007
昨日同様、夏の生暖かい風を感じながら、俺はビルの谷間を飛んでいた。昨日と同じルートで勝手は分かっているはずなのに、重い心が飛ぶ速度を鈍らせた。
覚悟はできている。
明確な結論も用意している。
その結果、もし黒槍と戦闘になったとしても戦う用意もある。
準備は全て完了しているはずなのに、何かが心に突っかかっている。
いや、何かというのは自分を誤魔化しているに過ぎない。それが本当は何なのかを理解している。俺は失敗するのが怖いのだ。失敗が怖いなら逃げ出してしまえば、解決する問題も多々存在するが、今回に限って逃げるという選択肢は消滅している。
絶対に失敗できない。失敗したくない。
「昨日までの俺は先輩の事をどう思っていたっけ」
誰にも聞こえない空で、俺は独り言を呟いた。
勿論、帰ってくる言葉など無く、体で風を切る音だけが虚しく聞こえるだけだ。
ビルの屋上に到着した俺は、昨日と同じ入り口から同じように下に降りていく。十五階は今日も廊下の電気だけが点いていた。念のため室内を見て回り誰も居ないことを確認し、俺は社長室の扉をノックした。
「どうぞ」
室内から今朝聞いた声が返ってくる。俺はやや強めにドアを開いた。
中には昨日と同じように社長机の上で胡坐をかき、窓の向こうに浮かぶ月を眺める鬼が居た。
「面接ってこういう感じなのかな。ノックしたりしてさ。俺高校生だからやったことねーけど」
「ははっ。面接はこんな夜中にやらねーさ。それに、その入り方じゃ不合格だ」
鬼の仮面を被った殺し屋は、俺の顔を確認すると、おもむろに鬼の仮面を外しゴミ箱に捨てた。
「いいのかよ」
「大丈夫さ。ここの会社は朝七時から清掃員が入って、社員が出社してくるまでの間に、ごみを収集してくれるんだ」
「そこじゃねーよ。その仮面捨てていいのかよって意味」
黒槍は少し名残惜しそうにゴミ箱を眺めと、小馬鹿にするように笑った。
「兄ちゃんが来てくれれば、どんな答えが返って来ようとこうするって決めてたんだ。返答を聞く前に礼を言っておく。オイラは、兄ちゃんが来てくれただけで、本当に嬉しいよ。ありがとう」
「礼をしてくれたところ悪いけど、単刀直入に結論を言う。爺さんの提案は飲めない」
「……そうかい」
黒槍は再度窓の外に目を移し、月をぼうっと眺め始めた。襲ってこられても対応できるように準備はしてきたが、その必要はなさそうだ。
「で、爺さんどうすんだよ。先輩を殺しに行くのか?」
「まさか。これから黎明に合って説明して、可能な限り抗うだけさ。殺し屋には御似合いの末路だ」
「そうだな……ちなみにさ、殺し屋ってのはいくらで雇えるもんなんだ?」
「どういうことだい?」
俺はポケットから財布を取り出すと、爺さんに向かって投げつけた。爺さんは後ろ向きのまま器用にキャッチすると何も言わず財布を眺めていた。
「巷で話題の殺し屋ってっていうのは、高校生の小遣いでも雇えたりするのか?」
「狩人と……他の三人と正面から殺り合おうってのかい」
「そうだ」
「正気か?」
「三対三だろ?」
「お前さんは、その歳にしては上出来な忍だ。でも俺達はプロだぜ。戦闘技術においてはお前より何枚も上手だ」
「でも俺はアンタと互角にやり合った。先輩の強襲も何回も躱してる」
「黎明はわざと手加減してやってんだろ。オイラだって昨日は本気じゃなかった」
「実は俺も本気じゃなかった。手加減してたの」
「それにオイラや黎明とは比べ物にならねぇ化け物がいる。抜刀だ。あいつはやべえ。オイラた達とは比べ物にならねえ根っからの殺人鬼だ」
「だから昨日は手加減したんだって。爺さんみたいな声だったし、お年寄りは大切にって小学校で習ったから」」
「オイラだってすげー手加減してたわ。ガキ相手に最初から本気出す殺し屋なんているわけねーだろ」
「俺は手加減した上に、ここ来る前足くじいて、足の調子も悪かった。でも治った。今日だったら抜刀だろうと抜刀斎だろうと誰でも倒せる自信があるね。俺ツエー無双できる自信がある。全員冨樫にしてやるぜ」
「冨樫ってなんだよ」
「『動かねー体』って意味……らしいぞ。あんたの孫いわくな」
