風をきく日

小野木 もと果

風をきく日

『風をきくんだ。耳を澄まして、集中して』



 風が吹くと僕は、そんな言葉と共に、じいちゃんを思い出す。

 僕のじいちゃんはいつも粉まみれだった。分厚い手のひらも作業着も、何もかもが。

 父はじいちゃんの家業を継がなかった。商社マンの父の手は当たり前のように粉まみれじゃなかった。


 小さい頃は、不思議に思ったものだ。

 同じ大人というくくりのふたりが、なぜこんなにも違うのか。


 小学五年生の息子が反抗期を迎えたとき、さじを投げた父は、休日は自由にじいちゃんのところに行っていいという決まりを作った。僕がじいちゃんになついた理由──それは分かりやすいものだった。


 当時の家は息苦しかった。毎日やることがたくさんあって、とにかく忙しい。そんな我が家と違って、じいちゃんの家は自由そのものだった。

 JRから私鉄に乗り継いで一時間とちょっと電車に乗るだけで、僕の身体はぐんと軽くなった。


 じいちゃんの家は、その辺りではちょっと有名な "武蔵野うどん処" という名のうどん屋で、じいちゃんはその三代目だった。

 初老のふたりだけで切り盛りしている小さな店だ。だけど、休日ともなればお客さんでいっぱいになる。


 麺打ちが主に僕が手伝えることだったけど、たまに注文を受けることもあった。それが出来たのは、うどん処のメニューは肉汁うどんのみだったからだ。

 じいちゃんたちが作るうどんは、麺をだし汁につけるものだった。肉と名前に入ってるけど、それだけじゃなく、ネギや油揚──とにかく具だくさんで、それは美味しいうどんだった。

 いわゆる、僕のお袋の味だ。


 定位置である麺ののし板・・・の前にいるじいちゃんは、頑固親父そのものだったけど実際はそうでもなかった。飲んべえ風の顔つきなのに、実は酒が一滴も飲めなかったり。


 色々なことがあべこべなじいちゃんには、ちょっと変わった特技があった。



『じいちゃん、今日の風はどう?』



 夕食のとき、僕のために用意された唐揚げを頬張りながら、そう問いかけた。

 本当は肉汁うどんがいいって思ってたけど、ばあちゃんは毎週、僕が好きそうなメニューを作ってくれた。



『どれ』



 呟いたじいちゃんは開け放った窓から身を乗り出して、目を閉じる。

 この会話は、毎週お馴染みだった。



『まずまず、だな』


『まずまず、かぁ』



 少し前に凧あげを教えてもらってからというもの、僕は毎週、凧あげにぴったりの風を欲していた。

 じいちゃんは、風ききと凧あげの名人だった。



『じゃあ今日は凧あげられないね。そろそろ帰らなきゃ』



 がっかりしてぼやくと、じいちゃんはニヤッと笑った。



『分からんぞ、風の小僧は気紛れだ』


『風って小僧なの?』


『女の子って感じはしないじゃないか。だって妖怪だぞ』


『そっか、風って妖怪なんだっけ』



 "風は妖怪が作っているのかもしれないぞ"という言葉は、じいちゃんの口からよく聞いていた。

 有名なアニメ"となりのトトロ"の劇中でネコバスが森を駆け抜けたとき、主人公のサツキが似たようなことを言っていたのを僕は知っていた。

 じいちゃんがその話をするたびに"それってネコバスじゃ?"って思っていたけど、それは言えず終いだった。


 あの言葉には、そこまで深い意味はなかったのかもしれない。

 だけど、あの"トトロ"は、じいちゃんの家辺り一帯が舞台だから、思い入れを持っている、ということを父から聞いていたから、得意げに話すじいちゃんに冷めたこと言って悲しませたくなかった。

 当時、既に父には減らず口を利いていたのに、じいちゃんは特別だった。



『昼間付き合ってやれたらいいんだがな』


『いいよ別に。僕、いつでも来られるもん』


孝史たかしは、妙に聞き分けがいいな。よし、だめでもいいから電車の時間まで──行くか?』



 その言葉は、僕が待っていた合図だった。

 慌てて残りのご飯を口にかき込むと、荷物の詰まったリュックを掴んで、僕は駆けだした。


 じいちゃんの軽トラックに乗って、近所の湖に向かった。湖といっても、それはダム湖で人間が作った水がめだ。

 そんなことなど知らない僕は、ずっと天然の湖だと疑いもしなかった。周りに緑もたくさんあって、僕にとってはそれが自然だったからだ。


 辺りには夕焼けがいっぱいに広がっていた。

 じいちゃんはトラックの荷台から、お手製のヤッコさん凧を取り出した。じいちゃんは凧も作れた。

 僕の家は今も昔もなかなか凧などあげづらい住宅密集地だ。だからそれはとても珍しく、かっこよく見えた。


 ああして凧をあげるのは何度目だったろうか。

 いくらやっても、ヤッコさんは墜落するばかりだった。失敗し続ける僕に、じいちゃんは優しく教えてくれた。



 あがっているかを気にする前に、とにかく走れ。

 風をきけ、と。



 最初は何を言っているのか分からなかった。

 でも、じいちゃんと一緒に遊歩道を走る度に、少しずつそれが理解出来るようになっていた。



『孝史! 今だ、走れ!!』



 薄暗い中、僕はがむしゃらに走って、走って──走った。

 遠くからじいちゃんの『もういいぞー』という声が聞こえて振り返ると、凧は空高く昇って、気持ちよさそうに空を泳いでいた。はっきりは見えなかったけど、街灯がかなり明るかったからシルエットだけは見えたんだ。



