頬を撫でて、髪を梳いて

石井鶫子

頬を撫でて、髪を梳いて

 花を買って、新しい服を着て、出かける日は楽しいものです。髪を整え、雰囲気を華やかに見せるために口紅をひき、頬に明るい色を入れ、まつげを少し多めに盛って。

 街は寂しい雨の中ですが、通りにうんと鮮やかに咲かせるための綺麗な色の傘を持ち、お気に入りのレインブーツをはいて、私は外へ出て行くのです。

 今日も楽しく、心躍る日が始まるはずです。



 どうしてそうなったのか、とは聞かないで下さい。私には分からないのです。

 ただ、ある日帰宅した私のコートのポケットからそれはぽとりと落ちて、指でトトトと床を這い、シングルベッドに這い上がりました。それが始まりでした。

 私はそれをじっと見つめ、何度かまばたきをしました。

 今朝、家を出るときにはそれは確かにいませんでした。

 土台、女性のコートのポケットなどはほとんどデザイン上の必須で、何か大切な物を入れたりするようなものではありません。

 だからそんなもの――もの、と呼んでいいのか分かりませんが、それが何故私のコートに入っていたのか、何故私なのか、何故存在しているのか、その全部は理解ができないことで、理解出来ないことはしなくていいことと同じです。

 つまり、私はあっさりと理性の追求をやめてしまいました。

 それは『手』でした。骨張って大きい、大人の手です。

 驚かなかったのか、というと微妙です。私は確かにぽかんとしましたし、何かの夢を見ているのだろうかと思ったのですが、とにかくそこにいるということが事実です。他に、何の証拠も要らない。『手』は私のベッドの上で猫が伸びをするように大きく指先から甲までをしならせて、ぱふんと毛布に沈みこみました。

 ――ああ、やれやれ、落ち着いた。そんな言葉が聞こえるようで、私はそこでふっと口元をゆるめてしまい、それで全部が許容へ傾いていきました。

 『手』は単体として存在していました。手首から先はすぱんと切れていて、血も出ず何もつながっておらず、切り口をこわごわとのぞきこむとそこには黒く真っ平らに輝く鏡面のような壁があって、そこから先は何一つ分かりません。

 触ってみると鏡面はゆるやかに沈み、指が飲み込まれていきそうになりました。

 急にぞっとして私は指をもぎはなし、手は『もういいかい?』というように節をくねらせて私のほうへ指先を向け、それから恥ずかしそうに靴下をはきました。

 案外『手』は器用でした。

 右手しかないくせに掌底や手の平を上手く使って靴下をはきますし、子供用の歯ブラシを買い与えてみると爪の間の泥を丁寧におとします。マグカップのふちに調味料のケースを引っ張ってきて高さをとって、インスタントコーヒーをものすごい早さでかき混ぜたり、爪楊枝をわたしてみるとスチームクリームの上に器用に絵を描いたりも。クマやウサギといった可愛らしい動物を茶色い線がするりするりと描いていくのを眺めるのは、夕飯が終わったあとのなだらかな時間を楽しく彩るものでした。

 それと、洗面器にお湯を汲んでやるとまず指先でつついて熱さをみて、それから靴下を脱いでそろりそろりと浸かっていきます。

 中指と人差し指だけを洗面器の縁にひっかけて外にだし、残りの指と手はお湯に沈んでのだらりとだらけてゆくのです。温泉などでよく見かける風景がちらりと頭をよぎり、なんだか微笑ましくなってくるのがいつものことでした。

 『手』と暮らしはじめて私の生活は明るくなりました。会社に行く、戻る、食事をとって必要なことをして寝る――たったそれだけの繰り返しだった毎日が次第に楽しくなってきたのです。もうずいぶんと長い間、私は一人でした。

 たった一人を亡くした後は、もうずっと、一人だったのです。

 『手』は私の帰りを部屋で待つ間、軽い掃除や仕込んでいったカレーの見張りなどの、他愛のないことをしてくれています。どこで音を感じ取るのかわかりませんが、私がドアの鍵を回す音でいつも内扉の前までは出迎えてくれました。

