ACT2 荒野の町エーデ
帝国の騎士を名乗る青年がアルムの許を訪れた翌朝、屋敷を発った。
アルムが住んでいる屋敷がある森はヴァールハイト帝国の南西部に位置しており、少し北へと進めば比較的大きな街道へと出る。その街道を馬車で一週間、飛行船なら二日程で、荒野の町エーデに辿り着く。
しかしアルムはそのどちらでもなく、自身の屋敷に昔から居着いている竜による移動を選んだ。元々、人の多い場所は好きじゃない。幼い頃からあの森にいたということもあるけれど、人を避けて暮らしてきたアルムにとっては、馬車よりも竜との空の旅の方がずっと馴染みがある。人間二人を乗せて悠々と空を舞う白い体躯を軽く撫でて、アルムは空の向こうの景色に目を向けた。
ルシファロンドは竜の一種だが、どちらかといえば竜よりも精霊に近い存在らしい。白と桃色と金色の鱗が覆う体は馬の数倍大きく、長い尾の先は七色で、ひらひらとしたリボンのようにいくつも分かれている。小さな前脚としなやかな後ろ足には鋭い爪が生えており、大人しい気性と言えど怒らせてしまえば無傷では済まないだろう。翼は一般的な竜のそれとは異なり、例えるなら玉虫のような、あるいは蜻蛉のような半透明で、光を反射してうっすらと七色に輝いていた。その大きく澄んだ空色の瞳が見据えるのが、森の遠く向こうに見える荒野の町だ。
エーデは、名前通りの荒れた町だ。農作物はほとんど実らず、僅かな牧草や野草を餌に放牧を行って細々と日々を食い繋いでいる人々で溢れている。旅人が休む為の宿泊施設はそれなりにあるそうだが、食材や消耗品の調達も他の街に頼っている為、決して安いとは言えない値段なのだそうだ。特別栄えた産業も資源もなく、昔から帝国の中枢はこの町に関心がない。
今まで気にも留めなかった町に帝国が急に人を送り込んだのは、エーデの向こうに位置する霊峰に狂暴化した魔物が徘徊するようになったからだという。
「最近……まあこれは帝国領だけの話ではないのですが、各地で魔物が狂暴化しているという話はご存じですか?」
アルムの許を訪れたラルフは、品のある仕草でティーカップを傾けながらそう尋ねた。世界中の魔物が活性化し、周辺の町を襲うというケースも増え、騎士団も騒ぎを治める為に西へ東へ奔走しているのだと彼は言う。
最近、魔物達の様子が少し変わった気はしていたものの、アルムが住む森の魔物達はまず普段と変わらない日々を過ごしている。その為大きな変化は特に感じなかったのだが、どうやら世界全体は違ったらしい。
エーデより更に西、かの地に聳える霊峰〝アルト・ベルク〟では、特殊な鉱石や薬草が採取できる。それらの多くは魔術の触媒や秘薬の材料としての価値が非常に高い為、多くの魔術師達が度々訪れているという話だが、アルム自身は屋敷に薬草園を持ち、鉱石も知り合いの商人から安く仕入れているので、この山について具体的な情報は持っていなかった。
その霊峰に棲むのが、今回調査の対象となった魔物なのだという。
狂暴な魔物がいては商品の輸送もおちおちできない為、それを生業としている者にとっては商売上がったりなのだろう。ついでに狂暴な魔物を仕留めることができれば報奨金も出る。傭兵を雇う商人や騎士達の目的は恐らくそんなところだ。その為には、何よりもまず情報が必要になる。魔術師の中には魔物を友として共生する者も多いから、生態に詳しい者に白羽の矢が立ったというわけだ。
