栗色の陽だまり

「隣、座ってもいい?」



部屋と部屋を隔てる引き戸の間から顔を覗かせていた犬耳の少年は、狼耳の『少年』の視線に気づくともじもじしたまま部屋に入り、そう言ってきた。



「?……ああ、いいけど。」



その提案にきょとんとしつつも、『少年』は腰を上げてソファの半分を空ける。

犬耳の少年は空いた隣に、緊張したように両手を胸に当てながらすとんと腰を下ろした。

ルームウェアのワンピースと栗色の尻尾がふわり、と揺れて、優しい香りが『少年』の鼻をくすぐった。


…狼耳に、小さな深呼吸の音が聞こえてくる。

少し緊張したような、隣の少年の息遣い。

数回それが続いた後、犬耳の少年はぽつりと言葉を溢した。





「……さっきは、ごめんね。」



雫が滴り落ちるような、淋しげな声が響く。

『少年』の、琥珀の瞳が見開かれる。

…なんとなく想像はついていた。彼が話したいのは、自分との「さっき」のやり取りのことだろうと。

一言目が謝罪の言葉とは、想像していなかったけれど。




「オレが無神経なこと言ったせいで、きみに嫌な思いさせちゃったよね…。オレ、お話するの好きなのにさ…言葉選ぶのとか、相手のこと考えるのとか、今でもあんま上手くできなくて……だから……」



呟く声が、少しずつ陰りを帯びてくる。

罪悪感に、気持ちが沈んでゆくような声。

その声に、言葉に、『少年』は―――





「………違う。」


「えっ…?」




――遮るように、そう返していた。



「さっきのは、お前が悪いんじゃない。俺が勝手に焦って、余裕失くして、お前に八つ当たりしただけだ。だから―――…悪かった。」



犬耳に、その言葉が響いてきて。

今度は少年の方が、ぱっちりとした目を驚きに見開く番だった。


…『少年』の方も、自分の言葉にそわそわと落ち着かない様子を見せていた。

誰かに謝る、自分の非を認める…一人で生きてきた彼にとっては、それすら初めてのことだったから。


赤らめた頬を隠すように、パーカーの襟に口元を埋めながら……これでいいんだろう、と安心する気持ちもあった。

犬耳の少年とのやり取りを、自分に向けられた涙を思い出したとき、『少年』の胸はざわついていた。

けれど心を打ち明けた今、胸はどこか澄んだように落ち着いている。

…だからきっと、これでいいんだと。



…犬耳の少年から、言葉が返ってこない。

無言の時間に居たたまれなくなって、『少年』は思わずそわそわとした視線を隣に向ける。

隣で、犬耳の少年は見開いた目に『少年』を写していた。

どこか、驚いたような表情。けれどその頬は、何かに安堵したように優しく微笑んでいて。

…よく見れば少年の腰から伸びる尻尾も、お菓子を貰って喜ぶ子どものように、ぱたぱたと忙しく動いていた。



「……俺、おかしなこと言ってたか?」



思わず、『少年』は首を傾げていた。

犬耳の少年が嬉しそうであることは、『少年』にも手に取るように分かった。

……けれど、自分がそんな反応をされる言葉を話した覚えはない。ただ、謝罪を口にしただけだ。


そう思って『少年』が尋ねると、犬耳の少年は「ふわっ!?」っと驚いたような声を上げた。

…『少年』を見つめていたのは、無意識だったらしい。

少し赤くなった頬で照れ笑いを浮かべながら、犬耳の少年は言葉を返す。


「…ううん。よかった、って思って。」


「……よかった…?」


「きみのこと、最初はちょっと怖い子かなって思っちゃったけど…やっぱり優しくて、安心した。」


ワンピースから伸びる素足をソファーの上で抱きかかえながら、少年は屈託のない笑顔を咲かせる。

明るくて、暖かくて………

陽だまりのようなその笑顔は、自分には眩しすぎるくらいだ、と『少年』は感じていた。


ひょい、と尻尾を揺らして立ち上がり、犬耳の少年は『少年』の前に立つ。

ぽかんとしたままの『少年』に向かって、犬耳の少年は手を胸に当てながら話し出す―――




「オレ、クートって名前!歳は人間だと10歳くらいってご主人が言ってた!改めて、よろしくな!」



嬉しそうに話したのは、少年自身の自己紹介だった。

きらきらと『少年』に向けられたその視線は、最初に会った時のどこか怯えを湛えたものではなくなっていた。

……自分に心を許した、ということなのだろうか。




「クート……。」



…気づいた時には、ぽつりとその言葉を繰り返していた。

少年の名前。その言葉が口から零れた理由は、自分でも分からない。


…ただそれがとても暖かくて、特別に思えて。

思わず手を伸ばすような…そんな感覚に近かったのかもしれない。



…それが、「名前」というものなのだろうか。




「えへへっ、いい名前でしょ!……宝物なんだ、オレの。」




宝物。


変わらず嬉しそうに口元を綻ばせて、けれど視線だけは何かを懐かしむように細めて。


慈しむような表情でそう語る犬耳の少年――クートの言葉は。


名前を持たない『少年』には、とても遠いもののように思えた。





ーーーーー

ーーー





「そうだ…足、大丈夫だった?」



もう一度『少年』の隣に座り直してから、クートは心配そうにそう聞いてきた。

上の空にいた『少年』の意識が、その声に引き戻される。


……僅かに俯いた『少年』の視線が、パーカーから伸びる自分の脚を見つめ、そのまま、呟くように言葉を零す。


「分からないけど…たぶん、歩いたりはまだ出来ないだろうな。」


腿から腓にかけて、『少年』は自分の脚を指でなぞる。

鋭い爪も深い毛も失われた、まだ見慣れない自分の脚。

…滑らかな肌には、

それでも痛みだけは、何よりはっきりと感じられた。


「どうして、まだ痛むんだ………」


独り言のように、疑問を呟く。

あの時折ったのと同じ足。同じ痛み。

なぜかこの身体でも、それを抱えてる…。

…痛みが、まるであの時オオカミの自分と今の自分を繋ぐ、重い鎖のように思えた。









「…もしかして、前にもあった?…その足に怪我したこと。」




……『少年』を隣で見つめていたクートが、不意に零した言葉に、『少年』は目を見開いて振り返った。

どうして、それを…。そう言いたげな琥珀色の瞳と目が合って、クートの方も何かを察したようだった。




「そっか………やっぱり。」



そう呟いた表情に、不意に陰が差したように見えた。

右胸の辺りをワンピースの上からぎゅっと握り、クートはソファーの上で小さく膝を抱える。

自分より一回り小さなその身体を『少年』が見つめていると、やがてクートはゆっくりと体を『少年』の方に向け、話し始めた。




「たぶん、それは足じゃなくて……きみの心の方が痛がってるんだよ。」


「心…………?」


「トラウマ、っていうんだっけ…。痛いのとか苦しいのとか、そういうのがきみの中に強く残りすぎてて、だからこの体になっても忘れられないんだと思う。体が変わっても、傷がなくなっても、心は元のままだから。」



…無意識に、胸に掌を当てながら。

ぽつぽつと語るクートを『少年』は見つめていた。

やけに詳しい気がする。そんな引っ掛かりを感じながら。

…気になりはしたが、今は何より自分のことを知らなければならない。

そう思い、『少年』はただ言葉に耳を傾けていた。



「怪我したのは、いつのこと?」


「……いちばん、最期。」


クートの問いに、暈すような言葉を『少年』は返す。

"死"という言葉を、事実を、まだ口にするのには抵抗があった。


「そっか。………辛かったんだね。」


…『少年』の痛みに寄り添うように、クートはそっと言葉を紡ぐ。

その痛みを、自分のことのように受け止めながら。




けれど、その言葉に―――”辛かった”と言語化された感情に。

誰より困惑したのは、『少年』自身だった。





あの時……

自分はもう、生きることを諦めていたはずだ。

終わりたいと、願っていたはずだ。


そのはず、なのに。



どのみち死ぬのだからと、諦めて、受け入れたはずのもの痛みに、自分は未だに囚われている。

あの瞬間を、トラウマとして抱えている…。





(それじゃあ、まるで俺は………)







