透明な温度


子どものころに、きっと誰しもが妄想しただろうこと。もしも現実に起こったら、どんなことがあるだろう。思いを馳せたその先は、透明人間。


 長い長い年月を経て、それは科学者たちの手によって現実のものとなった。多くの人間が透明になることを望み、それを実行した。世間は「不可視人間」と呼んでいた。彼らは目に見えないだけで触れられるし、会話もできる。服を着たり、包帯を巻いたりすれば肉体を視覚的に認めることもできた。温度があり、食事や睡眠を必要とし、ただ見えないことを除けば、見える人間と変わりなかった。

 しかし犯罪は増加した。監視カメラにはサーモグラフィの搭載が当たり前になり、それと同じように機能するゴーグルやメガネが爆発的に流通した。普通の見える人間が起こした事件で、最初は罪を認めていた被告が「透明化薬断絶」を掲げる弁護団に関わったばかりに、「あれは不可視人間がやったんだ」と言い分を変えてしまうようなことも起こった。


 不可視人間が世間的に認められ、それに釣り合う法律も整い、しばらくの年月が過ぎた。無差別に透明化してしまった一般の人間を政府の管理下で生活させることで、市民の安全も表面的には守られたかたちになった。政府が管理している不可視人間を住まわせる地域は「可視無市」と名付けられ、それは各地の米軍基地内に置かれることになった。

 科学者たちは政府と手を組み、不可視人間の研究を続けた。個人差はあるが、不可視人間の多くはまず、精神に異常をきたした。風景の一部になってしまった自らの肉体を傷つけ始めたのだ。生きた心地がしないのだと、生きていることを実感するために血を流す。しかし流れ出したその血さえも透明で、さらなる喪失感を生み出すだけであった。そしてなかには命を絶つ者も現れた。死後二十日は経っていただろうその人の遺体は、服を身に着けておらず、広い敷地の片隅にうずくまるような形で発見された。どうやってサーモグラフィ搭載の監視カメラを逃れたのか、どうして行方不明になってから半月以上も発見できなかったのか。問題を残してその人は葬られた。焼かれた遺体は骨まで透明で、どうにもやるせないものだった。


「あなたは大丈夫なんですね、ずっと」


 研究者の風尾は、不可視人間と話していた。もちろんこれも研究の一環で、定期的に一人ずつと面談するのだ。


「あんなこと、私にはできません。でも気持ちはわかる。自分でこうして肩を抱えても、見えないことに変わりはない。自分の存在が確信できない。不安ですよ、いつも」


 この不可視人間は諸崎。もとは風尾の先輩でもあった。


「でも、こうして誰かと話をしたり、日記をつけたりすることで、少しは自分を確かめられるんです」


 諸崎は、テーブルに転がるペンを持ち上げた。クルクルと空中を回るそれは、不安定に揺れていた。


「諸崎さん、あなたが不可視人間になった理由は、まだ?」

「ええ、まだ思い出せないんです。不思議ですよ。研究のためだからって、ここまではできないはずなんですよね、本来、私という人間は」


 風尾は黙ったまま曖昧に頷いた。本来、諸崎という人間は、風尾に対して敬語など使わないはずなのだ。面談の度に、諸崎の人格は変化していっていた。

 サーモグラフィ搭載のメガネをしている風尾は、彼の変わりように言葉を失うこともあった。もともと諸崎は、どちらかと言えばがさつで体育会系の先輩気質、声がでかくて無駄に鍛えた筋肉を自慢するような明るい人だった。風尾が初めて面談をした時は、まだ風尾が知っている諸崎のままだった。最初は座り方。何度めかの面談で、パイプ椅子に浅く腰かけた彼は、背中を丸めて落ち着かない様子だった。


「どうしました、諸崎先輩」

「風尾……? どうもしねぇよ、ただ、不安なだけだ」


 怯えたように後輩を見上げる諸崎。語調こそもとのままだったが、きょろきょろと首を振り、居心地悪そうに視線を彷徨わせる姿は、もはや風尾の知っている諸崎ではなかった。


「風尾くん、どうやら私は、記憶を失くしていっているようなんだ」


 一通りの質問が終わった後、諸崎は唐突に話し始めた。


「君の顔と名前、声も姿も覚えている。でもね、以前私は君ともう少し親しかったような気がするんだ。同じ研究チームに君は居たのか? どうだろう、自傷をしない代わりに、私は人格を捨てようとしているのかもしれない。どう思う? 風尾くん」


 問いかけられ、彼は小さく微笑んだ。人格を失くそうとしていることを自覚するなんて、さすがは先輩だと思った。でもそれを伝えることは許されていない。彼には彼の仕事があるのだ。


「諸崎さん、多分それは、僕ではない誰かとの記憶ですよ」


 寂しく思うことも懐かしむことも、ましてそれを共有することも、今の諸崎にはできない。風尾も彼に関してはそうなのだ。面談室では、思い出も感情も必要ない。


「そう、ですか。また一つ、思い出せないことが増えてしまった。ああ、時間ですね。片岡さんを呼んできます」


 次の片岡、その次の太山との面談が終わっても、風尾の微笑みは消えなかった。


* 


 その日のニュースに、世の中は揺れた。ある可視無市の研究所で行われた実験が、とても想像できないようなことを実現させたのだ。子どものころの妄想、生まれてしまったそれを世間は「透明人間」と呼んだ。

