第32話 死んだ魚のような目をした犬
「僕こそがこの無限図書館の司書、ミスト……いや、名乗るのは落ち着いてからにしようか。さ、遠慮なく入って来なよ」
柴犬のような毛並みをした女性は「こちらにおいで」と手招きをした。何気ない仕草だが、何をするにしても様になっている。魔力とはまた違う、オーラのようなものを纏っている感じがした。
「は、はい」
俺はちびっ子ネルシアを抱きかかえたまま、扉が作る小さな段差をまたぐ。その瞬間、薄い膜に全身が触れる感覚に襲われた。思わず、「うぉわ!」と小さな悲鳴をあげる。すると、司書は綺麗に笑って、その後に説明を続けた。
「悪いね。自動的に確認できる仕組みになってるんだ」
「……何の確認ですか?」
「私に対して危害を加える意志があるかどうかだよ」
赤外線センサーの魔法版みたいなものなのだろうか。その人の意志を読み取るとは、なかなか恐ろしい造りをしている。
パタン、と背後で扉が閉まる音がした。振り返ると、閉じた扉の前に、椅子が一つ置かれている。シンプルなデザインの黒革の椅子。
「驚いたかい? この司書室はね、僕の思うがままに配置や作りを変えられるんだ。便利だろう?」
「何でもありなんですね」
「まあね。僕の友達が編んでくれた魔法さ。彼らには感謝してもしきれないよ」
俺の舌が意図せず、ピクリと跳ねた気がした。
「へぇ……友達、ですか。さっきは俺達のことを『初めての来訪者』とか言ってませんでしたっけ」
「言ったね。それは間違いじゃない。『訪ねて来た者』は君たちが初めてなんだ……と、君たちには関係のない話だね。さ、椅子に座りなよ。君たちも、僕に聞きたいことなんて沢山あるだろう?」
そうだ。俺はこの女性に聞きたいことが山ほどある。ナンバー2のことや解けずじまいの暗号のこと。そして一番は、ヘレナとクロのこと。ヘレナは『見えざる扉』と同じ形の扉に連れて行かれたと、前にコシュアが言っていた。司書が匿っているだろうというのは、ナンバー2の証言だ。
ネルシアを抱きかかえたまま椅子に座ると、椅子が勝手に前に進み始めた。机にぶつかるんじゃないかと心配したが、さっきまでは一人用だった机が、会議室のようなテーブルに早変わりしていた。本当に何でもありなんだな。
机の前で減速し、ネルシアと拳一つ分だけ隙間を開けて椅子は止まった。いつの間にか、机の上にはカップに注がれたミルクティーらしきものが置かれてある。
「どうする? 彼女を寝かせておくベッドも用意できるけど」
「このままで大丈夫です」
まだ、俺はこの人のことを知らない。悪い人じゃないとは思うが、眠っているネルシアを相手の手中に置くのは何となく不安だ。
「そうか、じゃあ自己紹介といきましょうか。私の名前はミストリナ。年齢は秘密。職業は言わずもがな、この無限図書館の司書だ」
司書のミストリナは、ふふんと自慢げに胸を突き出した。よく見ると、なかなか立派な胸をお持ちだ。少なくとも、ヘレナやネルシアには自慢できるほどに。
「あと、堅苦しいのは苦手だから、敬語はなしね。ミルクティーで無礼講といこうじゃないか」
「助かる。俺も堅苦しいのは得意じゃないからな」
「うんうん」
ミストリナがにこやかに頷く。温和な性格でなによりだ。
「そんじゃ、俺も自己紹介。俺の名前は――」
「柊義人。幻惑のウェルクを得意魔法とし、コシュアという名の妖精と契約を結んでいる。この国に来て一か月も経たないが、既に沢山の戦闘に巻き込まれている」
「……へ?」
ミストリナが自己紹介に横やりを入れ、俺よりも詳しい俺の自己紹介を語り始めた。
「何で知っているのか……そんな顔をしてるね」
「いや、まあそうなんだけど……あれだろ。さっきの扉に仕掛けられてた、意思を読み取るやつが関係してるんじゃないか?」
「ブー、残念。不正解です」
体の前で大きなバッテン印を作って、大げさに不正解を表す。初見の印象よりも随分と幼く見えた。やっぱり、彼女も初めての訪問者で緊張していたのかもしれない。
「まあ、そのからくりについては順番に話していくとしよう。……まずは、おめでとう! あの暗号を解ける者が現れるなんて、製作者ながら驚いたよ」
「あ……ハハ、そのこと、なんだけどさ」
「ん?」
一緒に喜ばない俺に、ミストリナは驚いたような顔をして首を傾げた。少しだけ行き過ぎた横ひげが、止まりかけのメトロノームのように小さく揺れて、正しい位置に戻る。
「解けて、ないんだよね。……暗号」
「……ん?」
顔の角度はそのままだが、ミストリナの目は確実に色を失っていた。やっぱりまずいこと言ったか……? でも、ここではっきりさせておかないと、後々相手に気づかれた時に詰む気がするんだよな。
「暗号の……特に『鍵をなんちゃらする鍵』みたいなやつに至っては見当すらついてない、です」
「……」
ゆっくりと頭が定位置に戻って行く。残念ながら、目は死んだままだ。
「すいませんでしたああぁぁあ!!」
俺は椅子に座ったまま頭を机にこすりつけた。耳元で、ミルクティーがこぼれない程度に波打った気配がした。
少しの間があって、乾いた笑いの後にミストリアが言葉を紡いだ。
「……ま、まあいいヨ! だって、現に扉を開けて入ってこれたんだしさ! 資格はあるってわけだから!」
「そ、そうっすよね! あはははハ」
壊れかけた場の空気を、二人で何とか取り繕おうと頑張る。頭の上で、コシュアがため息をついたのが余計に精神を抉った。
「暗号の答え、知りたいかい?」
急にキリっとした顔つきになって、ミストリナはそう言った。俺としては、暗号よりもヘレナたちの話をしたかった。ただ、ミストリナがソワソワと体を動かしていることから、ネタ晴らしをしたがっているのは明白だ。ここで機嫌を損ねるのは良い手じゃない。
「知りたい、教えてくれ」
「それじゃ……この本で解説しようか」
背後の本棚から、ミストリナは一冊の本を抜き出した。パタリと表紙を開いて、本を俺達の方へ向ける。そこに書いてあったのは、俺達が解こうと試みた暗号そのものだった。
≪見えざる扉はいつもあなたの傍に
扉の鍵はいつもあなたの傍に
鍵を鍵足らしめんとする鍵は、あなたの中に現れる
私は今を満足している
だけど私は今を退屈している
これを読んでいるあなたが、私のところに辿り着くことを心から願っている≫
柊義人と異世界あんころ餅 たもたも @hiiragiyosito
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