応援コメント

第15話 自殺考」への応援コメント

  • 久里 琳さま

    こんにちは。

    自分とはなんだろうか、と考えてしまいました。自我が明確に定義できないものなら、自らの肉体をほろぼすことは罪に問われず、他者を殺めることは罪だとするのは難しいですね。

    解離性障害でどれかひとつの人格が生を望む他の人格たちと共有する体を殺してしまったら、それは殺人でしょうか。あるいは、自我が自分の体のみならずこの世全体を包括するように感じている人が大量虐殺をしたら、それは自殺?

    乱暴ですが、そう考えていくと、やはり「自分」であろうと「他人」であろうと、その体を損ねてしまうのは罪、という考えにたどり着いてしまいます。

    自殺のスペシャリスト……殺し屋さんでなくては、言えない言葉ですね。

    作者からの返信

    応援ありがとうございます!
    「自分」とは何か?というのもまた深遠な問いですね。最も身近で自明のようでありながら、多くの思索家たちが取り組んで未だに答えが出ないという。。
    いろいろ考えていくと自他の境界があいまいになって、「当然自分のもの」と信じているものさえ本当に信じていいのか??と泥沼に沈んでいってしまいそう。
    となると、「自分の命をどう処分しようと自由だ」という考えも根拠を失うのでは、、という仮説でした。考えを巡らせていただき、ありがとうございます!

  • 暇さえあれば何か考えてしまう悪癖に犯されている私にとって『自殺は罪か?』はよく俎上にのるテーマでして。御作での論考、とても興味深く読ませて頂きました。そもそも、我々は我々の所有者か?それとも受託者か?ならば受益権者は誰(何)か?なんてことをつい先日も考えていたところなので、とても楽しめました!

    作者からの返信

    応援ありがとうございます!
    人間特有の行動と言われる自殺。ついいろいろと考えてしまいますね。
    我々が自身の所有者ではないならば、誰が受益者なのか? 興味深いテーマですね。我々が自由選択しているつもりの行動、利己的に思考しているつもりが実は本来の受益者のためのものだとしたら……。

  • 久里 琳様

     難しい問題ですね。実は『死にたい』と言う言葉を聞かされた経験があります。
     その時はやはりショックでしたし、どうやったらその考えを手放してくれるかと必死でしたが、結局は何を言っても響くものでは無いのかなと思いました。
     まあ、その人は別に今も生きていますので、問題は無かったのですが、実際にもし本当に亡くなっていたら私自身の傷も大きかったと思います。
     とは言っても、自分の命のリミットを自分で決めることは、してはいけないとは言えない。でもしないで欲しい。そんな気持ちですね。
     そして彼の考え方を読んで思いました。未来の自分はわからないのだから、あきらめないで欲しいと(^_-)-☆

    作者からの返信

    応援ありがとうございます!
    深刻な経験をされていますね。言う側も随分悩まれた上のことでしょうし、聞かされた側も悩み、焦燥感や無力感に苛まれたりするのではないかと想像します。
    正しい答えはないんでしょうね。ここに書いたのも、あくまで一つの考え方です。判断力もなくなるほど憔悴しきって亡くなる方に、するなと言うのは酷なのかもしれません。ただ、判断力を残して迷っている方がもしいれば、しないで、と言いますよね、やっぱり。
    深く考えてくださって、ありがとうございます。

  • 議論の尽きない事柄ですよね。
    コメント数が多いのもうなずけます。
    考えること、考え続けることが、ある意味正答かもしれません。
    何だか禅問答みたいですけど、私も確たる考えを持っているわけではないので。
    一瞬後には変わるかもしれませんし^^;

    面白かったです。

    「アルスラーン戦記」の湯男(という表現でいいのかな?)は、アルスラーンの敵の密謀をうっかり聞いてしまって、アルスラーンに助けを求めるという役回りでした。
    湯屋で密談、密謀という、凄いシチュエーションでした。敵が。

    ではではノシ

    作者からの返信

    応援ありがとうございます!
    繊細なテーマで、安易なことは言えないですが、だからといって目を逸らし続けるのもどうかと、、「考え続けることが正答かも」に大きく頷かされました!
    私も、考えるたびに意見はふらふらします。。

    湯男は勝手な省略です(^^) 湯女(ゆな)に対置してみました。こちらは体を洗ったり、そのついでに体を売ったりする女性ですが、その男版かなあ、と勝手に想像していました。
    湯屋で密謀なんですね! トルコのハマムはそこらじゅうで話し声が反響していて、あまり密談には向かなさそうです(^^)

  • 個人的には「他人に迷惑をかけない自殺」が現代社会では殆ど存在しないのではないか、という方向で考えます。
    交通機関への投身自殺では、ダイヤの乱れや車内への閉じ込めなどにより、様々な人に影響を与えます。場合によっては、一生に一度のイベント、家族との死別、本人の体調不良など、他人の人生に大きな悪影響を与える可能性があります。
    これは首吊りや飛び降りでも同様で、巻き込むことで他人の身体や財産を侵害することがあります。

    もちろん、人は生きているだけで大なり小なり他者に迷惑を掛けている訳ですが、こういった部分を解消でき、完全に自己で完結できる(無人島など)のであれば、何も言うことはないのかなと思います。それは実質、不可能ということでもあるのですが。

    作者からの返信

    応援ありがとうございます!
    仰る通り、周りに迷惑をかけることなく自殺することはまず不可能ですよね。それに仮に全く周囲を巻き込まない形で自殺を遂げることができたとしても、家族や友人の心に傷を残すことになると思います。もし傷を残さないというのであれば、それはそれで悲しいことだと思いますが。。。

