太陽が消える日

宮守 遥綺

変わらない未来へ

 すべては、ひとりの男の死から始まった。

 男は形ばかりは人であったが、人の智を超えた力をいくつも持つ化物バケモノであった。

 瞬間移動、物体の具現、未来予知……。

 ありとあらゆる力を持った男は、それ故に孤独を極めた。

 何も見えず、何も聞こえぬ無限の闇。

 そこにたったひとりで放り出されたかのような。そのあまりにも深く暗い孤独は、男を苛み、少しずつ狂わせていった。


 男は死んだ。

 孤独に打ち震える心に、ただ一滴ひとしずくの慰めすら受けることがないまま。

 男は、死んだ。


 周囲の人々は男を畏れていた。

 彼の持つ化物の力を畏れていた。

 

 男の死後、人々は男の生きた証のすべてを消し去ろうとした。

 愛用していたステッキも、片眼鏡モノクルも、帽子も、外套も、万年筆も。

 何もかもすべて、この世から消し去ろうとした。

 もう二度と、災厄を持つ忌み子が生まれぬように。


 しかし、それは叶わなかった。

 主を失くした部屋に踏み込んだ人々は、息を呑む。

 

 そこには、何も無かった。

 否、何も無くなっていた。

 男がこの世にあった時分には確かに存在していた、靴や傘や鞄や……その他身の回りの物の一切が、跡形も無く消え失せていた。


 それから数十年。

 消えた男の遺品リリクトは、今なお世界中に散らばったまま、新たな主を探し続けているという―――。




「……アイツ、首輪でもつけて引っ張ってきた方が良いんじゃないのか」


 低く唸る声が静まり返った会議室に落ちた。

 調度品で上品に彩られた広い室内は、壁一面の窓から入る白い陽光に暖められている。しかし、ギリギリと音を立てそうに思えるほどの鋭い雰囲気が、体感する温度を大きく下げているように、行田 歩ユキタ・アユムには感じられた。

 広すぎる室内に集まっているのは、世界的異能集団・ギルドの日本拠点におけるおさとその幹部たち。

 緊急招集にも関わらずほぼ全員が予定の時間までに顔を揃えることができた事は、奇跡と言って良いだろう。

 そう思える暗いには、全員が全員忙しい身の上であり、文字通り一分一秒すらも惜しい人間たちだ。

 そんな忙しい合間を縫って本部最上階にあるこの会議室に足を運んだにも関わらず、予定時刻を過ぎても一向に会議は始まらない。

 室内のほぼ全員が、時間になっても顔を見せない幹部のひとりに、殺意にも似た鋭い苛立ちを募らせていくのは当然のことだった。


「おい、カズヒロ。アイツはテメェの教え子だろうがよ。いい加減どうにかならねえのか。今回で何回目だと思ってる」


 糊がきいた上等な黒スーツの長い脚を揺らしながら、守屋 長良モリヤ・ナガラが再び唸った。品のない動作で脚を揺する男はそれでもどこか優雅な雰囲気を漂わせる。この男を見るたび、アユムは真の気品というのは元来備わってるものであって、決して環境によって獲得され得るものではないのだな、と思う。

 そういえば、貧民街で育ったはずのあの子どももそうだった。汚いボロボロの服を着て、髪の毛もボサボサ。野良猫を人間にしたそのままの姿をしていたが、何故か高潔な雰囲気を纏っていた。あの時はそれが不思議でならなかったが、そういうことなのかもしれない。

 ナガラに威嚇された細身の優男―――巡 和宏メグリ・カズヒロは僅かに眉根を寄せて苦笑し、携帯を持ち上げて左右に揺らした。


「さっきから電話をかけているんだけど、全然出てくれなくてねえ……」


 画面に表示されているのはカズヒロの教え子の名であり、この場にいる全員の苛立ちの元凶の名前だ。名前の下には『着信中』の文字があるが、消える気配はない。

 お手上げ、とでもいうように緩く首を左右に振るカズヒロに、室内の温度が数度下がる。

 室内にいる全員の目の奥で限りなく冷たい、鋭い光が、一層剣呑さを増してカズヒロに向けられた。

 場の全員を代表するように、ナガラが吠える。


「電話だあ? そんなの、アイツが出ねえことなんてわかりきってるだろうが! テメエの能力は飾りか、あぁ?!」

「ええ……こんなことに地図を使えって? 嫌だよ。この後も使うのにさあ。疲れる」


 机に置かれた古地図を弄りながらカズヒロがのたまう。彼の指先で、茶色にくすんだ紙がカサカサと音を立てた。

 室内の温度がさらに下がったのを、アユムはため息で受け流した。

 幹部の一人である安積 黒羽アヅミ・クロハは遅刻の常習犯で、開始時刻に会議室にいたためしがない。それだけならまだいいが、誰かが引っ張って連れて来なければ姿を現さないことさえある、サボりの常習犯でもあるのだ。