とはいえ、魔物を手懐けるのは容易なことではない。ましてや狂暴化した魔物など、どう足掻いたところでどうにか生け捕りにするか、それができなければ殺されるかだろう。引き受けた自分も大概だが、たった一人で魔術師を訪ねそのまま山に向かおうなどと、この青年の度胸も大したものだと思う。それともただの蛮勇だろうか。ちらりと後ろを振り返ると、それに気付いたラルフが愛想のいい笑みを浮かべた。その呑気さに呆れた溜め息が出る。
「あなたも大概変わり者だよね……得体の知れない魔物の調査なんて、捨て駒にされるようなものだと思うけど。まさか自分が優秀だから選ばれた、なんて思ってるわけじゃないでしょ?」
「もちろん。けど、俺はそう簡単に死ぬつもりもありませんよ。これでも腕には自信がありまして。あなたこそよかったんですか? 危険かもしれない調査をあっさり引き受けてしまって」
「……私だってそれなりに戦えるし、魔物の生態にはその辺の魔術師より詳しいつもり。帝国の事情とかはあまり興味ない、魔物達が気になるだけだから」
遠く町を見つめたままの素っ気ない物言いに、後ろに乗ったラルフがはは、と苦笑を滲ませた。他の移動手段に比べて格段に速いルシファロンドのお陰で、まだ日が暮れないうちにエーデに着くことができそうだ。少しずつ町の景色がはっきりしてくる。
滑るように宙を飛んでいたルシファロンドが翼を立ててゆっくりと羽ばたきながら降下すると、アルムは慣れた身のこなしで竜の背から飛び降り、荒野の町を一頻り見渡した。背から荷物を下ろした竜はゆっくりと上昇し、どこかへと帰って行く。
乾いた土の匂い、人の少ない通り、寂れた市場。周囲にいた住人が物珍しげな目を向けてきたが、すぐに目を離して歩き去っていく。
「思ったより早く到着しましたね。今日はもう暫くで日が暮れそうですし、宿で休みましょう。近くに宿を取っておきますけど、何かありますか?」
「……じゃあ、少し町を見て回るから、先に休んでて」
「野暮なことをお聞きしますが、お一人で大丈夫ですか?」
「本当に野暮だね」
「ふふ、すみません」
溜め息混じりの軽口に品のいい笑みを返したラルフは小さく一礼をして、どこか草臥れたようにすれ違う人混みの中へと消えていった。
普段はここまで人通りは多くないのだろうが、日が暮れると共に帰宅する人々で一時的に人出が増えているようだ。夕暮れが過ぎ町が息を潜めれば、魔物と裏の人間の時間がやってくるのだろう。
既に品も薄れて閉店の準備を進める店ばかりの市場を通り過ぎ、そのまま町外れに出ると、どこか空気に違和感があることに気付いた。
魔力の匂いがする。
一見、ぼろぼろの家屋がちらほらと並ぶ極普通の町外れだ。けれど注意深く観察すると、景色の中に綻びのようなものが僅かに見える。どうやら魔力はそこから漏れ出しているようだ。魔術による封印か。
こんな風に隠されている場所など、どうせまともなところではない。そう思うのに、どうしても目を逸らすことができない。どうにか顔を背けようとした瞬間、かつて自分を助けてくれた人の後ろ姿が何故か脳裏を過った。
暫く迷った末、覚悟を決めて綻びを解きそっと潜り込むと、そこから景色は一変した。
鎖が絡む金属音と、嗄れきった悲鳴。怒声。罵声。買い手に媚びる店主の声、下卑た笑い。先程の通りには全く声が通っていなかったことから、何らかの魔術による防音対策がしてあったのだろう。資源的にも貧しく寂れた町に、いつまでも人が居着いていることには多少の疑問があったが、そういうわけか。帝国も気に留めていないのではなく、敢えて見逃していたのだろう。
寂れた町の裏側には、金と欲とどす黒い怨嗟に塗れた奴隷市場が在った。
「坊ちゃん坊ちゃん、いい奴隷が入ったよ! 若くて力もある、如何です?」