    おそらく自殺される方の多くはそういったことを考えられないほど精神的に追い詰められているのだと想像しますので、あまり鞭打つようなことは言わないでおきたいですが、ともかく思いとどまってもらえればいいなと思います。特にもしまだ理性的余裕を残しているのであれば、周囲のこと・自身のことを思い起こしていただきたいですね。

  • 美味しそうな食べ物の話から、わぁ重いテーマに切り替わりましたね。
    「自殺は罪」んー、本人がどうして「死」を望んだかにもよると思います。
    私は一度しか経験してませんが、病院のベッド脇の両親の顔を思い出すと
    「罪」な事をしたと反省してます。後悔ではなく、反省です。(*´-`)

    自殺罪(勝手に作ったデバネズミ)として考えるなら情状酌量が必要だと思います。
    裁判官は人間では務まりませんが……。

    作者からの返信

    応援ありがとうございます!
    つらい経験をされたのですね。それでも今こうしてカクヨムの皆さんとお話しできて、なにより素敵なご家庭を築かれていて、いろいろあったけどよかったときっと思われているんじゃないかなと想像します。
    目が覚めたとき後悔ではなく反省が心に生まれたのが、その後の人生をこんなに豊かにする予兆だったのかな、、と、勝手ながら思いました。

    自殺は罪、、殺し屋と私の考えが完全に一致するわけではないのですが、根っこで共通するところは「自分の命は自分の自由にできる」という考えは違うんじゃないかなあ、と。
    ただ、罪とまで言い切るのは、人の情のやわらかい部分をどこかに置いてきたような気もしますね。
    もちろん、それぞれの事情があるので、外からごちゃごちゃ言うことではないと思います。それでも、気づかず、止められなかった自殺を思うと胸がふさがります。そういうときは却って非難する気になんてなれないですね。。

  • 十年後あるいは一年後でも、もうそれを望んではいないかも知れない未来の自分に対する殺人罪、ですね。そういう風に考えたことがなかったので面白いです。本の例えは本当にその通りで分かりやすいですね。でも命は買いなおしたりできませんからね…。

    作者からの返信

    応援ありがとうございます!
    どこまでが確実に自分だと認定できるのかな、というのを考えるなかで出てきた問いでした。それぞれのタイミングでの決断は尊重するにしても、取り返しのつかない決断は慎重になった方がいいんじゃないかな、と。ほんとうに、本と違って命は買いなおすことができませんからね。

  • 自殺した俳優さんのことを考えてしまいました。
    彼の出演したドラマが予定通り、はじまるそうです。
    宣伝でその場面をみたのですが、「まったく自殺をしなさそうな人」という印象。
    でも、彼はこの撮影中に命を絶ったそうです。

    でも、見ている側としては、ドラマの彼は自殺をしなかった彼の未来とみえてしまう。
    草葉の陰で、ドラマの中の自分をみて後悔しても、彼は生き返らないのです。

    「自殺考」を読んでふと思った事です。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!
    いたましい事件でしたね。この方のことは私はちらちら耳に入るぐらいの情報しか知りませんが、最期まで悩まれたのだろうと思います。
    私自身は、この語り手ほど断固として言い切る確信がある訳ではありませんが――それでも、亡くなった方の決断を受け容れるよりも、本当にそれでよかったのか?と呼びかけたくなるのです。
    後悔しても、生き返らない。この言葉にすべてが表されていると思います。

  • なるほど、そういう考えもあるんですね。
    私は、自殺を罪とするなら他者への影響(精神的苦痛・即物的な損害)がやっぱり大きいような気がします。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!
    一つの考え方として、受け取っていただければ、と思います。
    もちろん周囲を傷つけ悲しませることは大きい問題ですよね。では、もしそれらを全部無視したとしたら、そのとき自殺は許されるのか?という思考実験から出たお話でした。


  • 編集済

    これは難しい問題ですね……自殺についてが、ではありません。小説の書き手が作中でなにかについてこんなふうに言い切るとき、読む側はどうしても「作者の頭の中にあること」のように感じるのじゃないかということです。台詞の中ならまだ、違う意見を云うキャラと会話させたりすれば、そういう印象はかなり薄れると思いますけれど、殺し屋さんの場合モノローグですしねえ(^^;

    この殺し屋さんの考えもなるほどなーとは思いましたが、たぶん本気で自殺しようとする人は、その未来こそを憂いて終わらせてしまいたくなる場合が多いと思うので、当事者には響かないだろうなーという気がしました。でも、そういう前向きな、やっぱり生真面目で正義感な感じの殺し屋さんが好きです(笑)

    作者からの返信

    コメントありがとうざいます!
    たしかにモノローグで書かれると、作者の考えの代弁だと思うのが自然ですね。
    実際ここで述べられるのも、私の考えがある程度反映されていますが、まったく同一という訳でもないのです。彼ならこう考えるかなあ、というのをああだこうだ想像してつくった部分も結構あります。
    この考えの底の方にあるのが、「現在の自分だけが本当の自分で、過去の自分や未来の自分は他人である仮説」で、「未来のことは、未来の自分に任せればいい、それを今の自分が決めることはない」というところですかね。……さあ、どこまでが作者の考えで、どこから殺し屋さんの考えなんでしょうか?(^^)
    いずれにせよ、現に自殺を悩まれる方には、届かないでしょうね。。。

  • なるほど……
    難しい問題ですが、私もこの考えには共感できました。
    自殺を考えたことはない私ですが、自殺は罪だと思います。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!
    難しいテーマですね。。絶対的な答えはありませんが、一つの考え方としてお読みいただければ、と思います。
    普段あまり考えないことを、少し想像してみるきっかけになっていれば幸いです!