天国が無くなった日

浅見朝志

『天国』の在り方を決める話し合い

「人類創造の日より数えて、再び100年を刻む年となりました。これより今後100年間の『天国』の在り方を決定するため、話し合いを行います」


 と、裁定者である神が言った。

 そこは天井も地面も背景も、全てが雪のような白に包まれる世界。灰色の円卓が一台あり、そしてそれを囲うように神々が着席していた。


 ――ここは、人々が生きる人界とも死後の世界とも異なる場所にある、毎100年ごとに行われる『天国』についての話し合いのためだけに創られた場所である。


 裁定者が傍聴席に座る他の神々を見渡せば、それらの神々は慣れ切った様子で無言のままに頷いた。それもそのはず、この話し合いは1万年も前から繰り返し行われ続けてきたことなのだ。

 神々には、義務があった。

 それは、人界に住む全ての人々に救済の道を用意するということ。

 永く苦しい一生を過ごしてきた人々の、その魂を解放して心安らかな暮らしを『天国』で与えてやらねばならないのだ。


 ――さて、ところで『天国』とはいったい何を指すのかについて説明しよう。

 

 『天国』。それは人界で生きる人々の終着点。いわゆる死後の世界の1つである。

 ここは生前に善い行いをした人々の魂が死後に送られる場所であり、それとは反対に生前に悪い行いをした人々の魂が送られる『地獄』とは対極に位置する場所だ。

 しかし人界の多くの人々が想像するその『天国』の在り方の実態は少し異なった。

 『天国』は複数存在しているのだ。

 裁定者が傍聴席の神々へと向かって口を開く。


「時代によって人々の幸せの形は異なります。1万年前は清潔な洞穴にきれいな水、腐らない食糧、火の点きやすい乾いた薪、温暖な気候、3日に一度の雨を用意するだけで人々はそれを『天国』と喜びました。しかしながらそこから5000年も経つと人々の幸せの水準は高くなり、綺麗な住居に豪奢な衣服、旨い料理・酒、心華やぐ芸術がなければ『天国』とは呼べないと嘆きました。私たちにはそれら全ての人々が幸せと感じる場所を用意してやらねばなりません。だからこそ100年周期で『天国』の在り方を見直すのです。そこが時代に沿った幸福な場所となるように。これまでの100年とは異なる、これからの100年の間に死ぬ人々の行く先になる『天国』を用意するのです」


 神々は頷いた。それはもはや過去100回に上る話し合いの前口上として聞き慣れたものであった。

 神々はそれからただひたすらに黙して待つ。まだ出席者が足りていないのだ。


「来ましたね」と裁定者が自身の対面に位置する空席を見てそう言った。


 円卓を囲う椅子の内、神々が腰かけていないのは裁定者の対面だけだった。

 しかし突然、その空席にポツリと小さく丸い白い光が灯ったかと思うと、その光は瞬く間に上下左右へと広がって人の形を成し始めた。

 そしてしばらくして、


「――ここは……?」


 と、白い光が成した人がそう声を発する。

 今回は男のようだった。それもまだ顔にシワ1つ無い青年だ。眩さに目が慣れないかのように顔をしかめるその青年は、神々が円卓を囲って待っていた『人間代表』である。


「ようこそ、人の子よ」と裁定者は口にする。


 ――この『天国』の在り方を決める話し合い、それを行うのは神々ではない。


 『裁定者』である神1体と『人間代表』に選ばれた人間が1人、この両者のみで行われるのだ。

 しかし、白い光から突然に発生した青年はまだ自分が置かれた状況がわからないのだろう、混乱したように忙しなく辺りを見渡すばかりである。

 そんな光景も見慣れたものだ、と裁定者は青年に対して再び声をかけた。


「ようこそ、人の子。ここは死後の世界の一歩手前です。私たち神はあなたがこれから行く先にあなたの思う『天国』を創造します。さあ、お聞かせなさい。あなたにとっての死後の幸福とは何かを」