 大したことじゃなかった。

 ただ、凧が空にあがっただけだ。



 でも僕は嬉しかった。気が付いたときには、目にたくさんの涙が溜まっていた。

 未だに、なぜあんなことで泣いてしまったのか、分からないでいる。


 じいちゃんはびっくりしたように僕の顔を見ていたけど、すぐに大声で笑った。

 『泣いてる暇はないぞ! 落っこちまうよ』と言って、うつむいた僕の手ごと糸を引っ張った。


 じいちゃんの凧は、ずっと空を飛んでいるような気がした。ずっとこうしていたい、そんな気持ちになってしまったんだ。だから僕は『帰りたくない』とごねてしまった。

 困ったようになだめられてしまっては、黙って軽トラックの助手席に乗り込むしかなかった。


 湖から駅までの間、僕たちはしばらく無言だった。

 突然に泣いてしまったりして、一体何を話したらいいのか分からなくなってしまったんだ。

 本当に憂鬱ゆううつな気分で本当に帰りたくなかった。

 誰が悪いわけでもなく、そう思ってしまうのが辛かった。



『すごかったなあ。頑張ったから、綺麗にあがったじゃないか』



 下を向いていたら、じいちゃんが声をかけてくれた。

 でも心がちくちくしていた僕は『すごくなんかない』と言ってしまった。



『じいちゃん。……僕ってさ、父さんみたいに勉強出来なくて』


『うぅん?』



 唐突に言い始めてしまったら止められなくなった僕の口から、スルスルと愚痴がこぼれた。

 愚痴というよりは自分への文句だったのかもしれない。



『毎日、何だかすっごく、嫌な気持ちになっちゃうんだ。全然、誰とも喋りたくないって思っちゃう。だけど、じいちゃんち来ると楽しくて。帰りたくないって思う』



 言い切ってしまってから、恐る恐る顔を上げた。

 じいちゃんは、そんな僕と目が合うとにっこりと笑った。



『いいことを教えてやろう。父さんはそんなに利口じゃなかったぞ、おまえくらいのときはな。……じいちゃんが言ったって秘密だぞ?』


『ほんとに? 頭良かったんじゃないの?』


『生まれつき頭のいい人間なんて、ほんの一握りだよ。そういうもんだ。そんなことはな、気にすることはない。父さんは、ただ頑張っただけでな。結果が出るのは人によってタイミングが違うってことだ。孝史が劣っているってわけではない』


『おとってる……って?』


『特別にダメなやつじゃないってことさ』



 僕がリュックをぎゅっと抱えていると、じいちゃんは続けて言った。



『あと、家族が嫌っていうのは誰にでもあることだ。じいちゃんだって家の障子を全部破ったことがあったぞ。無性に腹が立ってな。孝史は偉いじゃないか、そういう話は父さんから聞いてないぞ? 偉すぎるくらいだ』


『うん……』


『いつでもうちに来なさい。学校を休んだっていい。その代わり、夏休みにちゃんと勉強する。そう思えばいい。夏休みの前借りだ。じいちゃんから父さんに言っといてやろう』



 僕を駅で降ろすと、じいちゃんは改札まで来て、ずっと手を振ってくれていた。

 帰りの電車の中で、もらった言葉を噛み締めた。



"いつだって来ていい。夏休みの前借りだ"

 


 その言葉は僕の支えになった。

 何だか気が楽になって、少しずつ素直に話せるようになっていった。当たり前の"僕の生活"が戻ってきたような。


 そしていつの間にか、じいちゃんの家に遊びに行くことが減っていった。

 高校生になった今、もっと遊びに行けばよかったって思っている。もっと教えて欲しいことがあった。


 じいちゃんは去年の夏、急に死んでしまった。心臓発作だった。

 四十九日の法要のとき、やつれたばあちゃんの姿を見た僕は、ずっと心の奥底にあった想いを父にぶつけた。



「武蔵野うどん処を継ぎたい」



 父は腰を抜かしていた。突然すぎたかもしれない。

 でも僕にとって、それは突然ではなかった。ずっと、そうなったらいいなと思っていたんだ。


 いつだって会えるはずだった。

 このテストが終わったら、部活の大会が終わったら、じいちゃんに会いに行こう──そうやって、どんどん先送りにしていたんだ。

 それは僕の幼さだったんだろう。ひとは必ず死んでしまうんだから。"また"なんて存在しないんだから。



 一通り驚き終わった父が、なぜ店を継がなかったのかを静かに話始めた。

 『こんな苦労する仕事、やらなくていい』と強く言われて断念したと。


 じいちゃんに言ったら、やっぱり反対するのだろうか。

 でも、一時だったとしても、店を手伝った日々を僕は消したくなかった。きっと大変なことしかないはずだ。

 それでも僕はじいちゃんの店を絶やしたくなかった。



 僕は今、じいちゃんと凧あげをした湖に来ている。

 風をきいていると、じいちゃんがすぐそこにいるような気がしてきて、呟いた。



「頑張るからさ」



 強い風が、湖上を吹き抜けていった。

 僕の背中を押すように。

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風をきく日 小野木 もと果 @motoko_kanbara

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