思いの雫とバスタイム その2

「ふにゃぁ~…お風呂気持ちいい…。フィユ、お湯熱くない?」


「う、うん……あったかくてちょうどいい…。」



バスタブの縁で組んだ腕に、ユナはそのふやけた表情を乗せてくつろいでいる。

湯船の中央に膝を抱えて座るフィユも、先程より緊張のほぐれた表情を浮かべていた。…ちらりと『少年』が視線を向ければ、また真っ赤になってその顔を俯かせてしまうけれど。

恥ずかしがっているのか、あるいはまだ怖がられているのか。

…そんな二人を見ながら、ユナだけはどこか楽しそうに笑っている気がした。



「きみも身体洗って、早く入っちゃいなよ……って、どうかした?」


「…別に。ユナはいつも楽しそうだなって、思っただけだ。」



腕枕に頬を付けたままのユナを一瞥し、『少年』はバスチェアに座った身体を回転させる。

ユナに教えられた通り、ホースから繋がる蛇口を捻ると、頭上のノズルから雨のようにシャワーが降り注いだ。

水だけど、温かい。それが身体に軽く打ちつけられる。不思議な感覚だった。


『少年』の言葉に、ユナは一瞬ぱちくりと目を瞬かせ、すぐににっ、といつもの笑みを浮かべる。



「へへへ、まあねー。同じ時間なら、楽しく笑えてた方が良いもん。だから好きなこと、やりたいようにやろうって決めてるんだ。」


「…だからって、ちょっといたずらが多すぎるよ…ユナお兄ちゃんは…。」


「えへへー。」



小さな声でそう言い、フィユが頬を膨らませるのが見えた。

…口ぶりからして、ユナの悪戯は日常茶飯事なのだろう。当の本人は大して気にせず、楽しげに尻尾を振っている有り様だが。



ただ。

…少しだけ、羨ましいと思った。


ユナの言う「楽しい」を、『少年』は経験したことがない。

『少年』にとっての"生きる"は、文字通り自分の命を繋ぎ続ける、終わりのない労働に等しかった。

明日の朝を無事に迎えるため、歩き、命を喰らい、眠る。その繰り返しを積み上げ続けるだけのことが、『少年』にとっての"生きる"ことだったから。


生きることそのものに意味を見出だせないまま、生きるための作業を続けていた。

そんな自分とは違う。――この屋敷に住む彼らを見ていると、そう思えた。





「……俺も、そんな風に生きられたらな…。」




気づけば、そんな言葉を呟いていた。

無意識に紡がれた言葉が音に変わり、耳に届き、自分の気持ちに気づかされる。


初めてユナとフィユを見かけたとき。…ユナが、悪戯をしてフィユに怒られていたとき。

あの時目を離せなかったのは―――自分が憧れてたものがそこにあったから、なんだろう。


誰かが、隣で笑ってくれるのでもいい。


誰かに、怒られるのでもいい。


…ただ、誰かと一緒に生きられたら。

毎日を『楽しい』と思えるのかもしれない。



――自分が、ずっと欲しかったもの。

気づいてみれば、"それ"は笑ってしまうくらい単純で、ありきたりなものだった。



……………

………



体に打ちつける水音の中へ、零れた本音が溶けていく。

ユナはその言葉に、薄闇を一滴垂らしたような『少年』の瞳に、きょとんとして首を傾げていた。



「…きみだって、好きなように生きていいんじゃない?に何があったかは知らないけど、今のきみは自由だよ。」


「……ああ、分かってる…つもりだ。……けど。」





ユナの言う通りだ。

望んだ生き方があるなら、その通りに生きればいい。…本当はたったそれだけのこと、なんだろう。


…それでも。

自分の気持ちに気づいても。

味方でいたいと言ってくれたクートの言葉があっても。





「…今さら生き方を変えられないって、どこかで思うのを止められないんだ。」



…それでも何かが、『少年』を踏み留まらせていた。