「いやいやこっち見てよ、貴重な種族を仕入れてますから! 今だけだよ、こんなチャンス滅多に無いですよ!」
金持ちらしき男の値踏みする声や、何とか買い手を付けようとする店主の声、鞭で叩かれた奴隷の悲鳴が嫌という程耳につく。檻の中には魔物や稀少な動物も並んでいたが、当然商品は獣だけではなかった。思わず眉を顰めて唇を噛むと、きんきんと耳に障る不快な声とともに袖を引かれて思わず振り返った。
「こりゃ珍しいお客様だ、しかしいい身なりをしてらっしゃる。本日はどのような商品をお求めで? いい商品が揃っておりますよ、ヒッヒ」
神経を逆撫でするような笑い方に反射的にその手を振り払おうとしたその瞬間、視界の端に真っ白な何かが過ぎった。何かと思いそのまま目を向けると、奴隷市場の中心で何やら騒ぎが起きている。よく目を凝らしてみると、真っ白な髪がふわりと靡いたのが見えた。
「放せ、くそ……!」
「いい加減大人しくしやがれ!」
真っ白な長い髪を結い上げた褐色の肌の青年が、奴隷商らしき男達と揉めている。一見そこまで変わった点は無いが、よくよく見てみれば青年の頭には普通の人間が備えていないものが生えていた。
髪と同じ色をした、ピンと立った大きな三角の耳。
猫にそっくりなそれ以外にも、興奮で毛が逆立った長い尾。
「……リュンクス族?」
珍しい種族だ。まじまじと獣人族の青年を見ていて思い出したが、確かリュンクス族は山の周辺で暮らしていたはず。
「ああ、ありゃ今朝だかに捕らえられたやつですねえ。獣人なんか力ばかり強くて野蛮な生き物なのに、あれを扱う人間の気が知れねえや」
まだ隣に立っていた店主が声に呆れと侮蔑を滲ませて言った。思わず眉を寄せて隣を見たが、店主は特に気付いた様子はない。帝国は他国に比べ、比較的他種族や魔術師に対する偏見が薄いが、このような場所ではそれも例外か。
ぎゃあ、と唐突に悲鳴が上がる。
見ると、奴隷商の男が赤く染まった腕を押さえて蹲っていて、男を囲む人混みから脱出したリュンクスの青年がこちらへ駆けてくるところだった。一瞬、目の覚めるような赤い瞳と視線が交わる。
しかし、彼の逃走劇は一瞬で終わった。
がくん、と彼は突然膝を着いた。呼吸が異常に速く、押し殺した呻き声が僅かにアルムの耳に届く。青年の目の前に屈み込みよく見てみると、晒しを巻いた胸元にじわりと滲む黒い液体と、赤く腫れ血が流れる足首。
「おう嬢ちゃん、よく捕まえてくれたな。全く、イキがいいのは嬉しいが扱いづれえったらないぜ」
先程の奴隷商の仲間なのだろう、一人の男がアルムの許へと駆け寄ってくる。伸ばされた手が青年へと届く――
「……? おい、嬢ちゃん。何のつもりだい?」
青年を庇うように立ち、その手を遮ったアルムに、男は訝しむような目を向けた。
「……この青年は?」
「へ?」
男は呆気にとられたような顔をした後、画点がいったかのように笑った。
「ああ、もしかしてこいつを買いたいのかい? 最初からそう言っておくれよ。どうだい、特別に二百万から……」
「違う」
にやにやと機嫌をとるような笑みを貼り付け、手揉みしながら交渉を始めようとした男の表情が、またもや歪んだ。
「彼はまだ捕まってない。なら彼は商品でも何でもないでしょう。私はこの人に用がある、邪魔だから散って」
周りに大柄な男達がいても顔色一つ変えない少女の口舌に、またもやぽかんとする男。しかし次の瞬間には、アルムを取り巻く空気は重く不穏なものへと変わっていた。
「……へえ。なるほど、俺達から商品を掠め取ろうって腹かい? そいつはちょっと見過ごせねえなあ。おいお前ら! やっちまえ!」
