泣き虫先生と男の娘の音楽日記

夏山茂樹

第1話 悲しい時は好きな歌を口ずさむと

「なあリオ、お前またそんな古い漫画を読んでんのか?」


 図書館の閲覧席で漫画を読んでいた篠山理央ささやまりおの顔を、琳音がニヤけた顔で睨み付ける。だが理央はそんな彼の表情には慣れている様で、物怖じひとつしない。


「……ッセーな、バカ。お前は翻訳しかできないくせに」


 小さくもよく通る声が琳音を挑発する。その挑発をどう解釈しようが琳音の自由だが、彼は少しうつむいて眉を潜めた。


 周りの子供たちは琳音のその顔を見て、どこか怯えた様子でずっとそれを見つめている。人間、怖いものから顔を避けることはできないものだ。

 黙って流れる冷や汗を拭かないで固まった者から、こそこそ噂話をしている上級生まで反応は様々だが、こうしてずっとこの状況が続くのは担任教師としていただけない。


琳音りんね、そうやって睨むな。ところでリオはなんの漫画を読んでいるんだ? 先生に見せてみなさい」


「あっ、ちょっ……」


 この時の私は空気が読めなかった。理央が必死に隠そうとした漫画を、彼の手を退けて見てしまったのだ。興味があって。ああ、実に恥ずかしいことをしたと、思い出すたびにこの時の自分を殴ってやりたくなる。


「『鉄人28号』……。これまた古い漫画を。一体どうしたんだ?」


 すると理央がとうとう堪忍したと言った様子で、小さな声でその事情を話し始めた。また琳音の様に顔をうつむかせて、体を固くしてどこか緊張した様子の彼に、私は肩を軽く叩いてその顔に微笑みかけてやった。


「大丈夫。この部屋にお前を笑う奴はいないよ」


 すると理央が眼鏡越しに不安げな瞳を見せてきて、私に反論するかのように聞き返してきた。


「保証はできますか? 六十年以上むかしの漫画の中身を知る小学四年生なんて、そうそういませんよ?」


「それはな……」


 周りはさっきの琳音とは違って、自分のところに戻って各々の作業をして楽しんでいるようだ。一方で、私と理央の会話を聞いていたのか琳音は顔を上げて静かに微笑んだ。色素の薄い右目は静かに語り出す。「にいちゃん、おれは大丈夫」と。


「周りを見なさい。大丈夫だよ。たかが古い漫画を好きなだけで笑う奴がいるほど、この学校も落ちぶれちゃいない」


「じゃ、じゃあ……。おじいさんに開発されて育てられたロビーって人工知能を持つロボットがいるんですが、ソイツはやがて人間を超える知能を手に入れてしまったんです。ロボットのためだけの国を作ろうと、人殺しにさえ手をかけてしまうですけど、正太郎って少年探偵の操縦する鉄人に滅ぼされてしまうんです。戦争兵器として設計されて、ヒトの手でしか動けないヤツに」


「へえ……。そういえば昔やったゲームにそんな敵がいたなあ。懐かしい、元ネタはこれだったのか!」


 ロックマンXだったか。むかし、呉羽くれはの家に行った時に古臭いゲームが置いてあって二人でプレイした記憶がある。懐かしいなあ。

 富山でまだ平和な子供だった頃のことを思い出して、ふと感慨深くなっていた私は彼女も琳音や理央と似たようなはみ出し者だったのを思い出す。


 私が教師を勤める学校には、二種類の人間がいる。レッテと呼ばれる障害者と健常者だ。レッテが差別される歴史は根が深くてここでは到底説明しきれないのだが、世界的な薬害事件でインデル症候群の子供が生まれ、その子供が同じ病気を持つ子供を産み、それが繰り返される。それはいいのだが、問題はインデル症候群の症状だ。


 インデル症候群の患者は基本二種類に分けられる。生まれつき血液内にとある酵素が欠けていて、その酵素がないために、日光を浴びると皮膚が溶けてしまったり、血を吸いたいという欲求のため、理性が強化されて覚醒してしまう鏡化といった症状があり、殺人を犯す者も出るほど社会問題になった時代があった。