 「透明人間」は「不可視人間」とは違っていた。見えないだけではなく、触れられず、半ば音声も失い、睡眠や食事さえも必要としない。それはつまり、肉体を消滅させることに他ならない。まさしく透明人間。人は、意識だけの存在になる術を持とうとしていたのだ。


「どんな人だったんだろうね、透明人間」


 香織は台所に立つ母に言った。


「死んでも無い人をそんな風に言わないでよ」

「でもきっと、死んでるよ。科学者だったのかなぁ」


 母は、さぁねと相手にしない様子だった。香織はそれ以上何も言わず、ニュースを見続けた。透明人間の話題以外に香織の興味を引くものは無いようだった。テレビの上には家族写真が貼ってある。香織はまだ幼く、両親は若かった。


「家族は居たのかしらね」


 から揚げをテーブルに運ぶ母が言う。香織はそれに手を伸ばし、さぁねと返した。

 しばらくの沈黙ののち、香織は分厚いアルバムを持ち出した。テレビは華やかに歌番組を流している。ぺら、と開いたページには、先ほどの写真よりも幾分か若い両親の姿があった。

 香織はいつかの日記にこう綴っていた。

『気がついたら父はいなかった。幼いころから泊まり込みや出張の多かった父だったので、帰ってこないことを疑問に思った時には、すでに取り返しのつかないところまで来ていたらしい。

会いに行ったとき、父は私を抱きあげた。母は少し泣いていた。宙に浮く私の姿に堪えきれなかったのだろう。父は、私を丁寧に呼んだ。「香織ちゃん」という響きが、やたらと耳について離れないままだ。父は死んだ。死んだのだ。私たちの知らないところで、勝手に消えて無くなってしまったのだ。私は、科学が憎い』

 ポテトサラダを小皿に取りながら、香織はアルバムをめくり続けた。


「おいしいよ、からあげ」


 微笑みを返す母の視線は、わずかにアルバムへと移った。


  *


 風尾が所長になってから数年が経った。多くの不可視人間が自殺や人格の崩壊をしたが、不思議なことに不可視人間の人口は減らなかった。諸崎は、変わらず穏やかな不可視人間であった。


「諸崎さん、あなたに新しい仕事を持ってきました」


 不可視人間が就業する場合、それは基地内の簡単な仕事に限られる。しかも、就業が認められる不可視人間もごくわずかで、彼らが働いている場所もまだ少ない。


「今と同じような、部品の確認作業なんですけどね、少しここからは遠いので、あなたに引っ越してもらわなければならないんです」

「はぁ、そうですか」


 なんの執着もなく諸崎は頷いた。生気の弱い彼の温度に、風尾は少しうつむいた。彼にとっては久し振りの面談で、諸崎との会話をわずかに楽しみに思っていたところがあったのだ。しかしその懐かしさは、面談室ではあっさりと切り捨てられる。


「必要な荷物をまとめて、出てきてください。私が案内します」


 そう言う風尾を若い研究員たちが引き止める。案内くらい自分たちがやります、所長は戻っていてください、と。しかし彼は聞かなかった。


「懐かしい人なんだよ、今回は行かせてくれ。あ、でも運転は頼むよ。僕は免許を持っていないんだ」


 諸崎の新居となる寮へは、車で1時間ほど。駐車場へ歩く道すがら、風尾は温度に形どられた諸崎の横顔を見上げた。不可視人間、特に人格を手放した者は老いない傾向がある。自分の知っている「先輩」の体つきのまま、諸崎は知らない若者になっていた。


「荷物は、それだけですか?」

「はい。……多分、私のものはこれだけだったと」

「そう」


 写真立てが無い。風尾は空を仰いだ。いつか諸崎が、嬉しそうに持ってきた家族写真だ。5歳の娘と、元同僚の美人な奥さんをいつも自慢していた。そんな彼をみんなが好いていた。悔しい思いをしたのは、家族だけではない。彼が自分の顔を忘れてしまったのは、一体いつ頃からなのだろう。空は、ただ青かった。

 寮に着き、一通り案内をし、仕事場にも行って説明を終わらせたあと、風尾は諸崎に一枚の写真を渡した。


「それ、あなたと僕です」

「かざお、さん?」

「もう何十年も前になります。飲み会のときのやつです。あなたは優秀な科学者でした、同じ研究所に居たんですよ、僕たち。きっともう、会うこともなくなるんでしょうね。仕事、頑張ってください、諸崎先輩」


 サーモグラフィ越しでもわずかにしか確認できない表情が、一瞬だけ生気を帯びたように赤く温度を上げた。風尾は微笑んだまま車に乗り込み、用の済んだメガネを外した。とめどなく溢れる涙を拭いながら、運転席の若者に「出してくれ」と、そう言った。