 全員それはとうに承知の上で、通常の会議ならばここまで室内が殺気立つこともない。今日の会議はそれだけ特別なのだ。

 しかし、アユムはクロハを怒る心算はなかった。この会議が彼のせいで遅れているのなら、いっそ始まることなく終わればいいのだ。


「今日は、『緊急』の会議だ。いつもとは違うことくらいテメェもわかってるだろうが」


 全員の殺気をひとつに集約したかのようなナガラの声が、室内の温度よりもさらに低い温度で絨毯敷きの床を這った。

 静まり返る室内で、全員の冷たい目がカズヒロに向けられている。


「仕方ないなあ……」


 ひとつ大きく息を吐いたカズヒロが徐に指先の地図を開く。

 茶に変色した羊皮紙の古地図。

 古い匂いのするそれには、しかし何も描かれていない。

 嫌々だとアピールするように形だけ首を左右に傾けて、カズヒロが白紙の地図に手を重ねた。


遺品リリクト―――探し物スーヘ


 広い窓から入る陽光が一斉に地図へと吸い込まれる。

 白い光の束がスラスラと書き上げるのは、この拠点の地図だ。

 一寸の狂いもなく正確に、地下2階、地上8階建ての建物を詳細に描き出す。

 その一点に、白い星が光った。


「中庭にいるねえ。予想通り」

「予想通り、じゃねぇよ。さっさと引っ張ってきやがれ。俺もそうだが他の奴らもおさも、そろそろ限界だ」


 脚を揺らしたまま言うナガラに、カズヒロがきょとんとした目を向けた。


「え、僕が行くの?」


 徐々に大きくなっていたナガラの貧乏揺すりが不意に止まった。そして声もなくカズヒロに歩み寄ったかと思うと、鋭い声で怒鳴った。


「テメェの教え子だろうが!!!」




「まずは言い訳を聞かせてもらおうか? クロハ」


 上から押さえつけるような色を帯びたナガラの言葉に、クロハが僅かに首を竦めた。眉を寄せてあからさまに不快感を訴える姿は、母親に叱られる反抗期の息子のようだ。腕組みをして脚を組み、クロハを見上げるナガラの目は剣呑で、ちょっとやそっとの言い訳では許さないと語っている。

 しかしナガラを止める者が誰もいないのは、皆がそれほど腹に据えかねていたからだろう。


「えっと、」

「先に言っておくが、いつもの屁理屈は通用しねえぞ」

「……すみませんでした」


 今回ばかりは素直に頭を垂れたクロハに、場の空気が緩む。ため息を吐いて小さく「さっさと席に就け」と言ったナガラの言葉で、室内がやっと正常に動き出した。


「今回の緊急招集だが、理由は薄々検討がついていると思う」


 おさである井深イブカの言葉に室内の幹部全員が小さく首肯する。

 送られてきたメールには『緊急招集』という旨と場所、時間、欠席時の連絡先のみが記され、その目的は書かれていなかった。しかし新聞の朝刊を見ていれば、理由は明白だった。

 人知れず、アユムは憂鬱の息を吐く。

 全員の首肯にこちらも首肯で返した長が再び口を開く。深い温かみを持つ低音が室内に響いた。


「今朝、新聞の一面で取り沙汰されていたが、『月下の悪魔』が再び現れた。今回の犠牲者は四人。中には、組合員ギルドのメンバーもいた。これでうちの犠牲者はわかっているだけで二人目だ」


 死んだ組合員を思ってか、長が目を伏せた。クロハやナガラ、カズヒロなど他の幹部たちもそれに続いた。アユムは自らもそれに倣いながら、その頭の中に数年前の子どもの姿を思い描いた。

