第2話 きみとのはじめまして
孤狼
ごうごうと、怒号のような音を響かせながら。
大荒れの吹雪が山を包み込んでいた。
吹き付ける雪は木を覆い、川を覆い、地面を覆い……食らうように、山を白に染めていく。
荒々しく告げられる冬の訪れは、すでに1週間に及んでいた。
それを予期して冬眠の準備を進めていた
大慌てで雪を凌げる場所に逃げ込む
この山に生きる、数多の生物たち全てが知っている。
この荒れ狂う白の世界ではまともに生きられないことを。
だから身を隠す。生き残るために。生きたいという本能のために。
――ただ、そう願わない
低い唸り声と共に、白んだ息が吐き出される。
声の主、艶やかな毛並みを備えた黒のオオカミは、たった一匹でこの吹雪の只中にいた。
周りには誰もいない。
誰も、来ることができない。
オオカミがいるのはほぼ垂直に切り立った、深い崖の一番底なのだから。
…どのみち、初めから独りだけどな。
自嘲ぎみに、オオカミは笑う。
…こんな場所で誰かに出会えたら、そいつはきっと俺と並ぶ間抜けってことだろう。
右の後ろ足が、ずきずきと痛む。
オオカミはまた低く唸り、顔をしかめた。
忌々しげに崖を見上げる。
あの高さから落ちておいて、まだ中途半端に生きてやがる。そんな自分に、無性に腹がたった。
――オオカミは、生きることを諦めていた。
終わりを求めて、吹雪の中を彷徨っていた。
視界が霞んでいたせいで崖から足を滑らせたのは、さすがに想定外だったけれど。
誰の目にも届かない、こんな場所で最期を迎えるのは、出来すぎなほど自分の人生らしい…オオカミは、静かにそう思った。
琥珀色の瞳を、空に向ける。
早送りのように雲が流れる、澱んだ灰色の空。
薄汚れた色の雲に覆われた、昼とも夜とも知れない空。
…太陽さえ、俺を看取ってはくれないらしい。
空を仰ぐオオカミの瞳をも、吹き付ける雪が覆っていった。
震える息を吐きながら、オオカミの黒い身体は少しずつ、降り積もる雪に沈んでいく。
感覚を失った四肢では歩くことはおろか、立っていることも叶わない。
ふらふらと耐えていたのも限界に達し、前足から力なく地面に倒れ込んだ。
黒の毛並みが、少しずつ雪の白に侵されていく。
全身を包む、刺すような寒気が、体力を奪い続ける。
…やがて、オオカミは崩れるように地に伏した。
少しずつ、身体が生きるのを止めていく。
尻尾がへたり、と垂れ、立っていた耳も力なく伏せる。
もはや身体は、自分の意思で動かせない。
寒さと痛みは限界を越え、あらゆる感覚の境目が分からなくなる。
……静かに、眠気が襲ってきた。
どこまでも深くに誘われるような。
二度と戻っては来られないような。
虚ろな琥珀色の瞳から、輝きが消える。
世界が、写らなくなる。
怒号のような吹雪さえも聞こえなくなる。
色も音も抜け落ちた世界で、オオカミは眠るように眼を閉じた。
…ようやく、終われるんだな。
…意外と呆気ないもんなんだな。
俺は…………
……最後まで独りなんだな。
気づいたとき、オオカミは吼えていた。
振り絞るような、か細い声で。
覆われた空に、必死に手を伸ばすように。
その声を
全ての音を
――吹雪は、飲み込むように掻き消した。
ーーーーー
暗く深い、海の底にいるみたいに。
くぐもった声が、遠くから聞こえてくる。
誰かが会話をしているような声。
ぼんやりと、 『彼』はそれを聞いていた。
「…大丈夫なのかな…ぜんぜん目を覚まさないけど…」
「ふふっ、大丈夫。この子はただ眠ってるだけだよ。」
水面から、少しずつ引き上げられるみたいに。
声が、光が、徐々に輪郭を帯びてくる。
世界が、はっきりしてくる。
『彼』は思い出す。
記憶を少しずつ、遡るようにして。
初めは、一番新しい記憶から。
真っ白な世界にうずくまる、真っ黒な自分。
震える吐息。琥珀色の瞳。耳。尻尾。
――オオカミと呼ばれる
「そっか。フィユは新しい子に会うの、初めてだもんね。」
「…うん。…ボクもこんな風に眠ってたの?」
「ふふふ、そうだよ。かわいい子が来たなーって思ったなぁ。」
「ふぁ…!は、恥ずかしいよクートお兄ちゃん…!」
―――不思議な感覚だった。
賑やかな声が聞こえてきて、瞼越しだが光も感じられる。
……音も光も、もう感じられなかったはずなのに。
……どうして、感じられなくなった?
