暗くて、深くて、暖かい

青島もうじき

暗くて、深くて、暖かい


 コンコンと、窓を叩く音が聞こえてきた。すべての生き物が寝息を立てているような、静かな夜だった。

 なんだろう。もぞもぞと布団から這い出して、レースのカーテンを引っ張る。

 外には、寝間着姿の千浅ちあさちゃんが立っていた。私と色違いの、薄いブルーのコットンの寝間着。

 窓の外は意外に明るい。街灯の光に照らされた千浅ちゃんの白い顔が、薄く私に微笑みかけていた。

「ねぇ明穂あきほ。なんだか今日は、うまく寝付けない夜だと思わない?」

 窓の枠に身体をもたせかけながら、千浅ちゃんは言った。その脇に抱えた大きなサメのぬいぐるみは、千浅ちゃんが普段枕にしているものだ。

 腕にうずめるようにして私を見上げている千浅ちゃんの頭からは、甘いミルクのような匂いがする。きっとこれは、シャンプーの香り。

「うん。なんだか今日は、うまく寝付けない夜みたい。千浅ちゃん」

 布団に入ってから、どれくらい経っていたんだろう。千浅ちゃんが窓を叩くまで、目を瞑って何度か寝返りを繰り返していたけど、眠っていたわけではない。ただ、瞳に瞼で蓋をして、ごろごろ、ごろごろと。

 千浅ちゃんは、私の答えに満足したように、ゆっくりと頷いた。

「だって、せっかくの夜だというのに、この世界は眩しすぎるもの」

「この世界は眩しすぎるよね。街灯の明かりだって一晩中ついてるし」

「星の瞬きも、夜明けまで消えることはない」

 そうだ。私たちの眠るところには、光が多すぎる。なにも見えることがないくらいの本当の夜を、私たちは知らない。

 千浅ちゃんは、その瞳に光の粒を散らしながら、私に手を差し伸べた。

「だから、二人で探しに行こうよ。私と明穂の、二人で。どんな光も届かないような、暗いところを。なににも邪魔されることのないような、深いところを」

 千浅ちゃんの指先が、私の指先に触れた。白くしなやかな千浅ちゃんのてのひらを握り返すと、ほのかな温もりを感じた。

 千浅ちゃんに手を引かれて、私は窓から身を乗り出した。窓の枠を乗り越えて、裸足で踏みしめる土の感触。降り立った夜の世界には、やっぱり光が多すぎる。お隣の家から漏れる、橙色の明かり。瞬きを繰り返すように点滅する、信号機の黄色。私たちを優雅に見下ろす、まっ白でまん丸の月。

 光のない世界で、闇に意識を溶かしだすように眠ってみたい。私と世界を隔てる身体が、失くなってしまったように眠ってみたい。

「じゃあ、行こっか」

「うん。行こう」

 これから私たちは、ゆっくりと眠れる場所を探しにいく。暗くて、深くて、暖かい場所を。


 初めに訪れたのは、森だった。

 ひんやりと頬をなでる風は心地よく、青々と茂った葉っぱが、月や星の光を遮っている。近くに小川があるのか、ささやかなせせらぎが聞こえてきた。

 息を吸い込むたびに、土と水の優しい香りが胸を満たす。歩く度にふかふかと沈み込む柔らかい地面、倒れて朽ちた木の幹、葉っぱと葉っぱが身を寄せ合って奏でる、ささやくような子守唄。

 まるで大きななにかに身体を包み込まれているような、そんな穏やかさが、ここにはあった。

 前も後ろもないような森の中で、確かなものは繋いだ千浅ちゃんの手のひらだけ。肩が触れ合うたびに、水色と桃色、二人分のパジャマの柔らかさが肌に伝わってくる。

「明穂、見て」

 千浅ちゃんの指さす先には、大きな木がどっしりと根を下ろしていた。森の中でもひときわ静かに、黒々とした影になっている、大きな木。

 何年生きているんだろう。私たちが何十人集まっても抱えきれないような太い幹。その真ん中あたりに空いた小さな穴の中では、ほっぺたを食べ物で満たしたリスが、すやすやと寝息を立てていた。

「ここなら、ゆっくり寝られるんじゃないかな」

 千浅ちゃんは、大きな木の根っこに身を任せるように、ごろりと横になった。大きなサメのぬいぐるみの半分に頭を乗せて、もう半分は私のためにあけてくれている。

 千浅ちゃんに倣って、私も横になってみる。さっきよりも少しだけ身体が地面に近づいて、少しだけ土の匂いが強くなった。

 寝転んで見上げる大きな木は、私たちを何かから守っているみたいだった。枝や葉っぱを、傘みたいに私たちの上に張り巡らせて、降り注ぐ光の雨から私たちを守っているみたい。

