無い!(書きかけ)
会社を休んでいたのは三日間だった。風邪をこじらせたのだ。ようやくいつも通りに出勤してみると、そこは更地になっていた。ひゅうひゅうと風が通り抜けて、そこだけに嵐が訪れてきているようだった。同僚に、上司に、いたるところに電話をしても繋がらなかった。メールはエラーが返ってくるだけ。今日が締め切りの企画書、今日15時からの会議、今夜会う約束をしている他部署の連中。
気持を落ち着かせようと、向かいの喫茶店へ入った。
「ホット、ひとつ」
マスターはいつもの笑顔だった。けれど、いつもの窓から見えるのは、いつもの忌々しいまでに高くそびえるビルではなく、不自然に、すっかり切り取られてしまったかのように、白い地面を露わにさせた土地だけなのだ。
ふと新聞を手に取った。汚らしい野次が飛ぶ国会、いつも誰かが頭を下げている芸能人、遠い国の紛争、悪化する経済。いつも通りだ。今わたしの目の前にある現在進行形の問題など取り上げられているはずもない。他の客もいつものように、雑誌をめくり、音楽を聴き、サンドウィッチを食む。
アパートに戻ると、ポストに封筒を見つけた。不用心にも今月の給料と、会社名がつぶされた明細、そして一枚のメモが入っていた。
“本日までありがとうございました。あなたの勤めは終了いたしましたので、本日までの給金と明細を送らせていただきます。以後、私どものことを思い出そうとしたり、調べたりなど、関わりを持とうとしないようにしてお過ごしください。あなたのためにもなりませんので。”
差出人欄に記載は無く、封筒には消印はおろか切手も貼られてはいなかった。鍵を開け踏み入った部屋の中で、わたしはぞっとした。今日締め切りの企画書は、確かに自分のこの頭で考え、この手で資料を作ったはずだ。それなのに思い出せない。パソコンを立ち上げてそのファイルを開いてみるも、タイトルは「○月×日締切企画」と、内容はわからず、中身も白紙になっていた。他のファイルも同じだ。アオノ部長にオギ社長、ミツヤ君にサキタさん、みなどんな顔をしていただろう。汗が背中を駆け下りて行った。
会社の封筒はすべて社名がかすれていた。思い出せない会社についての全ての事。部屋中から手掛かりを寄せ集めてみたが、すべての文字は消えかかっていたり、擦れて読めるようなものではなかった。
名刺、名刺は?
スーツのポケット、鞄の内ポケット、探ってみても見つからなかった。唯一あったのは、空の名刺ケースだけ。
わたしはもう一度あの喫茶店へ戻ってみた。マスターに聞いてみようと思ったのだ。
「いらっしゃい」
いつもと同じ声、同じ笑顔のマスター。でもなにか、少し違和感がある。振り返ってみると、隣のビルが消えていた。さっきここへ来たときには確かにあったはずだ。白い更地が増えている。それに目を奪われていると、「ご注文は?」という優しい声が聞こえ、わたしはホットコーヒーとトーストを頼んで座った。マスター、と声をかけようとすると、ドアがカランと鳴って、スーツを着た男がふらふらと入って来た。彼は紅茶を頼んで座ると、窓の外を見つめだした。私と同じ顔だと直感した。更地を見ている。白い土を見ているのだ。
「おまたせしました」
コーヒーとトーストが運ばれてきた。
「あの、マスター」
お向かいのビルは、いつ無くなったんですか。わたしはそう聞こうとした。しかしマスターは、次を言わせてくれなかった。
「いけません。あなた、それはいけませんよ」
出せなかった言葉を無理に飲み込んだおかげで、のどを詰まらせてしまい、わたしは返事もなにもできなかった。
「知ろうとしてはいけない。探ってはならない、そうでしょう。いけませんよ、いけません」
口元は笑みを作っていたが、責められているような心地がした。わたしは彼の目を見たままこくりと頷き、詰まった言葉をコーヒーで飲み下した。知っているのだ。彼はすべてを知っている。それだけはわかった。そのままトーストをきれいに食べて、彼の様子を窺いながら雑誌をめくった。
紅茶の彼は必死に携帯とパソコンを触っている。時折頭を掻き、目を白黒させ、そしてついに脱力した。ふらりと立ち上がり、もう一度扉をカランと鳴らして出て行った。
「ありがとうございました」
