重ねる出会い
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ーーー
ー
「……なんだよ、これ……」
瞳の中に自分自身を写したまま。
『少年』の口から言葉が、低く澄んだ声が漏れる。
それが初めて話す「言葉」であったとも気づかず、『少年』は震える手で、自分自身を確かめるようになぞってゆく。
琥珀色の瞳。凛とした目付き。
腰まで伸びる黒髪やその上に乗った獣耳、つり目の目元にオオカミの面影はある。
けれど伸びた手足も、あどけない顔立ちも、身体の構成は全て別のものに―――人間の、少年と同じものに変わっていた。
顔から身体へ、視線と手が移る。
細く、けれど筋肉がある程度ついた『少年』の身体には、いつの間にか白いレースの服が着せられていた。
その下から、服の裾を捲るように尻尾が伸びている。オオカミであった頃と同じ、黒く大きな尻尾。
何故か以前のパーツを残しつつ、紛れもない人間の姿へ変わっていた自分自身に、
『少年』は強い目眩を覚える。
(どうなってんだよ……だって俺はヒトじゃなくて、それでっ…!)
確かめるように、必死で記憶を辿る…けれど混乱した頭では、それすらもままならない。
ただばくばくとした心音だけが脳に響き続け、思考が阻まれ続け……
……やがて『少年』は頭を押さえたまま、その場に力なくへたり込んでしまう。
ぼすっ、と音を立てて体を預ける…自分がソファの上に寝ていたことに、その時初めて気がついた。
「ねえ、だいじょうぶ…?」
『少年』の耳に、そっと声が届く。
…そういえば、近くに人間が二人いた。すっかり忘れていたが、どちらかの声だろうか。
…痛む脳内でそう考えながら、声のする方へと『少年』は重い頭を向ける。
琥珀の瞳に、犬耳と兎耳の二人の少年が写される。
…瞬間、二人の体がびくっと震えるのが分かった。
犬耳の少年は僅かに表情を強張らせ、兎耳の少年に至っては涙目になって犬耳の少年の背後に隠れてしまう。
…怖がられている、らしい。
無理もないか、と『少年』は思う。
自分で言うのも何だが、ガラスに写った『自分』の顔はひどく無愛想で、加えて今の表情は混濁した記憶のせいで相当なしかめっ面になっているはずだった。
つんとしたつり目と眉が、威圧感を与える原因だろうか。
…別にどうでもいいことだけど、と『少年』は感じていた。
元から愛想を振り撒く方法は知らなかったし、何より相手にどう思われているかなど、『少年』にとって興味の無いことだった。
緊張ぎみの犬耳少年と、無関心な目をした狼耳の『少年』。
……お互いに、言葉を見つけられない時間が流れていた。
その時、『少年』の目に、こそこそと新たな人影が近づいて来るのが見えた。
グレーの髪に、尻尾と獣耳のある少年…あの形は猫耳だろうか。
悪戯っぽい含み笑いを浮かべながら、音も無く三人の元へ忍び寄ってくる。
…犬耳と兎耳の少年たちは、背後から近づくその猫耳少年に気づいていない。
唯一目が合った『少年』に、猫耳少年はにっと笑いかけ人差し指を口元に当てた。
その意味が分からないまま、目で少年を追っていく。
猫耳少年は少しずつ、静かに兎耳の少年へと近づいていた。
…そのまま、まだふるふると怯えている少年の肩を掴んで―――
「わっ!」
「ふわあぁっ……!?」
―――オクターブの高い悲鳴が、部屋中に響き渡った。
ーーーーー
ーーー
ー
「ばかばかばか!