 葉っぱの降り積もった柔らかい地面がマットレスで、いろんな優しい匂いの混じりあった暖かい空気が掛け布団。

「なんだか、ここならよく眠れそう」

「そうだね、ここならよく眠れそう」

 そう言って、微かに笑いあった瞬間。森の木々の間を、強い風が吹き抜けた。

 ぶわりと舞った木の葉に、一瞬、かたく眼を瞑って。そして、次に目を開いた瞬間に見えたのは、緑色の光に満ちた、幻想的な森の姿だった。

 ふらふらと光の線を残しながら身を焦がす蛍たち。ぱさぱさと粉を振りまきながら緑色にぼんやりと光る、かわいらしいキノコの群れ。

 うっとりするような、目に優しい天然のイルミネーションだった。いつのまにかリスも巣穴から出てきて、踊る光の粒を、千浅ちゃんのおなかの上から眺めていた。

 私たちは寝転がりながら、顔を見合わせて笑った。

「すごく、綺麗だね」

「すごく、綺麗だけど」

「ここじゃなかったみたい」

「ここじゃなかったみたいだね」

 千浅ちゃんが立ち上がり、私もその手に引かれて、立ち上がった。土の香りが少し遠ざかる。リスは巣に戻って、その端から顔を覗かせてじっと外を眺めていた。

 千浅ちゃんの温かい手に引かれて、再び私たちは歩き始める。

「もっと、暗いところへ」

「もっと、深いところへ」


 私たちは、ボートで海へと漕ぎ出した。すべすべとした手触りの、木でできたボート。白くてどこまでも続く砂浜から、遠く、遠くの海に向けて。

 波の静かな海に、ちゃぷちゃぷと、私たちが船を漕ぐ音だけが響く。

 高く昇った満月と、満天の星空が私たちを見下ろしている。海に映し出された月の姿が、波打つたびにゆらゆらと揺れる。

 ボートの縁に立てかけたサメのぬいぐるみが、ぼんやりと遠くを見つめている。とがった鼻先をまっすぐに空に向けて、丸くてつぶらな瞳を潮風で濡らしている。

「故郷の海に帰ってこられて、嬉しいんじゃないかな」

 千浅ちゃんがボートを漕ぎながら、笑った。改めて眺めてみると、なんだかサメは嬉しそうな顔をしているようにも見えた。

 いつの間にか、島や陸の見えない、見渡す限りの大海原に私たちは来ていた。遠くで海と空とを隔てている水平線が、緩やかな孤を描いていた。地球って、本当に丸いんだ。

 そんなことを考えていたからか、ボートを大きく揺らしてしまった。ぐらりと傾いたボートから、あっけなくサメが落ちていく。

 ボートを漕ぐ手を止めて、二人で海をのぞき込む。ゆっくりと海の底へと沈んでいくサメが、波に揺られて私たちに手を振っていた。

「ねぇ、なんだか私たちを呼んでるみたいじゃない?」

「うん。そうみたい」

 私たちは手を取り合って、海へと足を踏み入れてみた。パジャマの裾に、水が入り込んでくる。

 頭のてっぺんまで海の中に沈んでしまっても、不思議と息は苦しくなかった。なんだか、水の中のはずなのに、温かく感じられる。産まれてくる前に感じたことのあるような、そんな穏やかさに、私たちは包まれている。

 サメは、どんどんと地球の奥に向かって泳いでいく。それを追いかけるようにして、私たちは潜る、潜る。

 ふっと水面を振り返ると、揺れるボートの影と、月の光が見えた。それもだんだんと遠ざかっていき、影と光は一つの闇へと融けあっていった。

 だんだんと暗くなる。だんだんと、サメの姿も見えなくなっていく。

 私たちは、ゆっくりと沈んでいく。光は水にさえぎられて、すでに真っ暗の深海になっていた。耳がぼうっとして、気持ちがいい。

 やがて、背中が海底に触れた。サメのぬいぐるみはすぐそばに落ちていて、千浅ちゃんの腕の中に再び納まっていた。

「なんだかこの場所、私たち以外の生き物がいないみたい」

「私たち以外、誰もいないみたいだね」

 深海魚たちは逃げてしまったのだろうか。私たちの周りには、なにもいなかった。あるのは暖かい水と、静かで暗い空間だけ。膝を抱えるようにしてその中に漂っていると、だんだんとなにも考えられなくなっていく。