 ただいま、と言いながらいつも『手』に名前がないのがぞろりと不安になりますが、しかしこれに相応しい名前というのはなかなか思いつかないものでした。

 何かが頭の隅でぼんやりと形を取ろうとする間際にいつも霧散してしまい、これという答えがないまま時間が経っていくと次第にそんなこともどうでもよくなってしまったのも事実です。

 『手』と暮らしているのは事実で、事実だけが現実です。私の主観が入ると真実とやらが叫びだしそうになりますが、現実をしっかり認識していればこそ、真実に入り浸っていられる。

 現実とは靴の底で触れているアスファルトみたいなもので、そこにある、立っている、という事実から少しも離れて存在できない。私にとって『手』が全てであれば、それでよかった。つまりはそういうこと、なのです。

 少なくとも、私は満足していました。

 幸福かと問われると戸惑いますが、『手』との毎日は悪い日々ではありませんでした。



 いつ頃からそれに気づいたのか、正直なところ、私ははっきりと思い出すことが出来ません。

 『手』は相変わらず器用で、私がいるところにはひっついてきたがる甘えたで、私は『手』に名を付けずにおりました。

 夕食の片付けが終わると私たちは食器や鍋を洗い、翌日の弁当の作り置き惣菜を確認し、ぬるいカフェオレを入れてテレビを見ます。ベッドにもたれて真剣にみたりころころ笑ったり、時間を怠惰に無駄に過ごすことがこんなに楽しいのかと思います。

 私が落語でけらけらと笑っていると、同じツボのところで『手』がたまらないといったように床をトントン叩きます。ドラマでじんわりと感動していると、同じ場面で『手』が私にそうっと寄り添ってきます。

 『手』に自分の手を差し出すと、そっと甲同士が触れあって、そこから体温が一つにほどけてゆきます。

 『手』の温度と私のそれはほとんど同じで、他愛のない一致を見つけるたびに、私は安堵でゆるく崩れていきそうになりました。

 ある夜もそうやって私達はテレビを見ていました。ドラマは最終回の直前で、ヒロインがいなくなった恋人を遂に見つけて飛びついていくところでした。

 テレビの中からは「会いたかった」「もう離れない」というような言葉がぽんぽんと飛び出してきます。ヒロインが声を上げて恋人にしがみつき、恋人は彼女の背骨を確かめるように撫で上げて、ヒロインがかすれた歓喜と情欲の吐息を雨粒と共に地面にほろほろこぼします。

 ――私は自分の胸をつかんでいました。ヒロインが恋人に再会する、ことを話の流れとして歓迎していたはずなのに全く違う感情が胸の奥から腹の底からどぶりとこぼれてきてしまい、どうしていいか分からないまま呻いていたのです。

 ――どうしてこんなもの見なくちゃいけないの。

 ――どうして現実を思い出さなくちゃいけないの。

 私は呻き、喘ぎ、とうとうどうしようもなくなって両手で顔を覆いました。泣きたかったはずなのに涙はとうの昔に枯れてしまった私には、苦しげにうなることだけが現実でした。

 今すぐ巨大な獣になって町中の全てを破壊してしまいたい。

 そんな妄想を歯を食いしばって耐えていた私の頬に、そのとき指が、触れました。

 はっと私は顔を上げました。『手』はいつの間にか私の肩へよじ登り、指で私の頬をそうっと撫でていました。

 涙など欠片もない頬を、丁寧になぞる指。やわらかな慰撫が押し込めていた蓋をそうっと溶かし、やがて涙が溢れてきました。

 私はベッドに顔を伏せて泣きました。心がちぎれるように痛く、ひどく軋んでいました。

 私がしゃくりあげるたびに『手』が私の髪を撫で、私が首を振るたびに耳をくすぐり、涙のあまりにぼんやりと熱を持ち始めた顔を『手』に向けると、『手』は私の頬をやさしくなぞり、頬にばらけてかかる髪を丁寧に指で梳いて耳にかけてくれました。

