地獄

 地獄から舞い戻ってきた時、女は死地を見てきた兵士よりも暗い表情をしていた。一体何が彼女の身に起こったのか、誰も尋ねようとしないのがまたきつかった。身体は健康そのもので、生前よりも調子がいいくらいである。それは地獄を耐えたものには健全な肉体をという、新たな地獄の方針が影響していたのだが、これも彼女にとっては、残虐な拷問の続きだとしか思われなかった。

 奇妙なことだが、地獄において彼女は、永遠に続くと思われる責め苦などは大した苦痛ではなかった。いや、苦痛には違いないのだが、彼女の感じている苦痛を説明しようとする男どもの方が彼女にとっては癪に障るのだった。何しろ彼女は四肢を切断され、胴体を細かくミンチにされたというのに、男どもときたら――でも、女はもともと苦痛に強いっていうよな。出産の痛みって男は耐えられないらしいよ。それに耐えられるってことは、もともと痛みを感じにくいようにできているんだよ――そもそも死後の肉体に「出産」はありませんけど、と彼女は言いたかった。そもそも誰が言い出したんですかそれ男でしょ、と彼女は言いたかった。言いたかったが四肢を切断され、胴体を細かくミンチにされた後で理解力の乏しい男に反論する元気は、その時彼女にはなかった。

 彼女は生前仏教学部を卒業していた。仏教学部で学んだ知識を生かして、彼女はアングラロックバンドのボーカルとして結構いい線を行っていたのだった。海外からメールが届いて、うかうかそれに乗ってみたら、思いのほか「おいしい話」で、大盛況のうちにツアーを終えたなんてこともあった。頭をそり上げた女性ボーカルが明らかに西洋とは異質の発声法で唸るのを観客は陶然として聞き入っていた。噂は瞬く間に広がり、帰国の予定を延長してのフェスへの参加が、さらに彼女の名声を高めた。バンドとしては、アマチュアに毛が生えた程度の、どこにでもいそうなガレージパンクでしかなかったのだけど、よれまくりもたれまくるリズムがお経のような彼女の声に合わせているように聞こえなくもなく、これはトラディショナルな表現方法で、彼女たちはその意味でプロフェッショナルなのだと評価されさえした。英国の一流雑誌にグラビア付きで紹介され、東洋音楽の専門家を名乗る謎の大学教授が表現だけは小難しくも内容はと言えば半分寝ぼけているような妄言をなんと十ページにもわたって寄稿していた。彼女たちが一種のアイドルとなった瞬間である。

 転落の原因は、栄光につきものの誘惑に屈したためだった。英国の俳優と恋に落ち、彼女は社交界に出入りするようになったが、すると今度はゴシップの中心として、人々の注目を集めたのだった。日本には「破戒僧」という戒律を守らぬ坊主がいて、しかもそれが歴史に重要人物として名を残し、子どもたちに人気のテレビアニメのキャラクターにすらなっている――そういう異文化に対する舐め切った興味が奇妙な論調を生み出し、があちこちでもてはやされ、それは彼女に重ね合わせられ、挙句快楽に溺れる「破戒尼」なのだということにされた。彼女の出席するパーティーには彼女と肉体関係を持った男性ばかりが何百人と集められ、その中心で彼女はそれぞれの夜の記憶を思い出しながら悦に入っているのだそうだ。馬鹿馬鹿しい、と思っている内に恋人の俳優にも捨てられ――噂を信じているわけじゃない、ただ、噂の中心にいるということがもう耐えられないんだ(それ、何日推敲して出した決定稿なのかな?)――東洋の禿頭の若い麗しい女性との妖しい関係への期待で胸と股間を膨らませた男たちに囲まれ――そう、その中には少なからず、「におってくる」奴がいたことを彼女は思い出し、嫌悪する。せめてベッドの中まで発情を待つぐらい、できないものだろうか?――そのくせ減る一方の仕事に絶望とまではいかないにせよ、虚無を感じてしまった。後は出来心が一押しするだけのことだった。そしてその出来心は早めにやってきた。信じていたマネージャーにホテルの最上階で脅迫込みで迫られ、拒めば日本に帰国すらできなくなるぞと言われた途端、一瞬、何もかもがどうでもよくなった。すべてはそのどうでもいい瞬間に起こったことで、彼女の感知するところではない。気が付けば彼女は閻魔の前にいて、散々説教される羽目になったのだった(今でもそれをフェアでないと彼女は思っている)。

 地獄では彼女のことを誰も知らないし、気にもかけていなかった。それなのに男たちは、近くに来るとすぐにこれから受けるのがどういう苦痛で、それが男にとってどんな意味を持っていて、女にとっては二次的な意味しかないのだということを、必死に(と彼女は思った)説明するのだった。仏教学部の自分より知識があると思ってるのだろうか? 彼女の頭は剃り上げたままで、どう見ても「関係者」であることは瞭然としていたのに、彼らはそれでも、あるものはどこかで聞きかじった知識から、あるものは実体験から、彼女に解説したがるのだった(そしてくどいが、同じ拷問が彼女にとってどんなもの足りえるのかまで、彼らは必ず付け加えて説明した。へえ、私のこと、よくご存じなんですね)。だんだんと責め苦よりもそっちの方がしんどくなってきた。一連の責め苦の後に、閻魔は最後の罰を宣告したが、それは同じ生を今度は寿命まで全うする、というもので、彼女は奇跡的に一命をとりとめ、病院に搬送される担架の中で目を覚ました。だけどそれからも、話を聞かない医者、陰口を叩く入院患者、腫れ物に触れるように彼女を扱う男たち、そんなものに囲まれていた。彼女の健康すら、うっすら嫌悪の対応にされている感じだった(まあ、元気な子供は産めそうだね、などと医者は診察の時、ふと、何の脈絡もなく漏らしたが、彼女はその後トイレでたっぷり、どろどろの入院食を戻したのだった)。

 これは地獄の続きか?――と彼女は考えた。答えは、言うまでもなかった。何にせよ、ここが体感的に地獄であることは、変わりようがなかった。だけど彼女はこの地獄を生き抜くのみだと心に決めた。長い間連絡を取り合っていなかったバンドメンバーに電話をかけると、受話器の向こうでは明らかに慌てたような様子だった。結婚していた。――まったく、どいつもこいつも――

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始まる前に終わる小説集 匿名の匿 @tokumeinotoku

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