ユナお兄ちゃんのばかっ!」
「痛たたた……
もーフィユ、ごめんってばー…。
僕だってあんなにびっくりすると思わなかったんだよ…。」
グレー髪の猫耳少年はユナという名前らしい。
…今は床に正座させられ、フィユと呼ばれた兎耳の少年にぽこぽこと頭を叩かれている。
あまり痛そうではないな、などと考えながら、『少年』はその光景をぼうっと眺めていた。
「うぅ……あんなにおっきな声でおどろいちゃって、恥ずかしいよ…」
フィユはユナを叩くのを止め、その手で髪より長く垂れた兎耳をぎゅっと握りながら、顔を真っ赤にして恥ずかしがっている。
…肌が白いせいか、赤くなっているのがとても分かり易い。
「悪かったって、僕も反省してるよ。…そうだ、絵本読んであげるよ!フィユのお部屋行こ!」
…本当に反省しているのか。フィユを眺めながら変わらずニコニコとしているユナの表情からは、本当のところが判別しずらい。
よしよしとフィユの頭を撫でながら、その小さな体を抱き抱えてそそくさと連れて行ってしまった。
……何だったんだ。
目をしばたたかせて二人を見送りながら、
『少年』は呆然とするばかりだった。
ただなんとなく、二人のやり取りを見つめていた。
なんとなく、目が離せなかった。
……何故なのかは、分からないけれど。
ふと気づくと、犬耳の少年がこちらを見下ろしていた。『少年』を、優しく見守るような視線で。
…あの二人を見ていたこと、気づかれてただろうか…。
何故か顔が熱くなった気がしつつ、『少年』は適当な方向に視線を逸らした。
「ごめんな、みんなが騒がしくして。」
犬耳の少年が、声をかける。
困ったように眉を下げてそう言いながらも、少年はどこか嬉しそうで。
さっきの騒がしさを、賑やかさを、楽しんでいるようだった。
「……別に、どうでも。」
『少年』は、短くそう答える。
そう。他人のことなんて、どうでもいい。
…そのはずだった。
なのにあの二人の賑わいから目が離せなくて、見ているうちに不思議な気持ちに胸が支配されて。
抱いた気持ちの正体が分からなくて、
『少年』はふてくされたように目を伏せてしまう。
(俺は、俺がどんどん分からなくなっていく…。)
「むぐっ!?」
突然、『少年』は犬耳の少年に抱きつかれた。
驚く『少年』をよそにその膝上に乗り、『少年』の頭を狼耳ごと抱き寄せる。
『少年』の顔は、そのまま犬耳少年のうなじ辺りに。垂れた犬耳がちょうど『少年』の鼻と口を覆い、包むような柔らかい香りに鼻先をくすぐられる。
……いつぶりだろう。誰かに触れられるのは。
こうして、他人の体温を感じるのは。
犬耳の少年の高めの体温が、じわりと『少年』に伝わってくる。
温もりが、身体に染みてくる。…何故だか身体が冷えきっていた気がしていたから、少年の温かさは素直に有難かった。
…ただ、なぜ急に抱きつかれたかは分からない。
「……どうしたんだ、急に。」
疑問をそのまま、少年に聞いてみる。自然と人間の言葉が零れるのには、まだ少し慣れない。
…耳元で僅かに、少年の息遣いが聞こえた。…何かを逡巡している、そんな風に聞こえる。
やがて少年の声が、少し悲しげなトーンの声が返ってきた。
「…なんだか、寂しそうに見えたから。」
「……俺が、か?」
こくん、と少年が頷いたのが、髪と犬耳が動くので分かった。鼻と口にかかったままなので、少しくすぐったい。
…寂しそう。
犬耳の少年にそう思われたことが、『少年』には腑に落ちなかった。
俺は、別に……。その言葉が喉から出かかる。
けれど、少年の言葉の方が早かった。
『少年』から顔を離し、ぎゅうっと抱きしめていた細い腕を少し緩めて、犬耳の少年と狼耳の『少年』はまた向かい合う。
「…ごめん。オレじゃこれくらいしか、思いつかなかったんだ…。きみの不安とか、ちょっとでも楽になったらな、って思ったんだけど…。」