「あ、上」

 だけど、千浅ちゃんの声につられて、ふっと上を見上げると、なにかが降ってくるのが見えた。ゆっくりと、糸を引くようにしんしんと落ちてくるそれは、海に降る雪だった。

 マリンスノー。真っ暗の深海に降り積もるそれは、ほのかに白く、ほのかに眩しかった。餌を求めて、魚たちが集まってくる。不意に賑やかになってしまった海の底で、私たちは顔を見合わせた。

「残念。結構いい場所だと思ったんだけど」

「ううん、結構いい場所だったよ」

 慰めるようにサメの頭をなでてあげると、サメはつぶらな瞳で私を見つめ返して、海面の方へと上がっていった。私たちも、降りしきるマリンスノーの中、左右に揺れるその尻尾を追いかけていく。

「もっと、暗いところへ」

「もっと、深いところへ」


 海をさまよってたどり着いたのは、誰もいない小さな島だった。

 はるか昔に人が住んでいたみたいで、建物の跡のようなものがたくさんあった。だけど、今はどれもツタやコケに覆われて、すっかり岩のようになっている。

 広場のようにぽっかりと開けたところには、羊の神様みたいな石像が立っていた。なんだかとぼけた顔をしていて、心が和む。

「この羊、神様なのかな」

 羊の頭にサメを乗せようと背伸びしている千浅ちゃんに聞いてみる。もこもことした頭の上に乗せたサメからそーっと手を離すと、サメはその上で一瞬とどまって、やがてころころと転がり落ちた。

「どうだろう。もしかしたら、眠りの神様なのかも。よく眠れますようにって」

「じゃあ貢ぎ物しないと。よく眠れますようにって」

「それもそうだね。なにか、ちょうどいいものはないかな」

 少し考えて、広場の脇にある、小さな家のような建物に入ってみた。大きな岩をくりぬいて作った空間に、大きな石がごろごろと転がっている。昔は家具として使われていたものなのかな。

 奥の方には、小さな綺麗な石がたくさん転がっていた。赤いもの、青いもの、透明なもの。丸かったり、ひしゃげていたり、形も色々ある。

「お金として使われていたのかもしれないね」

 千浅ちゃんは、そんなことを言いながら小さくて赤いものを拾い上げた。手のひらに載せてまじまじと見つめて、そして、パジャマのポケットの中に大切にしまった。

「内緒だよ」

 そんなふうに笑いかけられたので、私も青くて綺麗なものを一つ選んで、ポケットに入れた。

「これで、おあいこだね」

「ふふっ。そうだね、おあいこ」

 入口からは、さっきの羊の神様がよく見える。星の光を受けて、ぼんやりとその輪郭をにじませながら、そこに何百年、何千年と立っているんだ。

「あれ。ここの石、動くんだ。明穂、一緒に押してみようよ」

 千浅ちゃんが入り口の脇に立っていた。板のようになった分厚い石を二人で押すと、ゆっくりと入口に蓋がされる。どうやら、石は扉だったらしい。

「あ、けっこう暗いかも。ここならよく眠れるんじゃないかな」

 そう言って振り返ると、隣の部屋の奥の方で、なにかが揺れているのが見えた。ぱちぱち、ぱちぱちと音がする。

 顔を出してみると、奥の部屋の隅で、小さな火が燃えているのが見えた。石でくみ上げられた暖炉のような場所で、消えてしまいそうなくらいに小さく、ゆらゆら、ゆらゆらと火は燃え続けていた。