 彼に渡した写真は、諸崎の結婚を祝っての飲み会で撮ったものだった。この翌年に長女が生まれ、さらに6年後、彼は自ら透明化の実験体として名乗り出ることになる。

 諸崎が居た部屋に、まだきっと家族写真は残っている。風尾はそれを貰おうと思った。一人の人間が消えてしまう悲しさを、いつまでも覚えておけるように。この事実を、誰かと共有できるように。


  *


 思わぬところで知った名前を見つけた。その日香織は、たまの休日を母親と過ごそうと、子どもを連れて実家に帰っていた。4歳になる息子はおばあちゃんが大好きで、香織も香織の母も喜んでいた。存分に遊んで美味しいごはんを食べたら、子どもは寝てしまった。

 親子でのんびりと、テレビを眺めていた。


「あ」


 思わず出てしまった声に、香織は若干の後悔を覚えた。もしかすると知らせない方が良かったかもしれない便りが、新聞に載っていたのだ。母は、どうした? と眼で問いかけてくる。何でもないと言ったところで、同じ記事を見つけられてもばつが悪い。


「いや、名前がね……」

「名前?」


 香織が差したのは訃報欄だった。


「あるでしょ」

「もろさき、はじめ」


 60を過ぎた男の名前が載っていた。母は声に出してその名前をもう一度確かめていた。彼の住所はある可視無市となっている。二人は顔を見合わせたあと、うつむきながらテレビへと視線を戻した。


「いつから、住所変わってたのかな。ちょっと遠い場所になってるね」

「……さぁね」


 テレビの上には、昔と変わらず家族写真が貼ってあった。そしてその周りには、新たに子どもの笑顔が散りばめられていた。

 父が死んだ。もとから透明だったのだ、見える世界には何の変化もありはしない。香織は目を閉じた。


 それから数日後、彼女は母に呼び出された。なんでも昔の知り合いが訪ねてくるらしく、気まずくなるのは嫌だからと相席を頼まれたのだ。


「こんにちは、史子さん」


 現れたのは母・史子の元同僚の男だった。感じの良い、白髪の多い人だった。


「お久しぶりね、風尾くん」


 史子は少しだけ泣きそうな顔をした。風尾の手土産の一つに、白い布で覆われた箱を見つけたからだ。


「話は、主に彼のことです」


 申し訳ないという感じの彼の声に、香織は「とにかく中へどうぞ」と声をかけ、上着を預かろうとした。少しだけ、薬品の臭いのするコートだった。

 ポケットに入っていた小さな空ビンを彼は大事そうに鞄に入れ替えた。香織は、少し軽くなったコートをハンガーに掛け、コーヒーを淹れてリビングへ向かった。二人はテレビの上を眺めていた。


「あなたの子どもですか」


 風尾は嬉しそうに尋ねた。


「はい。夫は普通のサラリーマンです」


 科学者ではない、香織はそう言いたかった。二人にコーヒーを勧め、彼女も席についた。とにかく、静かな会話だった。


「骨は透明で見えませんが、傾ければ音がします。納めてください」

「わざわざありがとうございます。ずっと、あなたが見ていてくれたんでしょう?」


 彼はうつむくように頷いた。


「私が、いけなかったんです。彼が亡くなったことについては、きっと、私の責任なんです」


 風尾は後悔に口元を歪め、二人に頭を下げた。諸崎が死んだのは、あの引っ越しから4日目のことだった。諸崎は、風尾が渡した写真と言葉を四六時中抱えていた。そして彼は不可視人間になって以来、ずっと忘れ続け、壊し続けてきた人格の全てをきれいに再構築してしまったのだ。風尾のこと、妻のこと、幼かった娘のこと、それから自分自身のことも。


 そして彼は理解した。書き込みの無い白いカレンダーから見る自身の年齢を。最後に見た風尾の微笑みの意味を。

 彼は泣き叫びながら、もう一度、人格破壊と記憶の喪失を願った。しかし、一度すべてを思い出してしまった彼の肉体は、急激に衰えはじめていった。それを止める術もなく、次第に弱々しくなっていく自分の温度を感じながら、彼の魂はその体を飛び出して行ったのだ。


 諸崎の急変に呼びたてられた風尾が最後に見た彼の温度の形は、4日前、先輩と呼んだ時よりずっとやせ細り、手には写真が握られていた。


「お別れだと思ったら、昔話をせずにはいられなくなった。彼がまじめな人間だと、私は忘れていました」


 風尾は何度も頭を下げた。それから、諸崎の部屋にあった家族写真を引き取りたいと申し出た。史子は微笑み、頷いた。

 風尾が帰ったあと、二人は骨を眺めていた。傾ければさらさらと鳴る箱だった。これが父かと、香織は感情の名前をさがした。そして風尾が持っていたあの空ビンの中身は、もしかすると父の一部なのかもしれない。そう思い至り、彼女はすこしだけ泣いた。




ーーーーーーーーーー

課題で書いたやつです。

少しだけ直しましたが、真面目に手を入れようものなら色々崩壊しそう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

過去作品詰所 となえるかもめ(かわな) @toNae107

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る