……決まってるだろう。
……だって俺は、もう
死んだのだから。
ーーーーー
ーーー
ー
「………っ!」
『彼』は思わず目を見開き、勢いのままにがばっと身体を起こしていた。
身体の内側に、見えない手が入り込んでくるようだった。ゆっくりと心臓を撫でられ、包まれ…手に力が込められれば、簡単に握り潰される…例えるならばそんな恐怖。
痛いくらいの怖気と吐き気に襲われて、『彼』の意識は無理矢理覚醒させられた。
鼓動がうるさい。
全身に、嫌な汗が纏わりついている。
だというのに、これ程の恐怖を与えた記憶は、『彼』の中で既に朧気になりつつあった。
「わっ!」
「ひゃあっ!?」
突然『彼』が起き上がったことで、隣では小さな悲鳴が二つ上がっていた。
「…………っ?」
その悲鳴で初めて人影に気づき、『彼』は困惑したように横を見やる。
そこにいたのは、ぱっちりとした目を丸く見開いた栗色の髪をした少年と、怯えたようにその腕に抱きつく肌も髪も真っ白な幼い少年。
…目を引くのはその頭。栗色髪の少年には髪と同じ色の犬耳が、短い白髪の少年には髪より長く垂れた兎耳が付いている。
…動物の耳が、どうして人間に。
当然の疑問が、『彼』の脳裏に過る。
――けれど、それはすぐに別の疑問で上書きされた。
…始めは、僅かな違和感だった。
自分の目線が、少し高い気がした。
すぐに、違和感がそれだけではないことに気づく。
身体の感じも、どこかおかしい。
いつも動かしていた、自分の身体ではないような気がする。
…そもそも、今いるこの場所はいったいどこだ?
疑問だらけの頭をゆっくり回して、『彼』は周囲を確認する。
四方を囲む壁の中、初めて見る物があちこちに設置された場所。
…なんとなく知っている。
これは人間が暮らす、『家』とかいうものだ。
隣にいる、動物の耳を持った少年たち。
ここは彼らの『家』なのだろうか。
…だとしても、なぜ自分がここに?
人間でない、オオカミのはずの自分が………
「……っ!?」
何とはなしに、手を伸ばした瞬間だった。
初めて視界に入った手を、自分自身の体を見て、疑問だらけだった『彼』の思考は真っ白に塗り替えられた。
それほどの衝撃。息の仕方を、一瞬忘れる。
黒の毛皮も、獲物を引き裂く爪もない。
ただ細く白く、五本に分かれた指先だけが伸びるその手は紛れもなく―――
『彼』の瞳が、大きく揺れる。
真っ白の思考が、やがてぐちゃぐちゃと歪み始める。
…自分の身に、何が起きたのか。
分からない。理解が追い付かない。
目眩を覚える瞳で、『彼』はもう一度部屋を見渡す。
…近くの窓ガラスに目を付け、覗きこむように身を乗り出した。
ガラスの中に浮かぶ、『彼』の姿。
琥珀色の瞳が、それを静かに写し出す―――
「っ――――!」
息を飲む、鋭い音が谺する。
鏡が写した『彼』の姿は、『彼』自身にさえ全く覚えのないものに―――人間の姿に、変わっていた。
体を支える二本の足も、力なく垂れる二本の腕も、黒の毛皮に纏われていない。
ただ背中を覆うほどに、長い黒髪は伸びているけれど。
見開かれた琥珀の瞳が収まるその顔さえ、線の細くやや幼い、人間の少年のようなものになっている。
「……なんだよ、これ…………」
衝撃に飲まれ、零れ落ちた言葉すら人間のものになっていると気づかずに。
オオカミであったはずの『少年』は、自分を瞳に写したまま、呆然と立ち尽くしていた。
――――――――――――――――――――
第2話は過去編になります。
狼耳の少年(もちろんあの子なのですが、今のところはこの呼び方で)の、始まりのお話です。
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