紡がれる言葉は、どこかたどたどしい。
緊張でもしているのか…。つっかえぎみに喋って、一瞬黙って…少しぎこちない笑顔を見せて、またゆっくりと言葉を伝えてゆく。
「今は、何も分からなくて不安だよね…?ご主人が帰ってきたら、もっと色々話してくれると思うからさ。だからその…安心して大丈夫だよ。」
「ご主人…?」
初めて聞く単語に、『少年』は首を傾げる。
人の名前…ではない。なんとなく、意味合いは分かる気がした。
「…お前の、飼い主ってことか?」
「あはは、オレはペットじゃないよ。…今は、もう。」
…どうやら自分の解釈は間違っていたらしい。
『少年』が変わらず首を傾げていると、犬耳の少年は心なしか嬉しそうな笑顔を浮かべながら、説明を始めた。
「ご主人は、この屋敷のご主人だよ。オレたちはご主人と一緒に暮らしてる、だから……どっちかって言ったら『家族』なんじゃないかな?」
自分で言った『家族』という言葉が、ずいぶん気に入っているらしく。
噛み締めるように小さな拳を胸に当てながら、少年はそっと目を伏せて微笑んでいた。ぱたぱたと、腰の辺りで尻尾が揺れる。
「ご主人は、すごいんだよ…優しいし綺麗だし頭も良いし、オレたちのことすごくすごく大事に思ってくれてる。…きみのことだって、きっと。」
少年はそっと立ち上がり、人懐っこい笑顔を向けてきた。
さっきとは違う、心からの笑顔。
…『ご主人』という人のことを思い出して、心が落ち着いたのかもしれない。
そのまま優しく、少年は語りかける――。
「きみだって、苦しかったかもしれないけどさ。ここにはご主人もいるし、みんなもいる。だから――」
「……なんだ、"苦しかった"って…?」
――『少年』の鋭い声が、その言葉を遮った。
"苦しかった"……その言葉が、『少年』の中から抜け落ちていた何かの記憶に繋がる気がしたから。
言葉に圧を感じて、犬耳の少年の目にまた僅かな怯えが浮かぶ。それでもぐっと堪えるようにして、真っ直ぐ『少年』を見つめながら言葉を探す。
「だって…言いにくいけどさ……こうして今ここにいるってことは、きみも……」
『少年』の脳が、反応したように動き出す。
"苦しかった"……その記憶が、確かにある。眠っている。『少年』の意志と関係なく、稼働し出した脳はその記憶を引きずり出そうとする。
少年の口が動く。
何故だかその声が、『少年』自身のものと重なって聞こえる。
――俺は。
――きみは。
―――一度死んだのだから。
…
……
………脳の中で火花が散るようだった。
一度きっかけが生まれた途端、記憶は栓を抜いたように蘇ってくる。
雪の中に沈む身体。虚ろになる視界。全身への刺すような痛み。…全てのことが、嫌なくらい鮮明に。
「ねえ…大丈夫…?顔色良くないよ…。」
犬耳の少年が、心配そうに覗き込んでくる。
申し訳なさそうな、罪悪感を抱いた表情。
揺れる瞳で、それを見上げていた『少年』は――不意に片手でその身体を、乱暴に振り払った。
「わっ!?」
少年は小さく悲鳴を上げて、バランスを崩す。
それすら意に介さず、『少年』は二本の足で立ち上がった。
違和感はあるが、構ってはいられない。
不器用に踏み出そうとする一歩を、少年の声が止めた。
「どうしたの…どこに行くつもり…?」
「……出てく。」
「えっ!?…ちょ、ちょっと!」
背中に聞こえる少年の叫びを無視して、一歩ずつ進もうとする……けれど、足が思うように動かない。
二足歩行に慣れていないだけではない。
歩こうとする度、右足に激痛が走る。
「っ……!」
堪らず姿勢が崩れ、突っ伏すように倒れ込む。
…どうしてだ。
確かに死ぬ前に足をケガしたが、それがどうしてこの身体にも残っているんだ。
分からない。分からないことが多すぎる。
澱のように積もり続ける疑問の全てから逃げ出すように、『少年』は足を引き摺ってまた進み出そうとしていた。
