武蔵小杉
十年ほどが経って、僕はタワマンを望んではいけないような稼ぎしかなく、ただ所用で武蔵小杉の街を歩くことになった。
歩道の反対側を歩く子連れの女性に見覚えがあった。
広い道路の反対側から判別できるほど思い入れのある女性など、この世にひとりしかいなかった。
夢中で信号が青になるのをもどかしく待って、女性に駆け寄った。
「……久しぶり」
しばらく沈黙が支配した。今さら、友達でも戻りたいなどと虫のいいことが言えるはずもなく、他に何を言っていいか皆目見当もつかなかった。
「……今この街に住んでいます。主人と、娘と」
主人と、というあたりにかすかに語勢が込められたように思えて、するとこれは引導だった。住まいはタワマンかどうかは訊いてもしょうがなかった。僕の夢を澄香が知るはずもないのだから。
「幸せそうだね」
「ええ」澄香は言った。「ミリコ。ご挨拶なさい。お母さんの、昔のお友達」
「こんにちは」
子供がハキハキと話すのに、ぼくはくぐもった声で、こんにちは、としか返せなかった。
二人は揃いの、新幹線トレーナーを着ていた。鉄道好きはまだ健在のようだ。
これ以上話すこともなく、話して幸せを邪魔していいはずがなかった。
「それじゃ」
そう言って別れようとした。
「ミリコ、って美しいに果物の梨に子供と書くの。それで美梨子」
それが最後の会話だった。僕たちは互いに背を向け、逆向きに歩いて行った。
歩きながら、なぜ漢字でどう書くかなどわざわざ教えてきたのだろう、と考え、あの年格好だと、十歳か少し小さいくらいかな、などと考えが及んだ。
心臓が打った。まさか――。
そして美梨子、という名前をまた考えた。ミリコ。別の読み方をすればミナシコ。
もう一回、大きく心臓が打った。
ミナシコ。ムサシコスシミ。
振り向くと二人は、もう視界から消えていた。
コナシミ 解場繭砥 @kaibamayuto
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