五分インスタント
七種夏生
5分インスタント
茜空がとても綺麗で、五分経ったら縁を切ろう。
そう決意した。
すぐ出来る、すぐ食べれる! が宣伝文句のカップ麺にお湯を注ぎ、蓋を閉めると同時にため息をついた。
『熱湯五分』
その文字が真夏の暑さを更に増長してくるようで、背中を汗が伝った。一人で過ごす時間は極力、空調に頼らなかった。故にこの一ヶ月、真夏日が続いているにも関わらず電気代は先月とほぼ変わっていないだろう。
いま、何分経った?
時計を見ると、秒針は11と12の間にあった。
一分も経っていない、私の体内時計はいつも常識より少しだけ早いのだ。
あと四分。
もう少し、もう少しと言い聞かせ、テーブルの上の[離婚届]に目をやった。筆記の部分は記入済み、あとは印鑑を押すだけだ。これを食べ終わったら、五分間我慢できたら、印鑑を取りにいこう。
深く息を吐き、時計を見るとちょうど4を通り過ぎた。
頭の回転が速い、と何度も言われた事がある。一度説明された事は難無くこなす、その仕事ぶりは男性の目にはさぞ不快に映ったろう。
そんな君が好きだと、彼は言ってくれていたのに。
いまこの瞬間の蒸し暑さと私の器用さ、彼にとってはどちらがより不快なのか。
感慨に浸っていると時の流れは早く、秒針は1に向かって進んでいた。
後悔がないといえば嘘になる。
だけど謝罪する、という方法はとりたくなかった。そもそも合わないのだ、相性的に、人間性を以って。喧嘩になるまで討論をしたい私が悪いのか、穏便に済ませたい彼が悪いのか。どちらも間違ってはいない、ただただ、合わなかった。
故に、どちらが悪いというわけではない。
カチッと、針が六を示して残り半分を告げたので、立ち上がって冷蔵庫を開ける。
束の間の冷気を吸い込み、新婚旅行で購入した萩焼の酒呑にワインを注ぐと、綺麗な赤がなみなみと揺れた。初めて手に取ったときよりも随分色が変わった陶器、当初が何色だったか思い出せないけれど。
そういえば写真があるのではないか? そう思ってスマホを手に取るが、トップに通知されていたニュースを読んだだけで手を止めた。
残り一分と四十五秒。
禁酒を決意したのはいつだったか、それを破るまでに時間は掛からなかったと思う。たかが一杯で幸福を得れるのなら安いものだろう、そう思って冷蔵庫を開け、補充がない日にはコンビニに向かい、パントリーに置いていたものは氷を注いで飲んだ。
最近は氷の需要が高く、供給が追いついていない。ワインに冷却は必要ない。
時計の針を見ると、二十五秒しか経っていなかった。
落ち着けと、彼に言われた。
ゆっくりでいいから、落ち着いてくれと。
いつだってそうだ、何事に対しても私は早計で早口で捲し立てて彼を追い込み、それ故に彼は対話のシャッターを閉じた。
一度そうなると重い扉を上げるのは困難で。
秒針は10、まだ十秒しか進んでいない。
世界は私が思うよりも、ゆっくり回っているのだ。
頭を抱え、彼と最後に話をした時の事を思い出した。
罵詈雑言を浴びせ、その日のうちに謝ったが、彼の意思は揺るがなかった。
「もう無理だよ」
そして粛々と、その理由を語ってくれた。だけど今、いくら考えてもその理由を思い出せない。声も、その時の彼の表情も全くわからない、それが答えだ。
私は彼の話なんか、一つも聞いていなかった。
顔を上げると二の位置へ移動する針があって、それを目で追いかけた。
いち、に、さん、し……
こうやってゆっくり、数を数えていたらよかったのに。
落ち着いて、考えて、ゆっくり、落ち着いて、呼吸を整えて。
はち、く、じゅう
すぐできる、すぐ食べれる! が売りの即席麺、広義にそれをインスタントラーメンと呼ぶ。
世間の人にとってはこれが、五分はインスタントなのだ。
すくできる、手間がかからない。
さんじゅうし、さんじゅうご
その五分さえ我慢できない私はどれだけ傲慢で、世界とズレているのだろう。
堪えきれなくなってワインを飲み干し、酒呑をテーブルに叩きつけた手で勢いそのままカップ麺の蓋を開けた。
ちゃぷんと揺れるそれは熱を持っておらず、間違えて水を入れていた。
はっと顔を上げると秒針がちょうど12を差したところで、ゆっくりと、蓋を閉じて項垂れた。
大丈夫、大丈夫……だってこれは水だから、そもそも最初から間違いだったから。
だから、私はまだ、スタートラインにすら立っていないから。
だから大丈夫、もう一度。
お湯を沸かすために席を立つと、背中がべったり濡れていて、分厚い空気に息苦しさを感じた。
空調を入れるべきか迷って窓に手をかけたとき、ベランダの向こうに夕焼け空が見えた。
茜雲がほうほうと漂って、五分前に見た空と何が違うのかよくわからなかった。
五分インスタント 七種夏生 @taderaion
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます