迷う心、寄り添う心
「ユナが連絡をくれたんです。打ち合わせの途中でしたけど、帰ってきてよかった…。」
ベージュのトレンチコートを脱ぎながら、女性はそう言って朗らかな笑顔を向けてくる。
厚手のコートの内側は、スキニーパンツとタートルネックのセーターに包まれていた。
すらりとした長身に、女性的な丸みのあるシルエットが強調される。
…女性が突然現れたことにも、その容姿の美しさにも、『少年』はただ呆気にとられていた。
「ご主人、持ってきたよ!」
とたとたという足音と共に、二階から犬耳の少年が戻ってくる。手には、畳まれた白い布のようなものを抱えていた。
「ありがとうございます。…私が留守の間も、よく頑張ってくれましたね。」
女性はそれを受け取り、少し屈んで犬耳の少年を優しく撫でる。
手にしたものは、そのまま『少年』に手渡された。
「………?」
「私の古着です。少し大きいかもですが…今の服よりは、暖かいと思いますよ。」
言われるがまま布を開けば、それは白く大きなパーカーだった。
『少年』は、今の自分が纏う服を見下ろす。
白く薄い、レースワンピースのような服。…『少年』自身にこの服を着た記憶は全くないのだが。
「みんなここに来た時は、決まってその姿なんです。…この季節では、少し寒いですよね。」
眼鏡越しに目尻を下げて、困ったように女性が笑う。
…本当は、そこまで寒くはない。
部屋に焚かれた暖炉の温かさもあったし、何より多少の寒さは、もはや『少年』にとって慣れたものだった。
それでもなんとなくレースの服は落ち着かなかったので、『少年』は言われた通りパーカーに袖を通した。
…狼耳や尻尾が大きくて、少し苦労したけれど。
女性の言葉通りパーカーは大きめで、下を履かず露わな『少年』の太もも辺りまで隠れるくらいだった。
古着のせいだろうか。
…どこか、女性と同じ匂いがする。
花のような…いや、花よりもっと柔らかで、もっと安心する匂い。
先ほど彼女に抱き抱えられたことを思い出しながら、『少年』はパーカーの襟を、こっそり鼻先に近づけていた。
「どうでしょうか、大きすぎたりしませんか?」
「へあっ…!?……だ、大丈夫…だと思う。」
突然部屋の奥でコートを掛けていた女性に声をかけられ、『少年』はびっくりしたような声を上げてしまう。
…匂いをかいでいたのを本人に知られるのが、なんとなくくすぐったく思えて、『少年』はほんのり頬を赤くしながらパーカーの襟を口元から離した。
そのまま袖や裾のサイズを確認していると、ふと部屋の扉の近くにいた犬耳の少年と目が合った。
…先程のことが、あったせいだろうか。
少年は気まずそうに固い笑みを一瞬見せ、すぐに部屋を出ていってしまった。
…何と声をかけるべきか分からず、『少年』はただそれを見送るしか出来なかった。
ーーーーー
ーーー
ー
「…傷は、ありませんね。内側の骨も、見るかぎり異常はなさそうですし…。」
椅子に座る『少年』の右足にそっと触れ、床に膝をついた姿勢のまま、女性は真面目な表情でそう呟く。
…女性の言葉通り、『少年』が痛みを感じた右足には傷も腫れも無く、ただ綺麗な肌色が広がっていた。
『少年』も一瞬首を傾げる。
…が、すぐに別の感覚に思考を上書きされた。
「んっ…」
「あっ、ごめんなさいっ!痛かったですか…?」
「…いや、平気。……ちょっと冷たかっただけだ。」
『少年』に触れた女性の手は、外から帰ってきたばかりのせいか真冬の気温をそのまま写したような冷たさで。
少し心配を抱きながら、『少年』は足元の女性を見下ろしていた。
『少年』が足を痛めていると知って、女性は『少年』の負担にならないよう、なるべく優しく、包むように手で触れ触診していた。
白く細い女性の指が肌に触れる。
長い睫毛と、宝玉のような瞳に、見つめられている。
……それだけで、心がそわそわと落ち着かない理由が、『少年』には分からなかった。
「そっか、まだ冷たかったんですね…。
すみません、少しいいですか?」
女性はそう言うと一度手を離し、手のひらを口元に近づけて優しく息を吐いた。
その手でもう一度、『少年』の裸足を包む。
…今度は、じんわりと温かさが伝わってきた。
『少年』の表情が少し柔らかくなったのを見て、女性も安堵したように顔を綻ばせる。
…その笑顔に、流れてくる彼女の温もりに。
『少年』は、心が安らぐのを感じていた。
胸を優しく包まれるような感覚……こんなものを感じたのは、いつ振りだろう。
『少年』の胸の中で、小さな気持ちが芽生えていた。
…もっと、この温もりに触れていたい。
肌に伝わる温もりのように、その気持ちは強く、大きくなっていく……。
……はっとして、『少年』は首を左右に振るった。
彼女に心を許そうとしている自分に、誰かに甘えようとしている自分に気づいて。
その気持ちを、必死に振り払うように。
もう、誰にも頼らずに生きるのだと。
そう誓った、遠い昔の記憶――。
孤独な自分を、ずっと支えてきた決意――。
自分の中の、揺らいではいけない何かがが揺らいでしまいそうで。
そのことが、どうしようもなく恐ろしく思えて。
自分の中に芽生えた思いを拒むように、『少年』はまた俯き、沈黙してしまう。
暫く、言葉のない時間が流れていた―――。
「……ひとつ、聞いてもいいですか?」
――沈黙の時間は、女性の声でそっと終わりを告げた。
『少年』が僅かに顔を上げると、真っ直ぐにその目を見つめる女性と目が合った。
…あまりの真っ直ぐさに、『少年』は視線を逸らして抱えた膝に顔を埋めてしまう。
「…何だよ」
…ぶっきらぼうに言葉を返すのが精一杯だった。
女性は『少年』の口調に嫌な顔をすることもなく、静かに、優しく問いかける。
「"一人で生きていける"って言葉……どうして、あんなことを言ったのかなと思って。」
それは先ほど、『少年』が犬耳の少年に発した言葉……あの時のことを、少年の表情を思い出すと、少し胸がざわざわとした。
どうしても何も……と『少年』は思う。
その問いに返せるとしたら、ほんの短かな回答しかない。
だから小さく口を開き、思うままの答えを告げた。
「……ずっと、そうやって生きてきたから。
…それだけだよ。」
―――『少年』を見上げる女性の瞳が、眼鏡の奥で揺れるのが見えた。
「………ずっと独りで、ですか…?」
「……ああ。」
また短く、言葉を返す。
女性の手が『少年』の脚からそっと離れ、胸の前で握られる。
その表情はあの時の――涙を流していた犬耳の少年と、どこか重なるような気がした。
…彼女の瞳にも、自分は寂しく写っているのだろうか。
「…別にいいんだよ。俺はもう、慣れたから。」
ぽつりと、『少年』が呟く。
慰めにも諦めにも聞こえる、か細い声で。
長い時間を、そうやって生きてきた。
誰とも関わらず、誰の手も借りず。
はじめから、望んだ訳じゃないけれど。……それでも一人で、生きてこられた。
「だからこれからだって、…俺は一人で……」
――"生きていける"。
続くはずだった言葉が、『少年』の口から響くことはなかった。
声を詰まらせたのは、不意に胸を掠めた、小さな疑問のせいだった。
――本当に、そう言い切れるのか?、と。
…自分は、一度生きることを諦めた。
独りで生き続けることが、どうしようもなく空っぽで、虚しく思えて。
本当は、あの時とっくに―――生きる意味を、失っていたのかもしれない。
だから自分の命を、捨てることを選んだ。
――それなのに。
命を諦めたその先では、何故かこうして命が続いていた。
独りで生きていく。
そのたった一つの生き方すら、自分で否定したというのに。
今さら、どうやって生きたらいい?
……今の自分の生に、どんな意味が残ってる?