絶え間無い水音を縫うように、ぽつぽつと零れる『少年』の言葉を、ユナとフィユの獣耳が拾っていた。



「誰かの隣にいたいはずなのに、俺は…俺を知られることを恐れてる。弱い自分を、自分も知らない自分を…誰かに見られるのが………怖い。」



ずっと、誰の手も借りずに生きてきた。

ずっと、全てを自分の中だけで完結させてきた。


どんな感情も飲み込んで、押し殺して…そうして消化していく生き方しか、『少年』は知らない。

けれど誰かと共に生きていくとしたら……そんな感情も晒していくことになるのだろう。


感情を、弱い自分を、誰にも見せてこなかった自分を知られた時に、自分はどうなるのか…『少年』自身にも、それは分からなかった。

ただ、自分の"何か"が大きく変わってしまう予感だけがあって…


変わるのが怖い。

変わりたくない。

変われない。

そう思うことが止められなかった。


だから留まろうとしている。慣れてしまった孤独に。

…本当は、望んでなどいない生き方に。




止めどなくシャワーが打ちつけ続ける。

長い黒髪が水を吸い、重くなってゆく――。







ぎゅっ、と自分の手を柔らかい何かが包む感覚がして、『少年』はシャワーの中ではっと顔を上げた。

自分の手の甲を、一回り小さな手のひらが握っている。



「………フィユ?」



手の主の名前が、口から零れる。

視線の先のフィユは俯いたまま。それでも、その小さな手には確かな力が込められていた。


自分を避けるようだったフィユの行動に『少年』が驚いている中で、フィユが小さなその口を開く。




「…お兄さんの気持ち、ちょっとだけ分かります。…ボクも、同じだったから。」



ユナやクートと話す時よりも固い、緊張した声なのは変わらない。けれど湯船の中から伸ばした手は、『少年』にフィユの温度を伝えてくる。雫のように、思いが静かに伝ってくる。



「姿も、生きてる場所も変わってたのに……それでも心は昔のまま、変われなくて…。周りのものぜんぶが怖くて、誰も信じられなくて、…苦しいのに、勇気が無くてなにも出来ないままで…。…ここに来たばっかりの時、ボクもずっとそうでした。」



…俯くフィユが、どんな表情をしているのかは分からない。

握られた自分の手を、俯いたままのフィユを見つめながら、シャワーに濡れたままの『少年』はただ呆気にとられていた。

フィユも自分のように、変わることを恐れていた時があったことにも。……そしてそれ以上に、フィユにも抱えて生きなければならない"痛み"があったことに。


ずっと、普通の少年だと思っていた。自分のように痛みを抱えていたようになんて、見えなかった。

誰も信じられなくなるほどの恐怖…ヒトになる以前、フィユは一体何を経験していたのだろう。



はっとして、ユナの方を見る。

…聞き耳だけは立てながらも、壁に背を預け、フィユからも『少年』からも逸らされた視線は、湯船の水面を漂っていた。

…ああ、そうか。と『少年』は理解する。




(俺だけじゃなかった。)


(フィユもユナも……ずっと、痛みこれと一緒に生きてたんだ。)







「…でも」



ぽつりと、フィユの呟く声が響いて。

『少年』もユナも、同時に獣耳がぴく、と動く。

静かに切り出したフィユの声はとても穏やかで―――




「ご主人さんも、お兄ちゃんたちも、ずっと隣に居てくれたんです。…踏み出すのに、すごくすごく時間がかかっちゃっても、少しずつしか変われなくても…それでもいいんだよって。ずっと、暖かいままでいてくれて…だから、ボクも頑張りたいって思えたんです。」




――不意に『少年』へ向けられたその表情は、初めて見るほどに曇りのない、笑顔だった。

…恥ずかしがってたり、怖がられてばかりだったけど。



(…こんな風にも、笑えたんだな。)



