと思うほど自分も幼くないからだ。もう十五年前のことなのに、大人になった自分が目の前で亡くなった初恋相手を想い続ける理由がない。


「手が止まってるぞ」


「っ、あっ!」


 そのまま話に夢中になってたことに気づいて、勢いよくカレーを頬張る琳音が可愛らしい。まるで弟というか、妹というか、話しやすい家族ができたような気がするのだ。

 お互い孤児同士、割と馬が合うのかもしれない。聖書で言う、「泣く人とともに泣き、笑う人とともに笑いなさい」ということだろうか。やっと違う形で家族ができたような気がして、嬉しくてならないのかもしれない。


 はっきり言って、こんなにお互いの思うことを話し合えるのは琳音くらいしかいないのだ。柚木夫婦とも、富山の三条建設とも縁を切った今、自分の人生を歩んでいる気がしてならないのだ。だから、琳音のことは何があっても守り抜きたいのだ。たとえ、自分のみが滅ぶことになろうとしても。


「にいちゃん、ニュースみようぜ」


 この琳音という子供は年齢の割にませているのだが、時々見せる子供らしい態度が昔の自分と重なって、この子も愛に飢えているのだと大人になって思うのだ。だから、十一歳の冬に葬儀場で手放した優しそうな手を今でも思い浮かべるたびに後悔の念しか湧かない時がある。


「そうだな。漢字の勉強にもなるしな」


「……うん」


「漢字が一番下手なお前だ。だから今夜はニュースを見たら、漢字を教えてやる」


「ちぇっ、枕投げしたかったのにい」


 テレビのスイッチを入れてニュース番組を放送しているチャンネルを回す。すると、昔よく見た富山の城跡が画面いっぱいに映っていて、何があったのか分からないままキャスターが無機質に話しているのを聞いている。


「富山県警は、談合の疑いで三条建設社長、三条燕容疑者を逮捕しました……」


 ああ、あの日の自分は間違っていなかった。優しい声をかけてきた伯父はしれっと三条建設の社長となっていた。県内一の規模を誇った建設会社社長の息子はいま、こうして歴史ある会社の崩壊を淡々と流れるニュースで知って、今の自分に安心している。


「……にいちゃん? 手が止まってるよ?」


「…………」


 伯父のしたことに内心苛立ちよりも、悲しみが勝って自分がいま、どんな感情でいるか分からない。琳音にはどんな表情で接すればいいのだろうか。もしかして、また三条建設を経営している一族から誰か自分のもとにこんな書物がある日来るかもしれない。


「三条建設の御曹司だった人間として、戻ってきてほしい」


 今の自分は寒々しくて白い空が続く富山の静かな街よりも、神戸の教職に就く二十六歳の男として生きたい。あの頃とは違って、大分知恵もついて今の暮らしに満足している自分は、もう戻りたくないのだ。


「……琳音、話を聞いてくれないか。小さかったお金持ちの男の子が、孤児になって自分の道を選んで大人になるまでの話を」


 いつのまにか感情が昂っていて、自分の話であることを伏せて過去の話をします自分が食卓にいた。幼い子供の唖然とした表情にかつての自分を思い出しながら、彼の答えを待った。


「へえ、面白そうじゃん」


 どこか舐め腐った子供らしいニヤけ顔を浮かべながら、彼は淡々とカレーを食べている。この間接照明の薄暗い中、私は幼い子供を聞き相手にして過去の鬱屈とした気持ちを語り始めた。


「その子は富山で大きな会社の息子をやってたんだ。家の近くには城跡があって、いつもそこで幼なじみの女の子と遊んでた。幼い頃から隣でその女の子が成長していく様を見て、奴は思ったんだ。「好きだ」って。でもしばらく会えなくなってよお、ずっと勉強に熱中していた奴はある日いじめられていたその子を見かけてら助けるんだ。お互いに再会を喜んで、やがて図書館で一緒に勉強したり、城跡から見える富山の街を見て、いつの間にかお互いのことを好きになってたんだよな」


「へえ。その子は幸せだね」


「そうだったろうな。いつも奴の手を繋いでは、「大好き」って言ってくれる子だった」


「おれもそんな褒めてくれる人がいたらなあ」


 いたずらそうな笑みを浮かべて、スプーンを食器の上に立てたままの琳音は話の続きを望んでいるようだった。ただ、その姿がいつもの元気で無垢な琳音の姿とは違って、大人の女のようだったから一瞬緊張してしまったのが玉に瑕だが。


「……で、その子は太陽を浴びれるけど体に火臓という臓器を持つ子だった。つまりレッテだ。お前と同じだよ。だからいじめられていて、奴らは学校でも浮いた存在だった。でも、二人ともそんなこと気にしないくらいお互いのことで夢中だった。でも別れはいきなり訪れるもんなんだよな」


「つまり……、何が起きたんだ?」


「どうしてかは知らないが、二月の冬だった。その日は吹雪荒れる日曜日の夜で、その子の親とその子が奴の家にやってきたんだ。親しい間柄だったから奴の親は入れた。だがな、途端に家族を母親が襲い出して、白眼が赤黒い地に染まった姿で、奴の家族を襲ったんだ。だがな、女の力で、首筋を噛み破るんだ。どんな光景になると思う?」


「……グロいと思う」


「そのまま奴は逃げ回った。広い家の中をさまよって、ずっと息を殺していた。でも見つかった。その子の母親がこっちを見つめている。するとその子が母親に噛み付いて、お互い取っ組み合いの喧嘩になって。しばらくその光景を見ていた奴は、見ちまったんだよ……」


「あっ……」


 琳音のスプーンが食器に落ちる音がした。そのまま彼は私を哀れんでいるのか、悲しんでいるのか分からない目でこっちをずっと見つめている。

 きっと私と同じことを考えたのだろう。夜桜の中、父が目の前で殺されて肉塊になる姿を、自分の左目がえぐられる様子を遠目で見るような感じで。


「に、にいちゃん……。あなたはひどい人だ」


 そう言って泣き崩れる琳音の泣く姿を見て、私も思わず泣き崩れて初めて自分にとって唯一と言える存在を傷つけたことを悟る。私は話を聞いてくれる人がいてほしかったのかもしれない。成人男性の低い泣き声と、子供のひばりのような泣き声が響くからか。隣の住人が壁をドンと叩いてきた。


「ごめんよ琳音……」


 親しき中にも礼儀ありという言葉があるのを忘れていた。そんな自分が恥ずかしくて、思わず顔が赤くなる。お互いの泣き声が止んだのはそれからすぐ、泣き顔が偶然見合ったことだった。


「…………」


「…………」


 しばらく黙りあって、先に誰が沈黙を破るかの黙りっこが続く。その中で、先に負けたのは琳音だった。


「大人も泣くんだね。……、今日はにいちゃんが初めて自分と向き合った日だよ」


「ああ、無理矢理悲しい物語を聞かせてごめん」


「いいんだよ。聞き上手じゃないけど、にいちゃんの心を少しでも癒せたならそれでいいよ」


「お前は優しいな。ありがとう」


 お互いにお互いの素顔を見せ合える。学校では見せられない姿を見せられる場所がある。それが嬉しくて、私は琳音といつまでも泣きあって、笑いあっていたのだ。

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泣き虫先生と男の娘の音楽日記 夏山茂樹 @minakolan

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