 貧民街の最下層。

 痩せてガリガリの少女のすべての感情をそぎ落としたかのような顔には、ただ諦念のみが浮かんでいた。

 一緒に過ごしてきたのだろう。大切そうに抱きかかえた黒猫の体には、もはや命はなく。

 それでも少女はひとつの言葉も、涙すらも浮かべていなかった。

 動かなくなった猫をただ「動かなくなったモノ」として感じているその姿は、死というものを理解し真摯に受け入れているようにも、全く理解せずに嘆いているようにも見えた。

 あの子どもは今、どこにいるのだろう。


「さらに悪いことに、『月下の悪魔』を夜鷹ヨダカが獲得しようと動いているという情報も入った」

「夜鷹が……」

「いずれ動くとは思っていたが、やはりか……」


 夜鷹ヨダカ―――それは暗殺を生業なりわいとする凶悪な犯罪集団であり、日本にあるもうひとつの異能集団。彼らは夜闇を渡り歩き、鷹の如く静かに、迅速に獲物を狩る。


「痕跡を一切残さずに殺しをやってのける『月下の悪魔』は、夜鷹にとってはダイヤの原石だろうしねぇ……。狙わない理由がない」


 カズヒロの暢気な声におさが重々しく頷き、言葉を続ける。


「夜鷹に『月下の悪魔』を獲得されてしまえば、さらに犠牲者は増えるだろう。一刻も早く『月下の悪魔』を見つけ出し、せねば」


 その一言に、アユムは身震いするほどの嫌悪を感じた。

 一見優し気な「保護」という言葉の裏に隠れているものが何かを知っているからだ。

 そこにあるのは、死だ。

 それも、処刑による一瞬の死などではなく、真綿によって緩やかに窒息させられ、ゆっくりと味わう死だ。

 地下室に監禁され、遺品リリクトは没収され、ギルドが殺したわけではないというその言い訳のためだけに用意された「死と生の間の道」を緩やかに歩くことを強要される。生きていることの実感もできず、さりとてすぐに死ねるわけでもない。

 その異常な状況下で、最終的に自分をも見失い、狂って死んでいった人間たちが何人もいた。

 それが、長のいう「保護」だ。


 人を殺すことが許されないということは、もちろんアユムも知っている。それが裁かれるべきものであることも。

 しかし、正当に裁判で裁かれるならいざ知らず、その過程を経ることもなく命を消すこともまた、許されないことなのではないだろうか。

 他の幹部たちはそろいもそろって長の言葉に頷いている。

 それが正しいことだと思っている。

 他の何十人、何百人の命を守るためには、たった一人の犠牲は仕方がないとでもいうように。


「……」


 逃げてくれ、とアユムは祈った。

 心の中で。切実に。

 

「そこでだ、カズヒロに『月下の悪魔』の居所を特定してもらいたい」

「……紙の面積の問題もあるので、街ひとつ分となるとさすがにピンポイントではわかりませんが、半径一キロ圏内と考えてもらえれば。―――探し物スーヘ


 カズヒロが再び地図に手を乗せて唱えると、先ほど描かれた地図がどんどん新しいものへと変わる。

 あった線が消え、無かった線が増えていく。

 光が描き出す新しい地図だ。

 瞬く間に出来上がったのは、この港湾都市の全体を見下ろす地図。

 埠頭の一つまで詳細に描きあげられた地図の東のはずれに、白い星が灯る。


「ここは……」

「貧民街だ」


 ナガラの声が、響く。




『月下の悪魔を捕獲せよ』


 その任が全員へ届いたのを確認して、会議はお開きとなった。

 各々が自らの仕事を終わらせ次第、この任に取り掛かるため動き出すだろう。

 音も立てずにくるくると回り出した歯車を思いながら、アユムはただ×××の無事を祈った。どうか、うまく逃げおおせてくれ、と。

 

 地図の力を短時間に二度も使ったカズヒロは、ひどく疲れた様子で「……久々に体力切れで眠気がヤバい。ちょっと寝てから戻るって部下に伝えてくれ」とナガラに伝言を残してさっさと会議室を後にした。

 他の幹部たちも早足に自らの執務室へと戻っていく。

 誰一人無駄話をしないのは、下された任が一刻も早く取り掛からなければならないものであると誰もが認識しているからだろう。

 

 室内に残ったのは、クロハとナガラ、そしてアユムの三人だけだった。

 立ち上がったクロハとナガラが、座ったまま窓の外を見ているアユムの丸い後頭部を見つめている。

 最初に口を開いたのは、ナガラだった。


「……いいのかよ。アユム」


 すべてを知っていると言わんばかりの口調に、アユムの口元が歪む。心に巣食う名前の付けられない感情が溢れ出たそれは、名状しがたい色を彼の顔に与えていた。

 室内に柔らかな沈黙が落ちる。

 陽光に照らされて暖められたはずの空気が、今のアユムにはひどく冷たく感じられた。


「……どうしようもないじゃないか」


 零れた言葉が陽光の中に溶けていく。


「あの子に力の制御の仕方を教えて……その時私は言ったんだよ。『力は使うな』って。もともと感情の起伏がゼロに近い子だったから、なおさら。『力を使えば、君は君ではなくなってしまう』って」