少しだけ驚いた表情で『少年』が見つめていると、フィユは突然我に返ったように頬を真っ赤に染め始めた。

さっきまでが嘘のように慌てた表情になり、何かを喋ろうとしては止まり、結局湯船の中で丸まるように膝を抱えた姿勢に戻ってしまう。



「だ、だから…きっとお兄さんも……大丈夫になれるはずだから………うぅ…。」



慌ただしく表情の変わっていくフィユに、『少年』はただただきょとんとしてばかりだった。…ただ、少しだけ肩の荷が、気負っていたものが落ちてゆくような気がした。




「…フィユ。」



そっと呼び掛けた声に、フィユが振り返るより早く。

その白髪の頭を、手のひらが包んでいた。

さらさらの髪に沿うように、フィユを優しく撫でながら――ユナは、悪戯の時とは違う笑顔を見せていた。


少しそわそわしたように、けれどとても嬉しそうに、フィユは赤らめた頬のままで微笑んでいる。

そのまま、ユナは『少年』へと視線を向けた。




「もし、素直になりたい気持ちがあるならさ。……信じてみなよ。相手のことも…自分のことも。」


「……それで、変われるのか…?」




『少年』の問いに、にっ、と歯を見せてユナは笑う。



「大丈夫。…僕だって、変われたんだからさ。」



何かを思い出しているような、遠い目を細めながらユナはそう言う。

信じること。…相手を、自分を。

ユナからの短いアドバイスを、『少年』は胸の中で反芻する。


最後にぽんぽん、とフィユを優しく叩き、ユナは軽やかに湯船から出た。



「さてと……えいっ。」


「わっ…。」



…不意にユナが後ろから手を伸ばし、驚いた『少年』は思わず声を出してしまう。

ユナはそのまま蛇口を捻り、『少年』を打ち続けていたシャワーを止めた。



「ずっとシャワー浴びっぱなしだったから不思議に思ってたけど…きみ、この後何するか分かってない?」



ユナの問いに、『少年』は不思議そうに首を傾げる。

…この後も何も、水浴びをしたかっただけだからな、と返すと、ユナは苦笑いを浮かべていた。



「まあ、知らなくて当然か…しょうがない。」



苦笑をそのまま『少年』への笑顔に変えながら、ユナはバスチェアに座った『少年』の目線に腰を屈める。



「今日は、僕が洗ってあげるよ。」





ーーーーー

ーーー




「髪の毛、どんな感じ?」


「なんか…さらさらしてて不思議だな。」


「ユナお兄ちゃん、髪の毛のお手入れ上手だよね…。」


「へへん、まあねー。…で、きみはお風呂入らなくて本当によかったの?」


「ああ。…別にいい。」


「……湯船が怖かった、とか?」


「……元から、体を流したいだけだったから。」


「え~?ほんとかなぁ?」


「…ニヤニヤするな。」



ほかほかと湯気を立たせながら、風呂上がりの三人は交代で頭を乾かしていた。

ユナとフィユはパジャマのワンピースに、『少年』は女性に貰ったパーカーに再び袖を通す。

その時、脱衣室の扉がそっと開かれ、栗色の頭がひょっこりと覗いてきた。



「あれっ、みんなお風呂入ってたの?」


「クート…起きたのか。」


「あはは…いつの間に寝ちゃってたんだね、オレ。」




少し寝癖のついた頭で、クートは照れ笑いを浮かべる。

『少年』の後ろから、髪を乾かし終えたユナとフィユも身を乗り出してきた。



「クーくん、お風呂入りに来たの?」


「ううん、皆を探してた。皆で遊びたいなって思ってさ。」


「…! ボクも遊びたい!」



クートの提案に、フィユが瞳を輝かせる。ユナも、内心満更ではなさそうに微笑んでいた。



「きみも…一緒にどう?」



クートが『少年』にも声をかける。

今なら、その提案を受けることも出来たのかもしれない。…けれど。



「…悪い。少し考え事がしたいから。」


「……そっか。…うん、分かった。」



ここに来てから、色々なことがあった。

その中で少しずつ変化していく、自分の気持ちを整理する時間が欲しかった。

…たぶん、その答えも予想していたのだろう。仕方ないことだと理解しつつもしゅん、とクートは視線を落とす。




「でも…ありがとな。」




…不器用に、紡ぎだした言葉に。

クートも、ユナも、フィユも、驚いたように目を見開いた。

…柄じゃないのは『少年』が一番分かっていたけれど。

そんなに驚かれるとさすがに羞恥心が芽生えてくる。

少し頬が赤くなるのを実感しながら、思わず顔を背けた『少年』を見つめ――



「うんっ、また後でな!」




――クートは、爛漫な笑顔でそう答えた。



ーーーーー

ーーー



リビングの、大きなガラス窓から覗く外の景色。

とうに陽が暮れた後の世界は、夜の黒と降り積もった雪の白に包まれている。

…屋敷の立つ丘の下、遠くには街の灯りが小さく灯っているのが見えた。


灰の空は僅かに晴れ、月が白色の光を地表へと垂らす。雪が落ち着き、景色が静かなモノクロへと移ろってゆくのを、『少年』は琥珀色の瞳で眺め続けていた。






「電気、つけなくて平気ですか?」



不意にかけられた声に、雪解けの季節、どこからか飛んできて鳴いていた小鳥の囀りを思い出す。……この声は、あの囀りよりも優しく、心地いい。

木製の椅子に腰かけたまま僅かに顔を傾けると、あの女性が顔を覗かせていた。

服装はあの時のコートのまま。月明かりの下で見えた表情は、外にいたせいか鼻先が少し赤らんでいた。


琥珀の瞳に、彼女の髪が写る。

月光を受けた銀の髪は、夜空の星のように煌めき、『少年』は静かに息を飲んだ。




「……ああ。このままでいい。」



ゆっくりと、女性に言葉を返す。

月よりも月明かりに映える美しさ。全てを忘れて見続けてしまいたくなるが、…それよりも、やるべきことがある。そう自分に言い聞かせる。

唾を飲み、開きかけていた口から、言葉を紡ぐ。





「…少しだけ、時間あるか?」



しん、と一度世界が静まる。

…やがて、女性は『少年』と目線を合わせるように膝を折り、微笑みを返した。



「…もちろん、大丈夫ですよ。」


「…そうか。」



…もう一度、世界が静まる。

瞳を一度閉じ、開く。

肺に空気を吸い込み、そっと吐く。




「聞いてほしいんだ。…俺のこと。俺が生きてきた時間のこと。」



月光の下。白銀を写した琥珀の瞳は、一つの決意をその内に宿していた。

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fluffy life 海月 水母 @unatuki-minamo

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