第15話 自殺考

(注:今話は、真剣に自殺を悩まれた方には不愉快に感じられるかも知れません。フィクション中の一登場人物の意見としてお読みいただき、耳障りな点はご容赦ください。勿論、これを正と云うつもりもありません)





 自殺は罪だ。


 倫理や宗教の綺麗事として云うのではない。

 殺人を生業とし、自殺のスペシャリストでもある私だからこそ、実感を籠めて云うのだ。



 人権の根本要件である「自由」の名に於いて、自殺は罪ではない。何となれば、人は自身の所有物をう処分するか完全な自由を有するのであり、従って自身の所有物である生命を廃棄する権利をも有するからだ。

(例えば、人は自分の所有する本を破り棄てても罪に問われることはない。同様に、自分の所有する命を棄てても罪に問われることはない)


 自由の制限は、それが他人の人権をそこなう限りに於いて、認められる。

(例えば、他人の所有する本を破り棄てれば、罪に問われる。同様に、他人の命をれば、罪に問われる)

 従い、他殺は罪である。




 ところで、私が他人に憑依して彼を自殺させる時、これは罪だろうか。――勿論、罪だ。

 一見自殺のように見えても、実際には他殺だからだ。私は私のものでない命を、本来の所有者の意思にかかわりなく勝手に処分した。



 では、命の本来の所有者が、まったき理性と自由意思の下で自らの命を処分するのであれば――それは罪ではない、と云えるのではないか。

 ここで私は引っ掛かるのだ。今判断を下す彼は、一年後の彼、十年後の彼と実は別人格かも知れないではないかと。現在の彼は、一年後の彼が所有するはずであった命を、勝手に処分する権利を有さないのではなかろうか、と。

(例えば、昨日、本を破り棄てた者が、今日には後悔して、昨日の自分を呪いたくなることがないだろうか)

 この論を突き詰めると、人は全ての所有物に関する自由を失うことになるのだが、少なくとも生命の廃棄に関しては未来のあらゆる可能性を奪う行為である以上、無制限の自由を与えることに、私は異を唱えるのだ。



 この考え自体は恐らく目新しいものではない。だが私にとって、「いま躯を所有する私と、一年後に躯を所有する私は、同一人物とは限らない」と云う疑念は形而上的空論ではなく、生々しい実感なのだ。



 そこであらためて云う。

 自殺は罪だ。

 自身の未来に対する罪だ。

 自殺者Aは、一年後に在り得たかも知れない「生存の意思を有するA’」に断りなく生命を棄て、A’の生存の可能性を奪った。

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