その言葉の先に、踏み込めずにいたとき。

………不意に、音が聞こえた気がした。




体の内から響いてくるような、『少年』にだけ聞こえる音。

胸に爪を立てられるような、悲痛で、息の詰まる谺。

何かを訴えるような、甲高くくぐもった慟哭。



―――音、じゃない。


遠吠えだ。


『少年』には、直ぐに正体が分かった―――――それが最期に、自分から漏れたなのだと。





知らなかった。



俺は……





こんなに寂しく吠えてないていたのか。





ーーーーー




…どのくらい、そうしていたのだろう。

気がついたとき、『少年』は俯き、足元を見つめていた。


床に敷かれたカーペットの白が、あの時自分を覆った雪と重なって見えた。


閉ざされた崖の下で。立ち上がることも叶わなくなった脚で。

諦めるしかなくなった状況で、俺は叫んでいた。

…振り絞るような、何かへ必死に手を伸ばすような遠吠えを。


「俺は――――――」








「――――――――生きていたかったのかな。」



…さっきは、踏み込めなかった自分の気持ち。

それを言葉にした瞬間、氷のような冷たさが体の内側を走った。

自分の中にあった、矛盾じみた感情。

それに気づきたくない、認めたくない。

…そう、拒絶しているかのようだった。



ゆっくりと、肌の上から脚をなぞる。

…だから、痛みを忘れられなかったのか。…望みを絶たれたトラウマだったから。




あの時の、自分の本心に。

引き摺り続けた、痛みの理由に。

たどり着いた『少年』の心はぼろぼろで、暗く深くへと沈んでゆくようだった。







俯いていた視界の端でふと、ふわりと栗色の髪が揺れるのに気づいた。

…見れば膝を丸めてしゃがんだクートが、こちらを覗き込んでいる。

思わぬ所で目が合い、『少年』は僅かに驚いた声を上げた。



「あっ…やっと気づいた。」



心配そうに見上げていたクートの表情が、安心したように少し和らぐ。

その言葉で、『少年』は自分が暫く上の空にいたことを自覚した。


……自分でも、暗い表情をしている自覚がある。

視線が上を向けない、下ばかり見てしまう。

―――そんな『少年』に、クートは何かを聞こうとはせず、ただ手を差し出した。



「…はい、これ。」



…よく見れば、差し出された両手は何かを包むように持っていた。

それは白い、陶器のマグカップだった。…ほくほくと、湯気も立ち上っている。

中を覗くと、柔らかな茶色のような…初めて見る色をした飲み物が注がれていた。



「ココアだよ。オレ、これだけは上手に作れるんだ。…あ、ほんとは勝手に火使っちゃダメって言われてるから、ご主人には内緒ね…。」




『少年』にとって聞き慣れない名前の飲み物を紹介してから、立てた人差し指を唇に近づけてはにかむクート。

そのままマグカップを、『少年』へと手渡す…



「熱っ……」



カップの側面は思っていたより熱く、思わず声が漏れてしまう。

クートに倣って取っ手を握りながら、袖を伸ばして手のひらを覆いカップを支える。

…布越しに感じると、熱さもちょうどいい温かさに思えた。


カップの中で揺れる、マーブル模様に目を落とす。

…当たり前のように、差し出されたから受け取ったけれど。

そもそも、これは何なのだろう…。



「…これ、俺がもらっていいのか?」


「もちろん。きみにもらってほしくて作ったんだから、いいんだよ。」



きょとんとしたままの『少年』に、クートはにっと笑顔で応える。

一方で『少年』の琥珀色の瞳には、困惑の色が滲んでいた。

…クートが、自分にここまでする理由が分からない。

出会ったのさえ、ついさっきだというのに。

自分はクートに、何も出来ていないのに。…むしろ、恨まれているくらいが自然だと思っていた。


それだけのことをしたのだと、クートの涙を思い出す度に感じていたから。







「…生きてきた時間も、ずっとバラバラでさ。」




…クートの声が、突然耳に響いてきた。

横を見れば、クートはまたソファの隣に収まって、小さな体に抱き寄せるように膝を抱えていた。



「たくさん偶然も重なって、姿まで変わって…ようやく今、出会えたくらいなんだから。

……オレときみの関係なんて、まだ何も"ない"ようなものかもしれないけどさ。」



関係ない。

…それは、自分がクートに向けてしまった言葉。

その言葉が、まだクートを苦しめているとしたら……


今、思い出して胸が痛むのは……後悔、しているからだろうか。






「それでも…オレはきみと会えたことを大切にしたい。……だからきみが苦しんでるなら、オレは関係ないままでいたくない。」



また下を向きそうになった『少年』の視線を、気持ちを。

繋ぎ止めたのも、クートの言葉だった。

……力強く言葉を紡ぐクートの姿を、琥珀色の瞳が真っ直ぐに見据える。


クートもまた、『少年』を真っ直ぐに見つめて……






「オレは…きみの味方でいたいんだ。」




迷いなく、その言葉を告げた。










『少年』は、言葉を失っていた。

ずっと、独りだった自分が。

――初めて、味方になりたいと言われた。

…これは、どんな気持ちなのだろう。なんと言葉にすればいいのだろう。


今は、まだ上手く言葉に出来ない。

…ただ、自分の中に芽生えた、この気持ちを。

ずっと抱いていたい…その思いだけは、確かだった。








「…って、ちょっと話しすぎちゃった…。ココア、まだ冷めちゃってないよね…?」



クートが心配そうに覗き込んだカップからは、ほのかにだがじんわりと、まだ温かさを感じられていた。

飲んでみて、と言いたげな視線を感じて、『少年』はそっとカップに口をつけた。


ほうっ…と、思わず息をつく。

優しい甘さで、少しほろ苦くて……何より、温かい。


体に纏わりついた雪の感覚が、少しずつ融けてゆく。


…いつの間にか、自分は多すぎるくらいの温かさに囲まれていた。




ココア、暖炉、毛布、

……それから、




「…美味しい?」


「っ…。……ああ。」


「そっか……えへへっ、よかった!」



視界の端で尻尾がぱたぱたと振られ、視界の真ん中で陽だまりのような笑顔が咲く。


…無意識に、じっとクートを見つめていたことに気がついて。

『少年』は、ほのかに染まった頬を不器用に背ける。


相変わらず、

クートの笑顔は自分には眩しすぎるけれど。

見ていると、安心できる。…そんな気がした。





まだ見つからない言葉、見つからない答え…。


考えるために、ここに少しだけ立ち止まってもいいのかもしれない。



そう思いながら

『少年』はまた一口、ココアに口をつけた。



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