男の声に反応して、アルムの周りに用心棒らしき男達が集まってくる。体中筋肉でできたような巨漢、鞭や槍を持った男。一様にアウトローと判る格好をしたそれらを見回して溜息を零すアルムに、蹲ったままだったリュンクスの青年が赤い瞳を痛みに歪めながら小さく呻いた。
「何やってんだよお前……早く逃げ、」
「命枯果てし季節の冷酷なる檻、第一幕〝氷鏡〟」
ろ、と言い終わるか否か。
少女の唇が僅かに動き、手に握られた銀色の粉が宙を舞ったその瞬間、強烈な冷気が市場を包み込んだ。その中心にいた男達はほぼ全身が凍り付き、身動きできない状況に追い込まれている。すぐ側にいた青年も一瞬呆然とその光景に目を奪われていたが、遅れて襲いかかる冷気に中てられぶるりと身震いした。もちろんその程度で済むはずもなく、すぐに冷たい眠気がやってくる。死へと誘うそれを何とか振り払おうと頭を左右に振る青年の肩に、羽織っていたコートを掛けて側にしゃがみ込んだ。術者であるアルムは、魔力を宿した魔術師衣を纏っていることもあり冷気の影響を受けない。
青年の傷は浅くない。今もじわりじわりと血が滲み続けている。応急処置として治癒術を施し、癒やしの呪文が刻まれた首飾りを青年に引っ掛けて手を引いた。
「動ける? 今のうちに」
「お前、なんで……」
「いいから、急いで」
青年が立ち上がると、アルムは人混みの間を縫って駆け出した。
「うう……」
「ば、化け物……」
体の自由を奪われた挙句、更に命の危機に晒されている男達から、口々に力無い罵倒が漏れる。彼らはもう放っておいても何もできないだろう。
「う……うわああああっ!」
魔術の範囲外で呆然としていた男達の中の一人が、ふと我に返ったかのように大きな湾刀を振りかぶった。怯んだように足を止めた青年から手を離し、袖に隠していた小さな飾りを強く握る。一瞬で細身の剣と化したそれを掴み、男の腕を斬り付けるように一閃した。
少女の力で細身の剣を振るったところで、傷は浅い。誰もがそう思うだろう。しかし、それは何の変哲も無いただの剣だった場合だ。
魔剣ラヴィーネ。かつての師の形見であるこの剣は、術者の意志をもってありとあらゆるものを凍てつかせ砕く、魔術師の為の剣だ。
「ひっ、ひいっ……!?」
手にした湾刀ごとたちまち凍り付いた腕に、男は悲鳴を上げて尻もちを着いた。早く、と青年に声をかけようとした瞬間、ゆらりと目の前に大きな影が落ちる。
「……!」
「おいっ、危な……っ」
即座に振り返って剣を構えた瞬間、緊迫したこの場に全くそぐわない、どこか呑気な声が響いた。
「おいおい。油断は命取りだぜ、お嬢さん?」
その場の誰もが動きを止め、声の主を探した。目の前の男は動かない。奇妙に思って凝視していると、男の体が前のめりにゆっくりと傾いた。しっかりと剣を握ったまま数歩後退る。男はそのまま俯せに倒れ、どっと重たい音が響いた。
何が起こったかわからず倒れた男を見つめて固まっていると、先程の聞こえたものと同じ、妙に陽気で呑気な低い声が再び響いてばっと顔を上げた。
「こういう混乱した場所じゃ、前だけ注意して戦うのは何の遮蔽物もない原っぱで兎がただ跳ねてんのと同じくらい危ねえもんなんだぞ。どうだ、一つ勉強になったろ」
倒れた男の向こう側に、男が一人立っている。
背が高い男だ。黒い外套を羽織ったその男は、巨漢ではないものの筋肉質で、精悍な顔立ちをしている。あまりこの辺りでは見かけない作りの顔だから、余所の国から来たのかもしれない。硬そうな質感の黒髪は短く整えられていて、前髪を上げて額を露わにしている。深い緑の瞳は隻眼で、右目部分は黒い眼帯で覆われていた。