「神……? 死後……? ああそうか……僕はとうとう、死んだのですね……」

「ええ。あなたは人界で死にました。幼いながらに両親を亡くし、貧しいながらも信仰深く真摯に生き、しかしその真面目な性分を親友に裏切られ、投獄され、警吏に酷い暴力を受け、解放された後も不自由な体を引きずって行く宛もなく、それでも善行を成そうと生きたあなたを多くの人々が無視し時には嗤い、最後は若者の気まぐれな遊びによって路地裏で蹴り殺されたのです。神である私はそんな過酷で残酷な人生を送ったあなたならば、人々が心の奥底から真に求める幸せを知ることができると考え、ここに呼ぶことにしました。あなたが思う死後の幸福を元にして、万人にとっての『天国』を創るためにです。だから、お聞かせなさい。あなたが死後に求める人としての幸せとは何ですか? どのような世界で暮らしたいのですか?」

「……あなたが、神様」

「そうです、私が神です」

「そしてあなたたちが僕の意見を聞いて死後の世界を創る?」

「そうです、私たちがあなたの求める幸せ全てを内包した世界を創造します」

「それが、『天国』と呼ばれるものですか」

「その通りです」


 青年は何を聞かれているかをようやく呑み込むことができたようで、裁定者の言葉に理解を示したように頷くと、それから視線を上に外して、しばらくの間何もない真っ白な天井を仰いだ。


「悩んでいるのですか。無理もないでしょう。あなたは人界という場所で仮初めの幸福すら知らないで過ごした人間です。しかしだからこそ、あなたの心の底からの無垢な願いが万人の幸福に繋がるのではないでしょうか。生まれたばかりで何物にも染まらない人の子が、誰が教えるわけでもなく息を吸っては吐くような、誰が教えるわけでもなく母の乳を求めるような、そんな自然の摂理と同じように。幸せという染みのないあなたの心が吐き出した願いこそが幸福の摂理ではないかと、私は思うのです」


 裁定者の言葉に、青年は天井を見上げていた視線を円卓へと戻した。その目には少し驚いたような感情が浮かんでいる。


「僕の心が吐き出した願いが……幸福の摂理……?」

「ええ、私はそう思っています」

「それが例えどんな願いであったとしてもですか?」

「ええ、私はそう思っています」


 青年はぐるりと円卓を囲う神々を見渡して、それから今一度裁定者を見ると意を決したように口を開いた。


「僕は『天国』になど行きたくはないのですが」


 青年のその言葉に、裁定者は、そして円卓の神々はざわめいた。


「『天国』に行きたくないとはどういうことですか?」

「僕の願いはただ1つ。僕という存在を、僕が僕であると認識できる自我ごとこの世から消し去って欲しい、それだけなのです」


 再び円卓はざわめいた。傍聴席の神々が互いに驚き合って言葉を交わしている。

 裁定者はそれに参加することはせず、青年に対してさらに問いを重ねた。


「存在を消して欲しいと願う発端にあるのは、生前に経験した辛く苦しい残酷な一生ですね? それが原因であなたは人界の世に希望を見出せなくなった」

「ええ。きっとそうだと思います」

「それはとても悲しいことです。しかし、人の子よ。人界とは異なり、『天国』にはあなたの思う幸せしか存在しないのです。これからは辛さも苦しみも一切ありません。あなたの期待を裏切るものも一切ありません。それでもなお、あなたはあなたという存在を消して欲しいと願うのですか?」

「ええ。願います」


 もはや円卓に静寂は訪れないようだった。

 傍聴席の神々はより騒がしさを増して青年の願いに関する意見を述べ合っている。

 しかし、彼らが裁定者と人間代表の青年の議論に加わることはなかった。

 それは『裁定者と人間代表の話し合いに割って入ってはならない』という規則で禁じられている行為なのだ。

 どうしてそのような規則ができたのかといえば、それは神々たちの強すぎる自己主張性と強さが原因だ。

 彼ら1対1体がそれぞれに決定権を持って話し合いに参加してしまい意見が異なってしまえば、最悪その場で世界を巻き込んだ殺し合いが始まってしまう。

 それは終末戦争――<ラグナログ>――の引き金になりかねない。いや、すでに1度それが起こっているのだ。

 だからこそ、2度とそのような過ちを犯さないためにも1度の話し合いで人間代表と直接に言葉を交わし、結論を出すことができる『裁定者』役の神は1体だけ。それを持ち回りで担当するという規則ができた。

