思いの雫とバスタイム その1

暖炉で薪が燃える、ぱちぱちとした静かな音だけが響くリビング。

その一角に設置された、少し大きめのソファの上で、『少年』はもぞもぞと身体をくねらせていた。



(なんか……落ち着かない。)



クートがくれたココアをゆっくり飲み終えて、少し経った頃。…つまりは、今から十分ほど前から。

奇妙な感覚を、身体中に感じていた。

むず痒いというか、なんというか……ともかく、落ち着けない違和感があるのは確かだった。




「…今度は、なんだってんだよ…。」



今も疼く右足を見つめながら、『少年』ははあ、とため息をつく。その間も、身体を走るむず痒さは続く。

眉間に僅かな苛立ちを浮かべながら、気を紛らわせるために『少年』は窓の外に視線をやる――





「―――あ…。」



声が、零れた。

琥珀色の瞳に映る"外"。

灰の空と白の雪。

どこまでも広がる、モノトーンだけが彩る寒々しい景色。

これでは昼夜も分からない。


…普通の人間なら、そうなのだろう。


けれど『少年』は、この景色の中を何年も生きていた。…それこそ、飽きるほど。

だから直ぐに、『少年』には分かった。今が一日のどの辺りかも、その時間狼の頃いつもなら自分が何をしていたかも。




…水浴び。

この時間、日課にしていた"それ"を思い出して、納得したように『少年』は天井を見上げた。




(どうりで…。落ち着かない訳だ。)



餌を求め、歩き続けた足を洗うため。

狩りで付着した獲物の血と匂いを落とすため。

この時間に水場を訪れることが、いつの間にか自分の中で決まりになっていたのだ。

今はどこかが汚れている訳ではないが…一度気づいてしまうと、無性に身体を洗い流したくなってくる。


きょろきょろと、部屋の中を見回すが…当然というべきか、水場らしいものは見当たらない。

そもそもこの屋敷の、というか人間の住む家のことさえ『少年』はまだほとんど知らない。

どこに行けば、身体を洗えるのだろう……。



「クート、ちょっと聞きたいんだけど…………クート?」



ひとまず、クートに聞いてみることにした。

…のだけれど、すぐ隣に座っていたはずのクートから返事がない。

首を傾げ、『少年』はソファの隣を見下ろす――



――クートは、静かに瞳を閉じていた。

口元にかかってしまっている髪も気にせず、背もたれに身体を預けてだらりとしている。

一瞬、その光景に『少年』は息を飲んだ。寒気が胸を過り、無意識に狼耳と尻尾もぴん、と立ってしまう。


…が、すぐにその耳に、すうすうと小さな息遣いが聴こえてきた。



「………寝てる、のか?」



覗きこむように顔を近づけながら『少年』が囁くと、クートからむにゃ…と声が漏れた。

…本当に、ただ急に眠ってしまっただけのようだ。

少し顔を傾けて、頭が上手く収まったかのようにまたすやすやと眠る。


…無防備だな、と思いながら『少年』はそんなクートを見つめていた。



「今日会ったばかりの奴の前で、よく寝られるな…。」



自分なら、警戒心でとても眠れはしないだろう…と想像して、不意に『少年』は気がついた。



(もしかしたら…そのせいで。)




先程までクートは、『少年』の話し相手になっていた。

はじめこそ少し気まずさがあったけれど…最後にはそれなりに話しやすくなったように、『少年』自身感じていた。


悪い時間じゃなかった。…だけど。


話すのが得意じゃない。…そう、クート自身が言っていたように。

自分と話している間も、ずっと気を張っていたから。そのせいでクートは疲れてしまったんじゃないか、と。




もう一度、『少年』はクートの寝顔を覗く。

穏やかに眠る、自分より小さな男の子。

ふと手を頬に翳せば、ぽかぽかとした体温が手のひらに伝わってくる。…その温かさも含めて、まだ彼は子どもなんだと、改めて思う。


自分よりも幼くて、小さくて…。





『オレは…きみの味方でいたいんだ。』





それでも、そんな彼の言葉で、自分は―――




……………



頬に翳した手で、そのままクートの口元から髪を払ってやる。

薄桃の唇が僅かに微笑み、また小さな寝息が心地よく続く。

…クートを見つめる瞳が、ほんの少し細められた。



『少年』は小さく息をついて、ゆっくりとソファから立ち上がった。

まだ右足は使えない。バランスを崩しそうになりながら、なんとか壁に身体を預ける。

楽ではないけれど、動けなくはない。…あの女性には、無理をしないよう言われたけど。




(水浴びできる場所は…自分で探せばいい。)



音を立てないように、クートを起こさないように気をつけながら。

『少年』は静かにリビングを後にした。




ーーーーー

ーーー




オレンジの灯りがぽうっと照らす、物静かな廊下を壁づたいに進む。

壁の質感や色づかいからは、どことなく年季を感じさせる雰囲気がある。一方で、その隅々まで清潔に保たれており、雰囲気の割に嫌悪感はない。むしろ初めて屋敷を歩く『少年』さえ、どこか居心地のよさを感じていた。


あの女性の言葉を思い出す。

『少年』が狼として死に、こうして人の姿になったのは、この屋敷が関係しているのだと。



(人間の家は、どこもそんな力があるのか…?……そんな訳ないか。)