 その時代を経て、差別を受ける様になったレッテたちにはヘイトクライムという形で差別が襲いかかる。琳音も父を目の前で殺され、彼自身も左目をえぐられた。


 その一方で日光を浴びることができるが胃の隣奥深く、小さな火臓というものが体内の神経や臓器と絡み合っているレッテもいる。その火臓は感情が昂ると神経や臓器とともに爆発してしまうのだ。

 彼らは何気ない日常を送り、食事も普通に取ることができる。まあ、吸血欲求から来る鏡化が起きるのは変わらないが。


 呉羽は後者のレッテで、学校ではいじめられて友達と呼べるのは私くらいだった。恥ずかしながら彼女が私の初恋相手で、彼女の家でゲームをしたり、算数を教わったのはいい思い出だ。


「……にいちゃん」


 琳音のひばりみたいな声が私を呼ぶ。いったい何が起きたのだろうか。我に返ってみると、涙を知らず知らずのうちに流していて視界が歪みきっていた。


「ほら、にいちゃんハンカチだよ!」


 琳音がハンカチを取り出して、私の目元を拭いてくれる。まだ幼い彼の身長は、クラスでも大きいほうだが理央に比べるとまだ小さい。きっとつま先立ちをして、呆れた顔で拭いてくれているのだろう。


「何か悲しいことがあったの? 涙が止まらないよ……」


 なあ琳音、お前は小さい頃、シッターだった私の前で泣いて言ったな。覚えているか? トーマスを見て、普通の男の子が好きなものにさえ触れられなかったお前がそれを悟った時の言葉。


「みんなとおなじになりたい」


 そんな叶わない願いを持って泣いていたお前も、私の涙を拭って心配するほどに成長したのだな。安心して、私は思わず彼の手を握った。本当はまだ小さなその体を抱きしめてやりたかったが、私たちの関係を知らない世論がうるさいだろう。手を握ることが精一杯の感謝の示し方だった。


「先生……、ロビーの話がそんなに悲しかったですか?」


 違う。いや、少しは正しいところもあるのか。琳音や呉羽、理央といった世間に理解されない人間の境遇と、呉羽との過去を思うと悲しくなって仕方なかったのだ。

 だが、呉羽の話を教え子にしたら彼らはどう思うだろう。きっといい顔はしないだろう。中には自分の境遇を思って悲しむ子が出てくるかもしれない。そんな思いを教え子にはさせたくなかった。


「なんでもないぞ……」


「そうですか。ならいいのですが……」


 うつむく理央は罪悪感でいっぱいなのだろう。肩を抱いて私を遠い目で見つめて何かを思っている様だった。だが周りはさっきとは違って、教師の涙に興味を示すことなく自分達の楽しみに打ち込んでいる。それはある意味で、救いだったのかもしれない。


「にいちゃん」


 琳音が優しい表情をして私に微笑みかけてくる。だが、その微笑みにはどこか毒々しい企みを感じられてならない。唇を指で撫でて、琳音はこう提案してきた。


「こういう時はね! 好きな歌を口ずさむと悲しみが紛れるよ! だからさ、好きな歌を探しに行こうよ!」


「……お前はそんな経験があるのか?」


「まあね」


 琳音が子供っぽい笑みを見せて笑う。そしていきなり私の手を掴んで、奥にあるCDコーナーへと向かった。奥へ行けば行くほど、人が少なくなる。私はそんな人気のない世界で、琳音の笑みを見つめていた。


「おれさ、ここに来たばかりの頃にいっぱい歌を知って、歌うようになったんだ。恥ずかしいけど、空色の列車とか、ピッピの歌とか、勇気百パーセントとか」


 そういえば篠山理央ささやまりお尼崎あまがさきからこの街まで通っているのか。そうか、最後に出てきた曲が使われているアニメの原作者が暮らしているのか。奇妙な偶然に気づいて、思わず私はハッとした。