 ではなぜ裁定者以外の神々がこの円卓を囲んでいるのかといえば、それはただの好奇心に過ぎない。

 神々にとって人の子とは救済すべき対象であると同時に、とてもよい暇つぶしの玩具のようなもの。そんな玩具が100年に1度、直接自身たちの目の前に来る機会は彼らにとって逃せない重要なイベントとなっているのだ。

 しかし、そうやって幾度も行われてきたこの話し合いで『自分という存在を消し去って欲しい』と願う人間はこれまで1人もいなかった。

 神々の興味は尽きず、傍聴席の議論は熱を上げて止まない。


「私には理解できません、人の子よ」と、しかし裁定者だけは取り乱すこともなく、努めて冷静に青年を見つめている。


「苦しさも、辛さも『ない』というのは真の意味においての『無い』なのです。『天国』においては、あなたたちは他者によってもたらされる苦しみもなければ、そこで過ごす果ての無い時間を辛く思うこともありません。そういう場所なのです、『天国』とは。それでもなお、あなたの意見は変わりませんか?」

「ええ、変わりません」

「それはいったい、どうしてなのでしょうか?」


 青年は自身に向けられる裁定者の瞳をまっすぐに見返して、口を開く。


「『記憶』が存在するからです」

「『記憶』?」


 言われた言葉をオウム返しにする裁定者へと青年は頷いてその通りだと示した。


「僕に苦しみや辛さを与えるのは他者や時間ばかりではありません。僕自身が抱えている人界での記憶が、僕のことを苛み続けるでしょう。いくら『天国』が僕にとって優し過ぎる世界であったとしても、過去に起こった出来事を無かったことにはできないのです。僕は人界での記憶をよみがえらせては苦しみ続けるでしょう」

「……つまり、記憶がある限りあなたは幸せになることができないと、そういうことでしょうか?」

「その通りです」

「そうですか、わかりました」


 裁定者は青年の言葉を丸々受け入れるように深く首肯すると、間髪入れずに「ではこのようにしましょう」と青年に言った。


「記憶を無くしてしまいましょう。あなたの抱える全ての記憶を消し去ってしまえば、過去の出来事があなたを苛むことはなくなるでしょう」

「私の記憶を、全て無くすのですか?」

「そうです。幸福な記憶も不幸な記憶も、全てです。人界において幸福と不幸は合わせて1枚の絵となる、パズルのピースのようなものですから。幸福な記憶だけを残してしまっていては、あなたはその記憶の形から不幸の形を想像できてしまいます。そんなことが起き得ないように、あなたの記憶を全て無くすのです。どうでしょうか、それでもなお、あなたはあなたという存在を消して欲しいと願いますか?」

「ええ、願います」


 これもまた間髪入れずに答えを返した青年に対して、裁定者は少し困ったような表情を浮かべ、「どうしてなのでしょうか?」と問いかける。


「記憶の無い者に幸福を認知することはできないからです」

「……幸福を認知できない、とは?」


 裁定者の疑問に、青年は一呼吸置いてから言葉を続けた。


「記憶とは人間が一生をかけて培った『経験』です。果たして何事の経験も無い人間に幸福とは何かが理解できるのでしょうか? いえ、きっとできません。それは例えば自転車を自在に乗り回せるようになった時の幸せと同じで、その幸福は自転車に乗れなかったという経験があるからこそ感じるもの。自転車に乗れなかった経験の無い者には無い幸福であり、また幾度となく失敗を繰り返すなどして自転車に乗れなかった経験のある者にとっては大きな幸福となるものです。経験とはあらゆる物事を相対的に判断するための尺度であり、これがあるからそ僕たち人間は、今自分が置かれている状況が幸福なものなのかどうかを判断することができるのです」