「これも、何百年、何千年もここで燃え続けていたのかな」

「住んでいた人がいなくなっても、ずっと消えずに燃え続けていたんだね」

 そう考えると、なんだか消してしまうのも気が引けて、岩の扉を元通り開いて、私たちは家から出た。

 羊の神様には、家の前に生えていた小さな花を二輪、貢ぎ物にした。よく眠れますようにと、二人でお願いごとを呟いて。

「もっと、暗いところへ」

「もっと、深いところへ」


 いろんな暗いところを探して、いろんな深いところを探した。

 だけど、どこもなんだかしっくりこなくって。ゆっくり眠れそうになくって。

 そうして二人で場所を探しているうちに、宇宙の端っこにたどり着いた。

 宇宙の端っこは、外側に目を向けるとなにもない真っ暗闇だけど、内側を見ると無数の星が煌めいている。なんだか、ついさっき見てきた海と空の境目みたいだ。

「ここも、ちょっと眩しすぎるかな」

「そうだね。ここも、ちょっと眩しすぎる」

 千浅ちゃんは、腕に抱え込んだサメに、ぎゅっと顔をうずめた。

「どこにもないのかな。どんな光も届かないような、暗いところは。なににも邪魔されることのないような、深いところは」

 私たちは、一緒にいろんなところを歩いた。大きな森の、大きな樹の下に行ったり、光の届かない暗い海の底に行ったり、何千年も前に人のいなくなった島に行ったり。そうして、宇宙の隅々まで探したけれど、見つからなかった。

 だから、もう私には暗くて、深いところは思いつかなかった。

 だけど、しょんぼりしている千浅ちゃんを、励ましてあげたかった。なにかできないかな。そう思ってポケットを探すと、指先に触れるものがあった。

 誰もいない島で拾った、小さな青い石。私と千浅ちゃんだけの、秘密の綺麗な石。

「ね、千浅ちゃん」

 肩を叩くと、千浅ちゃんはちょっとだけサメから顔を上げてくれた。

「見ててね」

 私は、青い石を、宇宙の外側に向かって放り投げた。なににも邪魔されることなく飛んで行った石は、やがて宇宙の外側で青い星になった。宇宙の外側の、はじめての星に。

「ほら、千浅ちゃんも」

 サメをぎゅっと抱きしめている手を優しく包み込むと、千浅ちゃんは、やっと顔を上げてくれた。

 千浅ちゃんがポケットから取り出した赤い石は、私の青い石と同じくらい小さくて、綺麗だった。指先に摘まんだそれを、私の顔を交互に見比べて、千浅ちゃんはふっと笑った。

「えいっ」

 千浅ちゃんの投げた赤い石は、私の青い石のそばで星になった。二つ並んで、仲良く私たちを見下ろしている。

「さ、帰ろっか」

 私の差し出した手を、千浅ちゃんはぎゅっと握り返してくれた。白くしなやかで、暖かい手のひらだった。


 窓の枠を乗り越えて、部屋の布団に再びもぐりこんだ。今度は、千浅ちゃんも一緒に。

 二人分の温もりで満たされた布団は、心の、奥の奥まで温かくなるような幸せに満ちていた。

「暗くて、深いところは見つけられなかったけど」

「いろんなところに行けて、本当に楽しかったね」

 もぞもぞと身体を動かすと、おそろいのコットンの寝間着がふわりと触れ合う。私は桃色、千浅ちゃんは水色。私たちだけの秘密の星と、取り換えっこした色。

 心地良いまどろみが、私たちを包み込んでいた。枕にしたサメのぬいぐるみは、おなかのところが程よく沈み込んですごく気持ちがいい。そっと撫でてやると、サメは、嬉しそうに笑った。

「なんだかちょっとだけ、眠たくなってきたかも」

 そんな風に囁く千浅ちゃんの身体を、ぎゅっと抱きしめた。

「なんだかちょっとだけ、眠たくなってきたね」

 千浅ちゃんも、私をぎゅっと抱きしめ返してくれる。

 お互いの腕の中に顔をうずめていると、その温もりが、じんわりと、波が寄せてくるように伝わってくる。

 私の腕の中で上下する、千浅ちゃんの穏やかな呼吸。千浅ちゃんの腕の中で上下する、私の、穏やかな呼吸。それがだんだんと遅く、細く、静かになっていく。

 そっか、この腕の中こそが。

「本当に暗くて」

「本当に深くて」

 そして。

「「本当に、暖かい場所」」

 いろんな場所を探したけれど、見つからなかった。宇宙の果てまで行ったけど、見つからなかった。だけど、本当に欲しいものはすぐそばにあった。布団の中、あなたの腕の中に。

 だんだんと、瞼が重くなって。だんだんと、頭の中がとろんととろけてきて。だんだんと、なにも考えられなくなっていく。

 私の腕の温もりは、あなたのもの。あなたの腕の温もりは、私のもの。そうやって、二つの体温がまざって、伝わって、溶け合うようにして、そうして私たちはようやく、ゆっくりと眠れる場所たどり着いた。

 私たちの目指した、暗くて、深くて、暖かい場所に。

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暗くて、深くて、暖かい 青島もうじき @Aojima__

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