「ここっていいよね。CDで聴かなくても、サブスクで音楽が聴けるし」


「施設では音楽を自由に聴けるのか?」


「うん。年長さん名義でプリペイドカードを使って、みんなでお金を出し合ってファミリープランで聴くんだ」


「……ほお、結構知恵を使うんだな」


 私は目的のために、自分たちが持つ知恵を使ってこの世を生きている子供たちの強さに驚くばかりだった。


「にいちゃんも、きっと大学生の頃にみたんだろ? 古い映画で余命を悟った公務員が雪の中歌う、ゴンドラの唄のシーン」


 おれも施設でみたんだよ。そう横から覗くようにニヤけながら私を見上げる琳音は、どこか誇らしげな様子でCDを漁っている。しかしまあ、この学校のCDはアルファベットばかりだ。邦楽が無いと言っていいほど見かけられない。


「おれが来たばかりの頃は……、これをよく聴いてた!」


 オススメのアイドルを紹介する無垢な少女のように、彼は両手に洋楽のCDを持って私を見上げる。「これどう?」と目で語りかけてくるその爛々とした輝きに、私は嬉しくなって思わずそのCDを手に取った。


「これがお前のおすすめかあ……」


 Lalehという歌手のColorsという名前のアルバムを手に取った私は、裏を返して曲目が書かれたジャケットのデザインをじっと見る。


「Stars AlignにReturn to the Soilか……。『神の導き』も、『土に帰る』ことも、なんか宗教的だな」


 何の意味が含まれていたのかはわからないが、私の口から息が思わず漏れる。その一瞬を琳音は見逃すことなく、聞いてきた。


「神様とか天国とか、そういう系は嫌い? まあいいけどよお……。おれは好きだぜ? 慰められたからな」


 残念ながら、私は死を割り切ることができない、幼い人間だった。だから琳音にも普通に彼の信じる神の存在を否定してしまう。


「俺は死の先が分からないから怖いだけだ。さっきのリオだって、あいつが読んでた鉄人の人工知能も、機械を壊されれば仕掛けが壊れたんだ。その仕掛けが壊れた先には何も無いさ」


「ふうん。あのクッソ古い漫画にそんな話がねえ。まあ、にいちゃんは自分の怖いものを認めることができてすごいよ。おれにはできねえ芸当だ」


 琳音が例のCDを手にすると、また私の手を取って図書室の扉近くへ向かいだす。壁に貼ってあった「図書室では静かに」というポスターさえ無視して、明るい顔をして司書のおばさんにCDを差し出した。


「おばさん! これ借ります!」


 すると彼女はシワの刻まれた手で小さなそれを手に取って、琳音の顔を見つめる。爛々としたその瞳を確かに見つめたのか、彼女は振り返るように彼に言った。


「去年に比べて笑うようになったわねえ」


「えへへ、そうですか?」


 後ろの私を一瞬振り向いて、琳音は笑って聞き返した。おばさんとのやり取りが終わるまで、私は静かにその様子を見つめていた。


「好きな人でもできた?」


 すると彼が急に黙り込み、やがて小さな声で答える声が聞こえた。


「ま、まあ……。あはは……」


 さて、借りたCDを持って、教室にあったCDプレーヤーで音楽を聴く。共用トイレとはいえ、さすがに音楽は聞こえるのではないか。私は邪推しながらも、音楽を聴いた。琳音が好きな、慰めの歌となった音楽を同じように目の前で親を失った私も共に。


「……いいな、これ」


 ふと口にした言葉に琳音がすぐに反応して、八重歯を見せて笑って言った。


「でしょ?」


「残念ながら歌詞の解釈が難しいけどな」


「もう! そんなのは聴いた人に任せればいいの! ほら、鉄人でもさ、『いいも悪いもリモコン次第』っていうでしょ? リモコンが解釈なんだよ」


「そ、そうか……」


 ここは神戸こうべの片隅。どこかにあるという鉄人の像を見たこともない私は困惑しつつ、脳内ではドラえもんを連想することしかできなかった。

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