「……つまり、経験が無ければ、幸福なものとして与えられた状況を幸福なものだと理解して甘受することができないと、そういうことでしょうか?」

「その通りです」

「そうですか、わかりました」


 裁定者は1度言葉を区切ると、少し考えるように顔に手を添えてから、思いついたようにして言葉を続けた。


「それでは記憶を無くしたあなたの魂に、幸福という『概念』を持たせるのはどうでしょうか」

「『概念』、ですか?」

「ええ、そうです。『あなたが幸福であるという概念』をあなたの魂に持たせてしまうのです」と裁定者はにこやかな表情を浮かべる。「これならあなたの側に幸福の判断基準となる『経験』は必要なくなります。なぜならあなたの魂そのものが、あなたが幸福であると証明するものとなるのですから。あなたは存在するだけで幸福となるのです」


 裁定者はこれは良い案だと納得するように自ら頷いて見せる。円卓からも、おおっ! とそれを称えるように神々の声が湧きたった。

 『概念』とは物事の本質をとらえる物のこと。例えばAという意味をもつ事柄に対して『直感的にAという意味をもつ事柄である』と理解できるようになるための符号である。

 つまり『青年が幸福であるという概念』を青年の魂の内側に持つということは、『青年が幸福である』事実と限りなく等しいことなのだ。


「人の子よ、どうでしょうか? それでもなお、あなたはあなたという存在を消して欲しいと願いますか?」


 裁定者も傍聴席の神々も一様に、この提案ならば納得するだろうといった視線を青年へと向けた。

 彼らはこの時、人々を完全に救済する方法を見つけたとさえ思っていた。

 なにせ『幸福であるという概念』さえ持たせてしまえば、これからは時代ごとに変化していく幸福の在り方を定義する必要がなく、またその多様性に対応するためにいくつもの『天国』を作る必要もなくなるのだ。

 時代を超えた人々が唯一の『天国』において、こちらで調整するまでもなく、それぞれが『幸福であるという概念』に沿って自分の状況を幸福だと感じて暮らしてくれる。

 それはまさしく『理想郷』なのではないだろうか、神々はその想いを各々の胸に抱き青年を見る。

 しかし神々の予想に反し、青年は困ったような瞳で裁定者を見て、言った。


「冗談はしてください、神様」


 青年の言葉に、とうとう裁定者の笑顔が固まった。


「……冗談、とは?」

「記憶を無くした僕の魂に『僕が幸福であるという概念』を持たせるということです」

「なぜ、それを冗談と感じたのですか?」


 困惑の様子を見せる裁定者へと青年は一言、


「それで幸福になるものはもはや『僕』ではありません。『概念』が僕の魂の抜け殻を被って歩くだけではないですか」とそう言った。


「自身の記憶を無くし、幸福だけを感じる僕の魂はもはや『僕』とは異なります。ヤドカリとまるで同じです。死んだ貝の貝殻に巣食ったヤドカリはもはや貝ではないでしょう? ならば同じく、記憶を失った僕の魂という名の貝殻、そこへと入れられた概念ヤドカリを決して『僕』とは言えないでしょう」


 青年の言葉を受けて、円卓に、もはや戻ることはないと思われた静寂が再びやってくる。

 裁定者は一拍置いて口を開いた。


「……あなたは記憶が有っては幸福になれず、記憶が無くても幸福になれず、幸福という概念を与えられてもそれが自身であると言い切れず、つまりどうあっても幸福にはなれないと、そういうことでしょうか?」

「ええ……。いや、いいえ。それは少し違います」

「……どういうことでしょうか? あなたは度重なる幸福となるための案に対して、それでは幸福にはなれないのだと言葉にしてきました。あなたはあなたという存在を消して欲しいと願うばかりであり、私にはあなたが幸福になるための手段がどこにも見出せないのですが」