その背には、男の身長に追いつかんばかりの大きさを誇る、飾り気のない大剣がある。あのサイズの得物はどれも扱いづらく、余程の手練れでなければわざわざ武器として選ぶことはないだろう。
恐らくは、相当な実力者。
唐突に現れた闖入者に警戒心剥き出しの目を向けると、男は飄々とした笑みを浮かべてひらりと手を振った。
「酷えなあ、そう怖い顔するなよ。悪漢に囲まれたか弱そうな女の子を助けた善良なお兄さんだろ、どう見ても」
「……一応突っ込むけど、自分で自分を善良なんて言う人を信用するのは難しい話だと思う」
「そりゃそうか。けどまあ、危害を加えるつもりがあったらわざわざこいつらを横から殴らずに隙を見て手ぇ出すだろ。どうよ?」
「……」
一体、この男をどう見るべきか。暫しの間観察するように目を向けていたが、
「おいおい、そんなに見つめるなよ。可愛い子にそんな風に見つめられたら照れるだろ」
などという軽薄な台詞とふざけた態度に、警戒よりも呆れが大きくなって溜め息混じりに剣を下ろした。剣を一振りすると、魔剣は淡い光の粒となって消えていく。手に残った小さな細い鎖で出来た腕輪を袖ではなく手首に戻して、アルムは目を円くして一連の様子を眺めていたリュンクスの青年へと向き直った。
「……とりあえず、連れが取ってる宿まで行こう。そこでちゃんとした手当もするから」
「……う、うん」
混乱の最中から抜け出せていない様子の青年は、困惑したように頷いた。頷き返して、そのまま去る気配のない謎の男へと向き直る。
「……あなたは?」
「お? なんだ、俺もついてっていいのか?」
「違う、そういう意味じゃない。あなたは一体何者なのかって聞いてる」
「ああ、そういや自己紹介がまだだったな。俺はルクス、ルクス・ソキウス。傭兵稼業をやってる。ちなみに二十四歳独身。最近は外に出ようとするやつもめっきり減って仕事が無えから、この町で酒飲んで退屈してたところだ」
「年齢の下り要らないでしょ……」
「で、彼女は? 名前」
「……アルム。もういいでしょ、さようなら」
ルクスと名乗った男のさり気ないウインクを無視して青年を連れようとすると、おいおいおいと大袈裟な手振りで突っ込みを入れてきた男が何故か後ろをついてきた。
「おーい、そんだけ? ここで会ったのも何かの縁だし、茶くらい飲まねえか?」
「そういうのは他を当たってください。そもそもそんな場合じゃないし、見てたならわかるでしょ」
「うわ、敬語。すげえ距離取るじゃん。まあずっとここにいてもあれだしな、安全なところまで送るぜ」
「別に要らない……」
足早に歩いてもしつこくついてくる男に、やや辟易してきて適当にあしらった。まあ、万が一何かあっても、先手を取って動きを封じてしまえばいい。たとえ剣の腕は立つとしても、距離さえ取れれば放たれる魔術に対応するのはそう簡単ではないはずだ。手の中に秘かに触媒を握り込みながら、少し後ろを歩くリュンクスの青年を振り返った。
「……そういえば、君。君の名前を聞いてない。なんて名前?」
「お、オレ……? オレは……ルベル。ルベル・ラーミナ」
「ルベル? 綺麗な名前だね。その目の色が由来?」
「い、いや……そこまでは知らねえけど」
面食らったように返事をしつつ、唇を引き結んで青年は突然立ち止まった。
「……つか、何のつもりだよ、お前も。ここがどんな場所かわかってないはずねえだろ? 入り込んできたんだから。なんで助けた? 何が目的だ? 大したもんは出せねえし村に礼を期待したって無駄だぞ。オレは村じゃ腫れ物扱いされてるからな」