彼のテーブルに置かれた新聞を片づけるマスターは、やはり彼の事情も分かっている様子だった。
給料が払えるのだから、破産や倒産ではないだろう。移転にしては急すぎるし、社員であったはずのわたしへの通達もなにも無い。しかしあのメモからすると、今日付けでリストラされたのだろうとは推測できる。
何もかもが、あり得てはならないことのように感じられた。もしこれが、抜け殻となったビルと、営業取りやめの張り紙だったのなら、潰れたのだと思える。それにその場合であれば、少なくとも同僚たちと連絡は取れるはずだ。わたしと同じ立場の同僚はいないのだろうか。
また扉がカランと鳴った。見覚えのある整えられた髭面は、取引先の人物だった。何度も商談を交わしたような気がする。目が合ったが、すぐにそらされた。話しかけようと立ち上がると、そばにいたスタッフが目の前に立った。
「いけませんよ、お客様。むやみに関わろうとしてはいけません。コーヒー、おかわりお注ぎしますね」
有無を言わさぬ圧に言葉を飲み込む。コーヒーを注ぎ終えると、彼は丁寧に頭を下げた。
「どうして」
そこでようやく発せた一言。それも視線で次を紡げなくなる。
「いけませんよ、お客様」
頑なで、怒りさえ含んだ声だった。なにも言えずにコーヒーの揺れる水面を見つめていると、いつのまにか髭面は居なくなっていた。
スタッフからの視線にいたたまれなくなり、コーヒーを飲みほしすぐに店を出た。
白くくりぬかれた、会社のあったはずの場所。あれだけのビルを取り壊すのだって、三日やそこらで出来ることなのだろうか。そもそも三日前、熱で朦朧としていたとはいえ、欠勤の旨を伝えるためにかけた電話の向こうはいつものようにざわざわと賑やかだったはずだ。
更地を前に立ち尽くしていると、背後でカランと鐘が鳴った。
「お客さん、言ったでしょう。思いだそうとしちゃいけないんですからね」
低く厚みのある、先ほどのスタッフの声。振り向くと、ため息をついた彼はこう続けた。
「あなた、「なぜ」って、顔に書いてある。それでも説明を求めちゃいけないんです。世の中は誰もが思っているよりも遥かに唐突にして理不尽、選択の自由なんてあって無いようなもの。説明したくっても、出来ないことだってあるでしょう。そして死にたくないから、皆働きますよね。僕なんてまだ親切なほうです。あなたがあまりにも、困惑から動けないでいるようなので、少しばかり説明をしてしまった」
「何も、なんの説明にもなってない」
「現状とあなたのこれからについて、僕は最低限を示したつもりですよ。親切が過ぎたくらいです。忘れないでください、説明は求めちゃいけませんし、求められても答えないことが正しい時もあるんです。そして、思いだそうとしちゃあ、いけませんよ」
にやりと口角をあげて見せた彼は、わたしの返事も待たず、また鐘を鳴らして姿を消した。
足元の砂を蹴ってみると、白くさらさらした砂が、少しだけ舞い上がった。ぼんやりと、先程の言葉たちを反芻しながら歩いた。唐突にして理不尽……、選択の余地……、説明……、それでも、働く……。
そうだ、働かなくては。なにか急場しのぎでもなんでもいい、働き口を見つけなければ。目が覚めたようにそう思い、駅に据え付けてある求人誌を1冊取ってアパートへ戻った。郵便受けの夕刊を取りだすと、何かのアルバイト募集のチラシが、ひらりと落ちて、そのまま共同のゴミ箱へ吸い込まれていった。
本棚から履歴書を引っぱりだして書きながら、やはり納得のいかない急な解雇通知をにらんだ。相変わらず社名は読解不能にかすれている。
どうにか3枚ほど履歴書を書き終え、求人誌をめくり始めた。妙に陽気なその紙面の文言に、馬鹿にされているような気持になりながら、めぼしい所に付箋を張り付けていく。
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ひらりと落ちたチラシの求人からもう一幕考えていたような気がするんだけど、書けなかったんだねぇ、という書きかけでした。
わたしも続きが読みたいです。( ◜௰◝ )
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