「それでも、『月下の悪魔』は力を使って人を殺してる」

「わかっているよ。わかっているさ。だけど、どうすればよかった? 仮にあの子をもっと早くここに連れてきたところで、結果は変わらない。あの子を地下に閉じ込めて、力を奪って……殺すんだろう。他の人間たちのために、あの子一人が犠牲になればいいって」


 ナガラは何も言えなかった。

 クロハもまた、何も言えなかった。

 アユムの言うことは何も間違っていない。

 もし、人を殺す前に『月下の悪魔』をここに連れて来ていたとしても、結果は変わらなかったろう。

 異能を取り上げ、閉じ込め、使用者が狂って死んでいくのをただ待つ。

 たった一人に世界を背負わせ、その重みで圧死させる。

 危険な遺品の使用者に。ただ、それだけで。

 

「何も知らない子どもだよ。温かいご飯も、暖かい布団も、人の優しさも……当たり前に私たちが与えられたものを何一つも知らない子どもだ。道端の雑草やゴミを漁って……それでも必死に生きていた子どもだよ。死んでしまった仲間の代わりに、猫を拾って自分の少ないご飯を分け与えていたような、寂しがりで優しい子どもだったんだよ」


 そんな子どもに、どうして「世界のために死んでくれ」などと言える。

 ずっとずっと、世界に見放されて生きてきた子どもに。

 

「『君を助けてくれないほかの人間たちのために、死んでくれ』なんて言えるはずがないじゃないか」


 クロハからも、ナガラからも、アユムの表情は見えなかった。

 ただ、小さくそう言ったアユムの声が擦れ、震えていたことが彼の心を強く二人に伝えていた。


「……けど、もうどうしようもねぇだろ。ここまで人を殺しちまったらよ」

「昨日の時点で、わかっている犠牲者だけでも、すでに四十人を超えました。自殺に見せかけて殺しているなら、もっと殺していると思っていい。もう、どうしようもない」


 クロハがいつにも増して真面目な声で言うのを、アユムは黙って聞いていた。

 もうどうしようもないことは、アユムが一番よくわかっていた。

 座ったままだったアユムが、立ち上がる。

 何も言わずに二人の横をすり抜け、会議室を出て行ってしまう。

 その後姿を、クロハが追った。

 懐に入れている小型の望遠鏡で、去っていくアユムの後姿を捉える。


遺品リリクト―――星詠みシュテル・リーザ


 淡く光を帯びた望遠鏡。

 見えるのは、三日後までの未来。


「っ……! アユムさん!」


 遠くなっていくアユムの背中に、クロハが声を張り上げた。

 普段叫ぶことなどない喉が、ひりつく痛みを訴えるが、そんなことには構っていられなかった。

 未来。

 それは常に変わり続けるものだ。

 確実に見えた未来に行き着く可能性の方が低い。

 しかし、クロハには見えた未来が確実なものになるという不思議な確信があった。

 そしてそれは、絶対に避けなければならない未来だ。

 クロハの声は確実に届いているはずなのに、アユムは振り返らない。大きな薄い背中が、どんどん遠ざかっていく。


「行かないでください! 行っちゃだめだ!! でないと、アンタ……!!!」


 不意に立ち止まったアユムが、僅かにクロハを振り返る。

 まるで兄が弟に「内緒だよ」と笑うように。

 持ち上がった白い指が色の薄い唇に添えられた。

 いつも温かい光を湛えている鳶色の目が、悲しく歪んだ。


「……アユムさん」


 やけにゆっくりと見えたそれは、一瞬だった。

 気が付けば、アユムの姿はすでに廊下の向こうに消えている。

 立ち尽くすクロハの肩に、大きな手が添えられた。


「いつも面倒臭がりなお前が、やけに必死じゃねぇか」


 からかうような言葉。

 しかし一切笑っていない。

 それがわかる、色をしていた。


「……アイツは、わかってるよ」


 わかった上で、すべての責任を取ろうとしてる。

 それが、アイツの師匠としての最後の優しさなんだ。


 言葉にされない言葉を読み取って、クロハは掌で胸の辺りを抑えた。

 俯く彼の頭に軽く手を置き、ナガラが歩き出す。

 言葉はなく。

 それでも、その掌の温かさがクロハの足を動かした。


 アユムはやるべきことをやろうとしている。

 自分たちも、やるべきことをやらなければ。


 僅かに胸に残る苦味に気が付かないふりをして、クロハはただこれからを考えることにした。

 その未来から、先ほど見た背中を消し去りながら。






 

 

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太陽が消える日 宮守 遥綺 @Haruki_Miyamori

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