「……? どうして? 獣人族は排他的だけど同族には情が厚いって……」
「……色々あんだよ。まあお前に助けられたのは事実だし、煮るなり焼くなり好きにしろよ」
「煮ても焼いても美味しくないと思うけど……」
「物の例えだっての。変なやつ……」
ルベルは溜め息を漏らしつつも、少し警戒心が解けたのか再び歩き出した。それに合わせて歩を進めると、そのすぐ後ろをまたルクスがついてくる。どう見ても不審者か、または軽薄な軟派者なのだが、宿に着いたら帝国の騎士であるラルフに突き出せばそれまでかもしれない。そう思い直しつつ、再びルベルへと視線を向けた。
「リュンクス族の村って、山の麓にあるんだよね」
「……そうだけど」
「なら、山の案内を頼みたい。アルト・ベルクに用があってここまで来たんだけど、案内役をまだ探してなくて」
「は……はあ? そんなもん、酒場ででも適当に探せばいいじゃねえか。まさかその為にオレなんかに関わったのか?」
「そういうわけじゃないけど……まあ、山に詳しいかなとはちょっと思った。ただの人間より身軽だから、山の奥でも結構知ってるんじゃないかなって。駄目かな」
「いや……まあ、そんなことでいいなら、助けてもらったし案内くらいするけどよ……」
「……なあ、さっきから聞いてて思ったんだけどよ。お前さん、まさかあの山に一人……いや、案内役含めて二人で行く気じゃねえだろうな」
「……もう一人、騎士がいるけど。まだいたんだ」
「ずっといたぜ。もう一人いたとして三人で行くつもりか? あの山に? 言っとくが、あの山は今」
「狂暴な魔物が暴れてるんでしょ、知ってる。それを調べる為に行くんだから」
ずっと後ろで話を聞いているだけだった男が、物理的にも間に割って入ってきた。先程よりも真剣な顔をしている。現在の山の状況に詳しいのだろうか。傭兵と言っていたから、もしかしたら誰かに雇われて入ったことがあるのかもしれない。
「悪いことは言わねえよ、止めとけ」
「危険は承知の上だし」
「ならお前さん、俺を雇えよ。その辺の傭兵団よりよっぽど役に立つと思うぜ」
思わず立ち止まって男を注視した。男はへらへらとした笑みを浮かべたまま、どこか試すような視線をアルムに向けている。背負った剣は業物、恐らく剣を抜きもしないまま巨漢を気絶させたその腕には目を瞠るものがあるが、信用してもいいものか。
「……もしかして、それが狙い?」
「まあ、半分はな。実際こんな場所に嬢ちゃんが一人でいたら危ねえし、いい身なりしてるから上客になるんじゃねえかと思ってよ。言ったろ、今は外に出るやつもいねえから退屈してたって」
「……」
狂暴化した魔物が跋扈する霊峰に入るなら、戦力は多い方がいい。けれど、この男を連れて行っていいものかはまだ迷う。この調査の依頼者は国だから、まずはラルフに確認を取った方がいいかもしれない。
「……依頼者が宿にいるから、その人に聞いてみてから。信用して雇うって言うならそうするし、信用できないって言われたら雇わない」
「そんなに信用できないかねえ、俺。傭兵の世界じゃ結構名は知れてると思うんだけどな」
「私は聞いたことない。話は後でいいでしょう」
視線を外して、町外れの結界の綻びを再び解いた。
周囲は既に日が落ちかけ、町の中心から離れていることもあってか、人の通りは既に全く無い。やや遠くに見える酒場には灯りが点いているが、住民の姿はほとんど見当たらなかった。仕事終わりに酒を引っ掛ける余裕すら、この町の住民には無いのかもしれない。