「っ…!ちょっと待ってってば!」
苦悶に歪む『少年』の視界に、犬耳の少年が躍り出る。栗色のセミロングを揺らしながら、必死に『少年』の腕を掴んで引き留めようとする。
「なんだよ出てくって!痛いんだろ?苦しいんだろ?なら動いちゃダメだってば!」
「関係ないだろ、お前には。」
「なんでそんな無茶するんだよ!外だってまだ吹雪だし…死んじゃうかもしれないんだよ!?」
「……関係、ないだろ。」
『少年』の表情が苦痛に歪む度、犬耳の少年は涙目になりながらその身体を止めにかかる。
…なんでお前が泣きそうなんだ。
意味が分からなかったが、それすらも無視して『少年』は先へ進もうとする。
「…何か不安なら、オレたちもいるからさ!力になれることは少ないかもだけど……でも一人よりきっと――」
「お前らは関係ないって言ってるだろ!」
ほとんど罵倒に近い大声で、『少年』は叫んでいた。
……犬耳の少年の瞳が、大きく揺れて。
遂にぽろぽろと、雫が零れ落ちて。
それでも、『少年』は止まらなかった。
足と同じくらい、痛む胸を。
張り裂けそうなのを無視して、壁づたいに歩く。
『少年』は、オオカミの頃の自分を思い出していた。
たった一人で生きてきた時間を、一人で生きなければならなかった時間を思い出していた。
姿が変わったからなんだ。
…今さら、生き方を変えることなんてできない。
知らない生き方なんて、俺にはできない。
だから止めてくれ。
引き留めないでくれ。
こんな気持ちを、生ませないでくれ。
……頼むから。
「俺は……一人で生きていけるんだよ…!」
そう叫んだとき。
『少年』の瞳からも一滴の粒が落ちたことを、『少年』自身気づいてはいなかった。
犬耳の少年の手が、力なく解ける。
これ以上、何と言って止めればいいのか分からないみたいに。
『少年』の足が、また動き出す。
…けれど、痛みが引いた訳ではない。
積み重なった苦痛が限界に達して、『少年』の身体はぐらり、と崩れた。
カーペットの敷かれた床が、近づいてくる。
ああ、くそ。
また、倒れる―――
「え………?」
覚悟していた、固い感触も。
打ちつけられた、身体の痛みもなく。
ただ『少年』の身体は、暖かく柔らかな感触に支えられ、床の上で留まっていた。
「…それが本当に、あなたの意思なら。…私は、止めたりしません。」
…耳元で、声がした。
初めて聞く、優しさに溢れた声。
どんな小鳥の囀りより、美しいと感じる声。
その声で、自分はまた誰かに抱きしめられているのだと『少年』は気づく。
暖かな体温。『少年』よりも大きな両腕。銀色の髪。顔は見えないが、優しい声。
…全てで『少年』を守るように、その身体を優しく包み込んでいた。
「だけど、あなたが未来を決める時は……笑顔でいてほしいんです。それで良かったと、心から言えるように。」
…笑顔。
ぼんやりと聞こえてきたその言葉が、何故か胸に強く残る。
不思議な感覚にとらわれていると、『少年』の身体がゆっくり起こされ、そのまま近くの椅子に預けられた。
…初めて、相手の顔が見えた。
銀の髪に彩られた、女性の顔だった。
その肌は百合の花のように白く、透き通るほどにすら感じる。
顔立ちは整っていながら、硬さを感じない柔和な印象を受ける。
長い睫毛をたたえた、宝石のような蒼の瞳。
赤縁の眼鏡をかけ、優しく微笑む頬。
逆立っていた心が、いつの間にか落ち着いている。
綺麗、という言葉が、自然と浮かんだ。
たぶん、今まで見てきた何よりも、この人間が「綺麗」だ、と。
ふと、犬耳の少年に視線が移った。
少年は女性を見て、安心しきったように笑っている。
そのまま女性に抱きつき、嬉しそうに頬擦りしてから言った。
「おかえりなさい、ご主人!」
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