…
………
……………
「……何が、生きていける。だよ。」
囁くよりもか細い声が、『少年』から弱々しく漏れ出た。
気づいてしまった。
自分が、失うことを恐れていたものは。
…とっくに自分の中で、バラバラに砕けていたことに。
――どんな意味が残っているのか。
その問いに、答えも出せないで。
気持ちが俯く。
瞳が、また寂しく伏せられる。
支えだったものを失った心の中は、
空っぽで、真っ暗で……
最期に見上げた、澱んだ空の色のようだった。
……………
………
…
「意味は、ありますよ。」
そっと、響いた声に気づくと同時。
不意に、『少年』の頭に何かが触れた。
大きくて優しい温もりが、『少年』の狼耳と黒髪に纏めてもふもふと触れている。
驚いて、視線をゆっくりと上に上げれば。
女性が立ち上がり、俯いた『少年』の頭を、優しく撫でていた。
少し前屈みになりながら、『少年』の髪を梳くように指を沿わせる。
艶やかな髪を、するりと指が抜けていく。
手のひらから、体温が伝わってくる。
琥珀色の瞳に写る、百合の花のような女性。
その口が、また静かに開かれる――。
「…肉体を離れて流れ着いた魂に、新しい時間と身体を与える。」
「………は…?」
「この屋敷にはそんな力が――いえ、力というより"役割"でしょうか。そうしたものがあるらしいんです。…不思議ですよね。」
…眼鏡の奥で目を細め、小さく笑いながらそう話す女性を、『少年』はぽかん、としたまま見つめていた。
自分が人の姿に変わった原因…すぐに信じられるとは言い難かったが、少なくともこの不可思議の理由は知ることができた。
それは女性の言うとおり、不思議な話だった。
不思議という言葉で、簡単に片付けていいものとも思えなかったが……特に気にした様子もない女性の説明は、ずいぶんあっさりしたものだった。
「…どんな魂でも、ここに流れ着く訳ではないんです。理由があって、あなたの魂もここに来た。…あなたにその理由は、まだ見えていないかもしれないけれど。」
意味…
理由…
本当に、そんなものがあるのだろうか。
今の自分には、何一つとして見えていないのに。
不安と焦燥が、『少年』の瞳に浮かび上がる。
感情が渦の中で溶け合い、深い闇色となって琥珀の瞳を濁らせる――――。
「ゆっくりでいいんですよ。答えは、ちゃんとありますから。」
暗いものが広がりかけた心に、また寄り添うように声が届く。
沈んだ瞳に、暖かい笑顔が眩しく写る。
…もう、気づかないふりも出来ないくらい、胸に沸き上がる温もりは大きくなっていた。
「少しずつでも向き合ってみてください、あなた自身と。…そうすれば、きっと見えてくるものがありますよ。」
そう告げて、もう一度『少年』を優しく撫でると、女性はまた、掛けられていたコートを手に取った。
「…どこか、行くのか?」
思わず発した声が、ことのほか寂しげに響いたことに、『少年』は自分で驚いていた。
その寂しさに気づいたせいか、女性は銀の髪を靡かせながら振り返り、もう一度『少年』を真っ直ぐ見つめる。
「はい。急いで帰ってきたので…夕飯の買い出しをしてきます。それと…」
女性は『少年』に視線を向け、少し恥ずかしそうに笑う。
「いつまでも私の古着、というのも申し訳ないですから。」
合う服をいくつか選んできますね。と言葉を続け、女性は再びトレンチコートに袖を通した。
ボタンを留め、少し髪を整えてから、何かを思い出したように『少年』に話しかけた。
「ここに住んでいる子たちとは、何か話しましたか?」
「?……いや、少ししか…。」
「機会があれば、話してみるのもいいと思いますよ。それで何かを知れるかもしれません。…それに、みんな優しい子ですから。」
どこか嬉しそうにそう語る女性を、『少年』は不思議そうに見つめ続ける。
「それじゃあ、行ってきます。…あまり無理して動かないようにしてくださいね。」
そう言って遠ざかる女性の背中を、『少年』はただ見つめていた。
そのまま、何かを言うつもりもなかった。
そのはずだったのに。
「……気をつけてな。」
気づけば、彼女の背中にそう声をかけていた。
…突然、自分は何を言ってるんだ。声をかけてすぐ、後悔の気持ちが押し寄せる。
…けれど、女性は声を聞いて立ち止まり、振り返り……
『少年』に向けて、嬉しそうに笑顔を咲かせていた。
ーーーーー
ーーー
ー
女性が部屋を後にして、しばらくの間。
『少年』は、ぼんやりと天井を見つめていた。
不思議な、ふわふわとした気持ちの中にいるみたいに。
「?………なんだこれ。」
不意に、体を預けていたソファの脇に視線が移る。
置かれていたのは空色の装丁が目を引く、一冊の本だった。
…なんとなく気になって、手を伸ばそうとした時。
『少年』に、遠くから視線が向けられているのを感じた。
隠れた気配を感じて、『少年』の目が一瞬鋭くなる。…狩りをする、狼のように。
ゆっくりと首を回し、気配を探る………
「あ………」
『少年』の、琥珀の視線が捉えた先には―――
扉の端から僅かに顔を覗かせ、こちらを伺う犬耳の少年の姿があった。
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