三人で結界の外に出ると、ルベルがふと思い出したように肩に掛けたコートを脱いで、どこか照れ臭そうな様子で目を逸らしながら差し出してきた。
「その……これ、ありがとう。あんなにやばい寒さだったのに全然感じなかった。なんか仕組みでもあんのか?」
「魔力を伝えやすい糸で織った生地が使われてるから。魔術師の天敵は大抵同じ魔術師だから、守りの術を掛けておくのにこういうのがよく使われるの。他の魔術師も似たようなものを使ってるんじゃないかな」
「へえ……」
受け取ったコートを羽織り直しながら答えると、ルベルはわかったようなわかっていないような顔をして感心したような溜め息を吐いた。振り返って結界の綻びを閉じ直す。恐らく中にいる人間達は鍵のようなものを使って出入りしているだろうから、万一追っ手が来ても足止めできるように術式を弄っておいた。同じ魔術師であればこれくらい解けるかもしれないが、アルムの施した封印を解くには相応の時間が必要だろう。封印の魔術は専門ではないが、それなりのものは修めている。
宿は町の出入り口に近い場所に取ってあるはずだ。既に月が見え始めているのにまだ戻っていないから、もしかしたらラルフが探しに出ているかもしれない。
急ごうと足を踏み出すと、ふとルベルが顔を青ざめさせて、唇を僅かに震わせながら口を開いた。
「あ……ちょ、っと、待った。お前、あそこでオレを助けてくれたけど、大丈夫か……?」
「……何が?」
「……追っ手。オレは助けてくれたことには感謝してるけど、もし首領が出てきたら……」
「それが誰かは知らないけど、たぶんそんなに大きな問題にはならないと思う」
「なんでそんなこと言えるんだよ、強いからか?」
「私が魔術師だからだよ。このヴァールハイトに住んでる」
「……そ、それがなんで大丈夫な理由になるんだよ」
「今、この世界には魔術師が少ない。帝国の専門機関に属してなくても、この国はできるだけ魔術師を確保しておきたいと思ってるから、一般人なら見捨てられるようなトラブルでも対応してくれる。流石に犯罪でも犯したらそうはいかないけど、この場合は禁じられてる人身売買の摘発に近い形になるだろうから、悪いようにはならないんじゃないかな。もしあれに貴族が関わってるとしたら……むしろ、口止め料として相当な金額が示されるかもね」
他国に比べて遙かに治安が良いとは言っても、帝都を離れればこんなもの。ふ、と乾いた笑みが漏れそうになって堪えると、ルベルはまじまじとアルムを見つめて、どこか気まずそうに頬を掻いてみせた。
「なんか……結構ちゃんと考えて動いてたんだな。正直言うと、考えなしに正義感だけで助けに入ったんだと思ってた。それか、何か企みがあって?」
「まあ……そう見えるかもしれないけど」
ふと脳裏を過った影があったのは事実だが、流石にそこまで考えなしに動いたりはしない。またもや浮かんだその影を、軽く頭を振って掻き消した。
「……行こう。もう暗くなってきたし、しっかり手当をしないと。人も待たせてるから」
一歩踏み出した足に、一瞬影が差した気がした。ざわざわと木々が夜風に揺れる気配がする。振り返ってみると、その日の月は妙に色が濃く、赤く輝いて見えた。
「……こりゃ、魔物も騒ぎそうだな」
同じく空を見上げたルクスが、月をじっと見つめて僅かに目を眇めた。どういう仕組みかは解明されていないが、魔物は月の影響を受けやすい。どこか不気味に見える空の色に、仄暗い不安が心へと影を落とした。
そして世界は目を覚ます 雨宿 藍流 @hon_oishii28
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