狼であった自分にも、そのくらいは分かる。そう思いながら『少年』は、床に敷かれたカーペットの続く先を見つめた。突き当たりには階段があり、上の階もあるらしい。


…そういえば、屋敷にはクートの他にも少年が住んでいるのだった。肩上でグレーの髪が揺れる猫耳の少年と、白い短髪の横から長い兎耳が垂れる、クートよりも幼い少年。



(あいつらは、上に行ったのかな…。確か名前は……)



互いを呼び合っていた時の僅かな記憶を思い出そうと首を捻ったとき、『少年』のツンと立った狼耳に音が飛び込んできた。



「……! 水が流れてる……」



狼耳だけはかつてと同様、鋭敏に機能しているらしい。

壁を隔てて聴こえるような小さな音だが、あまり遠くではない。『少年』の身体は、自然と音の方へ引っ張られていった。



廊下を進んだ先、幾つか置かれた扉のうちの一つ。

もう一度耳を澄ませ、音がこの先から聴こえることを確認してから、扉に手をかける―――






「………ふぇ…?」


「………あ……。」




扉を開けた先に、小さな影があった。

きょとんと開かれた『少年』の瞳に、小柄な白い肌が映る。…そしてその白が、みるみる紅く染まってゆくのも。


兎耳の少年は、『少年』の方を振り返る姿勢で立っていた。…まさに今、服を脱ぎ終えた姿で。

白雪を思わせるほど白い、傷一つない素肌。ほっそりとした二の腕は自身の肩を抱くように胸の前で組まれ、恥じらうように交差した脚の付け根、露わな臀部の上には小さな白毛の尻尾がちょん、と生えていた。


予想していなかった光景に、『少年』は暫く固まってしまう。…その前で、兎耳の少年の目にはみるみる涙が溜まり、頬は茹だったように羞恥の朱に染まっていく。



「あ……あうぅ……。」


「えっ…泣っ…!?…どうした…?」



兎耳の少年が浮かべた涙の意味が分からず、さすがの『少年』も狼狽える。

今にも決壊しそうな兎耳の少年の潤んだ瞳を捉えたまま、立ち尽くすことしか出来ずにいた―――その時、



「フィユ、おまたせー。…ってあれ、きみは……。」



背後から声が聞こえ、グレーの猫耳がひょっこりと覗いてきた。

クートと同じくらいの身長。その胸に服やタオルを抱え、不思議そうに『少年』を上目遣いで見上げているのは、前に出会ったもう一人の少年だった。


ぴこぴこと動く猫耳を見下ろしながら、『少年』も彼に視線を向ける。



「お前は、確か……」


「?…ああ、名前?

僕はユナ。こっちの子はフィユ、だよ。」



自らの名前を告げながら脱衣室に入り、フィユの肩に手を添えるユナ。


…そういえば、さっきユナはフィユに怒られていた気がしたが、あれは解決したんだろうか。

『少年』が二人の名前を聞きながら、ふとそんなことを考えている時。

ユナはフィユの顔を覗き、驚いたように声を出していた。



「ってフィユ、どうしたの? ……とりあえずほら、タオル。」



涙目のフィユに気づいたのだろう。持っていたタオルのうち、大きめの一枚をフィユの身体に掛けてやり、フィユの目線に体を屈めながら別なタオルでその目元を拭う。



「これでよし…と。…で、なんかあったの?」



涙を拭き終え立ち上がると、ユナは首を傾げながら問いかける。が、フィユは言葉を返そうとはしなかった。代わりに、ユナの背後にぴったりとくっつき『少年』から隠れてしまう。

相変わらず、頬は真っ赤なままだ。


きゅっ、と裾を掴むフィユと困惑した表情の『少年』を交互に見つめ、ユナは何かに納得したように目を細めた。一瞬、口元に笑みを浮かべたように見えたのは気のせいだろうか…。



「ああ、なるほど…。」



…何が分かったのだろう。相変わらず、『少年』は怪訝な表情を浮かべるばかりだ。

と、不意にユナがフィユの背中をぽんぽん、と軽く叩いた。



「ほら!いつまでもそんな格好じゃ風邪引いちゃうし、お風呂入るよ、フィユ。」



フィユを促すように声をかけながら、ユナも着ていたカーディガンとキャミソールをはらりと脱ぎ、肌を露わにする。…と、フィユがびっくりしたように目を見開き、前から赤かった頬がさらに赤みを増す。



「ひゃっ…!」


「ひゃっ、て…。恥ずかしがるようなことじゃないでしょ?いつも一緒に入ってるじゃん。」


「で、でも……」



もじもじと両手で体を隠しながら、フィユの視線は『少年』の方へ向けられていた。

もしかして、と『少年』は気づいた。…見ず知らずの自分に裸を見られるのが恥ずかしい、ということか。


気づきはしたが、『少年』にはあまりその感覚が分からなかった。…自分が服を着ていることにさえ、まだ違和感があるのだから。どちらかといえば、服を纏わないことの方が『少年』にとっては自然だった。


恥ずかしそうに俯いているフィユをちらり、と見てから、ユナは今度は『少年』に声をかけてきた。




「きみも、お風呂入りに来たんでしょ? 一緒に入っちゃおうよ。」





「「え…?」」



『少年』とフィユの声が見事に重なる。

ぽかんとしたままの二人を横目に、ユナは悪戯っぽく笑いかけながら先に浴室へ入ってゆく。


…背中では、猫の尻尾が楽しげに動いていた。






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