「……隆一?」

 私はそっと呼びました。それは胸の一番奥に隠していた、大切な、たった一人の名前でした。

 『手』は一瞬ぴたりと固まり、それから私の瞼を指で押さえ、また髪を梳きました。指先が私の頭皮をやらかになぞり、背筋をぞくぞくと這い上がってくる感覚がありました。

 隆一、と私はもう一度呼びました。『手』は今度は動きを止めることはありませんでした。私の頬を再び撫でて、唇を指先でそっとそっと、なぞります。

 私の唇はかみしめていたあまりにじんじん痺れ、そこを指がなぜるたびにじんわりと身体の中から水がこぼれてきます。

 私は『手』をやさしくつかみ、指を絡めました。

「隆一」

 それは四年前に事故で他界した、夫の名でした。

 『手』は口をきけません。字を書くということもしませんでした。けれど、夫の名を呼ぶと『そうだよ』と答える代わり、私の指をぎゅっと握りしめました。握力はずっと彼のほうが強く、本気で握ると潰してしまいそうで怖いよねといいながら離さないという気持ちを伝えるための強さで手をつないでいた頃と、同じ強さで。

「隆一、隆一」

 私はそれだけを喘ぎ、『手』を両手で抱きしめました。

 葬式は出しましたし、骨も拾ったはずの『夫』の『手』。

 けれど今こうして触れあっているのは事実で、事実だけが現実です。

 現実をしっかり認識していれば、真実に入り浸っていられる。どうしてとか、どうやってとか、どうでもいいことでした。

 夫が私の所に戻ってきてくれた!

 それだけが私の中に揺るぎなく立つ真実なのです。

 ……夫の手が私の髪をもう一度撫で、唇を指で愛撫します。私はゆるい吐息をこぼし、その手に自分の手を重ねます。

 高校生の頃からつきあってお互いしか見ずにすごしてきた長い年月が、私の身体の中にまだ残っておりました。指と手が肌をたどるたび、私は水になりました。



 それから私と夫――手だけですが、それは確かに夫でした。試しに畳んでもらった洗濯物は彼の法則に従ってきちんと重ねられていて、まったく以前と同じでした――との生活は、ふわふわと明るくなりました。

 夫の事故、青白い病院、白茶けた墓地からの眺め。そんな記憶は確かに私の中に存在していましたが、そちらのほうが夢のようでした。

 わたしたちは新婚生活をやり直すことにしました。

 毎日一緒にテレビを見て、一緒にお風呂に入って、一緒の布団で眠り、そして時々は性の戯れを過ごしました。夫に見えているのか分かりませんが、以前の私では考えられないほど大胆にふるまうこともありました。なにせ手だけですので、いろいろなことが足りなかったり、十分だったりするのです。

 休日に私たちは出かけることが多くなりました。

 夫と手を繋ぐ、ことは憚られる光景かもしれなかったから、私は大きめのトートバッグを買い、電車移動の間やカフェでの休憩では鞄のなかでこっそり手を繋ぎ、映画館では時々膝にのせて上からハンカチで誤魔化したりもいたしました。

 ……彼女に再会したのは、ホテルのラウンジで休憩のお茶をしようと歩いていた時でした。ホテルの中に小さな美術館が併設されていて、大好きな宋時代の陶磁器の展示が出ていたので見に行ったのです。

 彼女は純白のレースにくるまれた、お姫様のような格好でした。

 ほんの少し遅れて、それが花嫁衣装であることに私は気づきます。

「あら。ご結婚なさるの。おめでとうございます」

 私は微笑みました。夫が戻ってきた今、彼女に興味があるわけもありませんでした。けれど彼女はずいぶん奇妙な顔で私を見て、……やがてじわじわと表情を変えました。

 私が誰だったかを、ようやく思い出したらしいのです。

「どうしてここに……」

「偶然です。龍泉窯のお皿を見に来たの」

 私が言うと彼女は後ずさり、うそつき、と呻きました。

「嘘だなんて……」

 私はいいながら、彼女がますます白く蝋けてゆくのに気づきました。四年前に葬儀で会ったときにも彼女の顔色は血の気がない白で、今日も白い衣装を着ていて、それだけの偶然がひどく面白くなってきて私は笑います。

「私はあなたが結婚するのを今日初めて知ったし、許せないだとかどうだとか、そんなことは考えていないわ。幸せになってね」

 ゆっくりと含めるように言うと彼女はますます顔をゆがめ、じりじりと後ずさりました。

「こんなところまで追いかけてきて、いい加減にしないと、警察を呼びますよ」

「偶然だって言ってるでしょう? 言いがかりはやめて?」

 嘘よ! と彼女が叫びました。ホテルのロビーを行き交う人々がぎょっと足を止めるのがわかりました。それで我に返った彼女の介添えの女性が「あんまり興奮しないで、もう行きましょう」と裾を引きます。