 困り果てる裁定者に対して、青年は人差し指を1本立てて答える。


「僕が幸福になるための手段は、すでに1番最初に申し上げています」

「それは、もしかして」

「はい。僕という存在を、僕が僕であると認識できる自我ごとこの世から消し去ってもらうこと。それだけなのです」


 裁定者は首を横に振った。


「私にはわかりません、人の子よ。存在を消すとは同時に、幸福も、不幸も、記憶も、何もかもが全て無くなるということを示すのですよ? 『無』となること、それは幸福の在り方とはまるで異なるように思うのですが」


 むしろそれは不幸なことである、そう言いたげに裁定者は青年を見つめる。

 しかし青年は、


「『無』だからよいのです」と、それを愛しむように目を細めて答えた。


「僕は常々、息を引き取った時点で全てを終わりにして欲しいと思っていました。その先は要らない。人生には終止符が必要だと思うのです。死の瞬間、幸福な人生であったならば、この先に不幸はないのだと心安らかに目を瞑れます。不幸な人生であったとしても、この先にこれ以上の不幸はないのだと安心して生を手放せます。不安が無くなるという一点において、その瞬間は全ての人々が幸福になるのです。死んだ先が無いということ、それ自体が救いとなることも確かにあるのだと私は思います」

「死んだ先が無いということ自体が、救い……ですか」


 裁定者は深く息を吐くと、言葉を続ける。


「それでは私たち神々による死後の救済――つまり『天国』は必要ないということでしょうか」

「ええ、その通りです。僕たちは恐らく勝手に生きて勝手に死んで、そして勝手に救われるのです」

「……本当によいのですか? 存在が消え『無』となれば、あなたは今度こそ全てを失うのです。そこには幸福や不幸や記憶や自我だけではない、論理も哲学も美学も何もありません。あなたという存在が映す1つの世界が終わりを告げるのです」


 まるでためらいもなく言い切った青年に対して裁定者は念を押すが、青年はすがすがしいまでの表情で頷いた。


「はい。終わってよいのです。それが一番自然できれいだと思うのです。僕は、人生はオーケストラのようなものだと思っています。終わりのないオーケストラをいったい誰が喜ぶというのでしょうか。楽しい曲も、悲しい曲も、譜面に絶対的な終止符があるからこそ、それらを1つの完成された曲として美しいと受け止めることができるのです」

「……そうですか、わかりました」


 裁定者は1つ頷いた後、ぐるりと傍聴席を見渡した。

 神々による議論の声はすでにその鳴りを潜め、円卓は静けさに包まれている。

 裁定者が、どこからか取り出したのか木槌を手に掲げ、間隔を置いて7度、円卓へと打ち付けて高らかな音を鳴らした。

 その残響が完全にその真っ白な世界へと溶け込むと、裁定者は青年を見据えたままに、この円卓に集う全ての者たちへと伝えるように口を開いた。


「裁定者と人間代表による今後100年の『天国』の在り方についての話し合いに結論が出されました。『天国』は無くなります。今後100年間における人界のものたちの魂は『無』へと還すことに決まりました。人界における死者の救済は、その死の瞬間に訪れる一瞬の安寧を以って行われることとします」


 拍手は起こらなかった。これまでただの一度も、そのような事態は無かった。

 しかし青年はとても嬉しそうな表情で目を瞑る。

 この話し合いに初めて参加した彼にとっては、拍手の起こらなかったことが良いことなのか悪いことなのかの判断基準がないのだから、当然のことだった。

 彼はただ、この先が『無』であることに喜びを感じているだけだ。

 そしてそのまま青年は円卓に現れた時のように再び光に包まれて、消えていった。

 今まで青年の座っていた座席には『無』だけが残った。


「――それでは今回の話し合いはここまでとします。傍聴席の神々の皆さま、それではまた100年後に……」


 裁定者はそう言い残すとどこへともなく消えていく。

 他の神々もまた同じようにその姿を消して、最後にそこに残されたのは灰色の円卓だけだった。


 ――こうして人界における西暦2000年から2099年の間、善行を為した人々の行く先は『無』となったのである。

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