切り離した青

緒出塚きえか

第1話 切り離した青


 もしかしたら私は、執着するほど何かを好きになったことがないのかもしれない、と思ったのは別れを切り出された時だった。


 五年付き合った彼氏と別れた。ずっと一緒にいたいからと同棲を熱望し、勝手に決めてきた西武柳沢の新築のアパートを、彼は三年半で出て行った。

 他にいい人ができたらしい。取り立てて悲しくはなかったし、涙が出ることもなければ、縋ることもなかった。

 五年前の春、あんなにも熱烈な求愛をした彼だったけれど、あの頃の恋慕はもうとっくに忘れてしまったらしかった。


「いかないで、って言わないんだな」そう言われたときは流石に言い返したい思いが一滴ほど湧いて出たけれど、それも一瞬で蒸発した。時間にして多分、一秒にも満たなかった。

 それでも、今し方部屋を出ようとしている彼に伝える意義も、気力も、私にはなかった。どうでもよかったんだと思う。


 二十九歳で五年付き合った彼に逃げられた、と知った母は一言「一度休憩してみればいいじゃない」と笑った。


 何の休憩? と聞き返したとて私の欲しい答えは返ってこないだろう。母は昔から哲学的なことを言うのが趣味なのだ。哲学ではなく、哲学的なこと、というのがミソで、お調子者でひょうきんな母はそれっぽい意味深なことを言ってみたいだけらしい。

 休憩と言ったのもその延長だろう。深い意味などない。



 彼が出て行って早々に部屋を解約した私は、武蔵村山の実家に戻った。西武柳沢で生活していた頃と違うのは通勤時間が長くなったことぐらいだった。


 母のひょうきんな性格には幾分か助けられた部分もあったし、何を考えているのか一見わからない父も、戻ってきた私に対して何か言うこともなかった。ただ、ここで過ごした幼かった頃の日常に戻ったような、ゆっくりと流れる時間の中で過ごす毎日になった。


 東京なのに駅もない、出会いもない、刺激的な毎日が送れるわけではないこの陸の孤島である武蔵村山が昔は大嫌いだった。


 休日の朝、ご自慢の水出しコーヒーを出してから母は言った。


ひじり、今日なんか予定ある?」


「ないよ。ないからこうして美味しい美味しい水出しコーヒー飲ませて頂いてます。すっきりしてて今の時期ピッタリだね」


「でしょでしょー? お父さんはなんも言わないから作りがいないけど聖がいてくれると感想くれるから嬉しいわー! ってそうじゃなくてね、今日お出かけしようよ」


「どこ? 映画とか? イオンいく?」


「違う違う、公園! 野山北公園! 小さい頃よく行ったでしょ、野山北公園! アスレチックが大きくなってね、長い滑り台もできたのよ。ずっと行ってみたかったの!」


 母は五十代半ばというのに純真無垢な少女のように目を輝かせて言った。この場で空気のようになっていた父も、反論しようとした私も、母のこの目に弱い。


「それにしばらく車の運転してないでしょ? 聖のリハビリも兼ねて三人で行こうよ」


 ペーパードライバーに片足を突っ込んでいる私は両親を車に乗せ、自宅から十分ほどの野山北公園へ行くことになった。


 公園の駐車場には、車が三台しか停まっていなかった。大人三人でアスレチックに挑むには相当の勇気が必要になるかと思っていたけれど、要らぬ心配だったらしい。

 駐車場からすぐ近くのアスレチックの入り口から入り、コースに沿って山を登った。幼い頃に来ていた時よりも充実した本格的なアスレチックコースに若干ではあるが感動した。


「聖! みてみて、トカゲ!」


 母が大声で私を呼んだ。母の手には尾の青いとかげがいた。


「トカゲ好きだったでしょ? 可愛いね」


 みせて、と言った私の手に母はトカゲを乗せた。身体が細く、頭から尾にかけて縦縞の模様があり、コバルトブルーの長い尻尾が綺麗だった。

 久々の運動で疲れていたのかもしれない。柔らかい風が吹き、木漏れ日の差し込む中できらきらと輝くトカゲの尻尾にうっとりとした。


 トカゲを優しく両手で包んで地面に下ろし、遠ざかるトカゲを三人で見守った。


 母ご所望の長い滑り台を下り、満足した母を後部座席に、父を助手席に乗せて車を発進させた。

 駐車場を出て、市内で唯一の温泉施設の角を右折したあたりで父がふと言った。


「あのトカゲが、どういうトカゲか知ってるか?」


「知らない。綺麗だなーって昔から好きだったけど調べたことなかったな」


「あのとかげはニホントカゲの幼体なんだ。大人になると茶色くなってしまうんだよ。幼体は尾を切って敵から逃げやすくするために、わざと目立つ青にして、尾を狙われやすいようにしているとも言われているそうだよ。悲しいことに尾を切り離して再生した新しい尾は、綺麗な青じゃなくなるらしいんだが」


 母は身を乗り出して父の話を聞いていた。


「さっきの子は綺麗な青だったからね。まだ一度も敵の脅威にさらされたことがないのかもしれないな」



 私の手のひらに乗ったあの綺麗なコバルトブルーの尾のトカゲが、死ぬまでずっと綺麗な尾を保つ種類のトカゲなんだと、勝手に、調べもせずに思い込んでいた。けれど違ったのだ。

 トカゲの尻尾切り、という言葉もあるように彼らは敵から逃げるために綺麗な青い尾を切り離す。

 切り離しと再生を繰り返して、彼らは大人になる。青い尾を代償に、彼らは大人になっていく。


 私の青い尾は、何度切り離したんだろう。いつ青くなくなってしまったんだろう。


 小学生の頃、私の悪口を言っている友達を見かけた時。波風を立てたくなくてその友達と表面上だけ、仲良くしていた時。中学生の頃、好きでもない男の子に告白されてなんとなく付き合った時。高校生の頃、同級生のいじめを見かけて何もできない自分を憎んだ時。大学生の頃、飲みたくもないのに飲み会に誘われるがまま参加していた時。就職して、職場の先輩にいたずらされた時。学生の頃から好きだった、と言った彼と付き合って、浮気されて、捨てられた時。


 私の青い尾は、青い心で、青い涙で、青い叫びだ。青い尾を何度も切り離した私は、綺麗でも何でもない尾を携えた大人になってしまったのだ。

 それでも私はとかげではない。人間だから、切り離した私の青い尾を惜しいとも思うし、私の尾を喰らった相手を恨めしいとも思ってしまう。

 私は、私の尾は、できればそのままの純粋な、うっとりするような青のままにしておきたかったのだ。


「いつまでも、あの青い尻尾でいて欲しいね」


「それは無理よ、無理。そういう種類なんだから、敵に襲われなくたって大きくなったら茶色くなるでしょ! それよりコンビニ寄ってパフェ買って帰ろう! 運動したら甘いもの食べたくなっちゃった!」


 珍しく父が大口を開けて腹を抱えて笑っていた。つられて笑った私は、ルームミラーで母の表情を盗み見たつもりが、しっかりと目が合った。


 私はにっこり笑った母のご希望通り、パフェが売られているであろうコンビニを目指して車を走らせた。

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切り離した青 緒出塚きえか @odetsuka_kieka6

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