 遠巻きにしていた女性達は彼女の友人か同僚なのか、披露宴に出席するための華やかな服装です。それが怪訝にこちらを見ましたので、私は口をひらきかけました。

 ――その人は私の夫を轢き殺したのよ。

 そう言おうと思ったのです。けれどその前に、彼女が側にあった調度品の壺を持ち上げ、私に殴りかかってきました。私はぼんやりそれを見ていました。あまりに彼女が必死にすぎて、抵抗するという発想さえなかったのです。

 そのとき、私の鞄の中から『手』が飛び出しました。ぱっと壺にはりつき、次の瞬間にぐるりと壺を回し、花嫁の顔に正面からぶち当たります。

 陶器の割れる音と共に、骨が潰されるような不愉快な音が響き渡りました。

 花嫁が悲鳴をあげ、白いレースが崩れ落ちていきます。ぷんと血の臭いがたち、喧噪と呻き声の中で、私は取り押さえられていました。

「――あなた、まだ」

 駆けつけてきた新郎が私をみて絶句します。夫を轢き殺した彼女が一度も焼香にもこないものだから焦れて何度か手紙を出したことがあったのですが、未開封の手紙を持って「彼女を追い詰めるのはやめてください」「保険はちゃんと降りてるでしょう」と言いに来た青年でした。

「たまたま来ただけよ。関係ないわ。それに、私には……」

 言いながら私は倒れている花嫁と割れた壺と散乱する生花のあたりを見やりました。夫の手はまだそこにあり、ぐったりと萎れているようでした。

「隆一……」

 私は急いで這い寄りました。けれどそれに触れる前に、血の滲みと水の中に滲むように夫は溶けて消え、見えなくなったのです。

 私は悲鳴になりました。

 夫が、夫が消えてしまった! 私の夫が、また!

 そのとき初めて、この女が憎いと思いました。

 私の夫を二度奪った女が憎い。絶対に許さない。事故の時には呆然とするしかなかったのに、今『手』が消えてしまった瞬間に、全部が倍打ちで戻ってきたのです。

 警備員が私を引き剥がし、救急車が到着し、警察がきて、私はしばらく入院することになりました。入院先に『手』が面会に来たら通してくれと何度も言ったのに、その願いは一度も聞いてもらえませんでした。



 ……民事裁判が終わったのは退院してからのことでした。私に殴りかかったのは彼女が先で、目撃していた人々によれば彼女が自分でドレスの裾を踏んで転び、壺が顔面を直撃したということになったようでした。

 それならそれでいい、と私は思います。何が真実でどれが現実か、分かっている者だけが理解していればいいからです。

 入院しているときに貰っていた沢山の薬が私の気持ちをずいぶん落ち着かせてくれて、私は穏やかな日常を送るようになりました。一瞬燃え上がった憎しみは時間が押し流してゆきますし、薬はほんの少しだけ、それを手助けしてくれるものなのです。

 けれど彼女の方は顔面に負った傷が治りきらず、退院してきては自傷行為でまた病院へいく、を繰り返しているようでした。まだ若いのに、可哀想に……

 夫の事故ではきちんと保険もおりていますし、あちらの弁護士を通じて謝罪もうけています。だから私は何も遺恨などありません。ただ真実、可哀想に思います。人を殺したことを忘れられないままこの先ずっと、直った傷を開くようなことを繰り返して生きていくのでしょう。

 あまりに可哀想なので私は退院したと聞くたびに、お見舞いに行くのです。――もう私たちのことは気にしなくていいのよ。どうか幸せになってね。そう言ってあげたくて。

 そのために花を買って、新しい服を着て、出かける日は楽しいものです。髪を整え、雰囲気を華やかに見せるために口紅をひき、頬に明るい色を入れ、まつげを少し多めに盛って。

 街は寂しい雨の中ですが、通りにうんと鮮やかに咲かせるための綺麗な色の傘を持ち、お気に入りのレインブーツをはいて、私は外へ出て行くのです。

 今日も楽しく、心躍る日が始まるはずです。

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