黒槍は黙り込み俯いたまま動かなくなる。すると、徐々に肩が震え小さな笑い声が聞こえてきた。
「はっ、はは、はははあははっ!」
声は次第に大きくなり、黒槍は仰け反りながら大声で笑いだした。不安を消し去ってしまいそうな愉快な笑い声が部屋の中に轟き、いつの間にか俺もつられて笑っていた。
俺と爺さんの笑い声が混ざり合い、蒸し暑さに拍車がかかる。でも悪くない気分だ。さっきまでの鬱蒼とした空気が浄化され、気持ちが軽くなっていくのを感じる。
「いやー参った。兄ちゃんに頼んで正解だった。よりによって一番面倒なもの選ぶとは、随分と変わり者の忍者もいたもんだ」
「変わり者の殺し屋には丁度いいだろ。変わり者の孫娘にもな。変わり者も三人そろえば、少しはまともかしんねーぞ」
黒槍……時雨坂善三は「そうだな」と言うと、机の上から降り俺の前に立った。「仕事は終わりだ。俺も定年退職していい歳だからな。ここの社長には悪いが帰らせてもらうとするわ」
「ははっ、これで爺さんも立派な裏切者だな。こうなりゃどっちみちアンタも殺されるんだ。お互い割り切ろうぜ」
爺さんの所に近寄ろうとしたその時、背後の扉からパチパチと手を叩く音が社長室に響いた。突如湧いて出た気配で部屋の空気が凍りつく。全身をくまなく悪寒が走り抜け、一瞬にして酸素が薄くなったかのような息苦しさを感じた。
「そうですね。割り切ってもらったほうが、こちらとしてもやりやすい」
それは、聞き覚えの無い男の声だった。
扉の向こう側から届いたその声を聞いた瞬間、俺は即座に扉から距離をとり小刀を構える。爺さんもすぐに槍を展開した。
「爺さん。あいつが抜刀か?」
爺さんは黙って小さく頷く。額から落ちる一滴の汗が、頬に線を作っていた。
「あんな大見え切っといてあれなんだけどよ、今日のところは逃げる事だけ考えておいた方がいいぜ兄ちゃん。抜刀相手に作戦無しはキツすぎる」
「声から察するに、中年の男だな。確かにヤバそうな感じはするけど、そんなに強えーの?」
「強い弱いってより、あいつは殺しが『上手い』んだ。名前の通り、居合切りを使うんだが、ありゃ芸術もんだ。一枚の紙を薄く切って二枚にできるらしいぜ」
「スゲーな。殺し屋よりユーチューバーとかのほうが儲かるんじゃねーの」
嫌な音を立ゆっくりと扉が開き、一人分の影が侵入してきた。
身長は180センチくらい。黒いコートを身に纏い、頭には西洋甲冑のような形状で後頭部から一本角を生やした一つ目の鬼を被っている。左手には濃紫色の鞘に入った日本刀を携え、窓から差し込む月光に照らされ不気味輝いていた。
「お久しぶりです黒槍。いや、時雨坂善三と言うべきですか。まったく、家族そろって身勝手な方たちです」
「できればオイラは一生会いたくなかったぜ抜刀。どっかで野垂れ死んでくれれば良かったんだけどなあ」
抜刀は何も言わず、俺の方へ視線を移した。外見からは睨みつけているのか笑っているのかは判断できかねるが、全身から嫌な気配を垂れ流しにしている。
殺気とも違う感覚だ。こんな感じのものを、今まで数回経験したことがある。カテゴリーは違えど、そいつらには共通して狂った感性が備わっている。
「服鳥家次期当主、服鳥律月くんでしょうか?」
「次期当主かどうか知れなーけど合ってるよ」
「黒槍や大剣……いえ、君には時雨坂黎明と言った方が分かりやすそうですね。どこまで狩人について聞いているのでしょうか?」
「抜刀って頭のイカレタ奴が居るって事は聞いてるよ。その仮面なんだ?個性出してるつもりかもしれないけど浮いてるぞ。マジダサい」
「……そうですか。では、君に二つほど提案したいことがあります。決して悪い提案ではありません。一つ目の提案を受け入れていただけるなら、二つ目の提案は聞いてもらわなくて結構です」
「……とりあえず言ってみろ」
「では一つ目。時雨坂善三をこちらに引き渡してもらえないでしょうか。そうすれば、キミがこの件に関わったことには目を瞑りましょう」
「仮面被ってる奴が目を瞑るって何?ギャグのつもりか?」
「いえ、私としても、服部家という忍者の名門と戦うのは、できれば避けたいのです。貴方一人を殺してしまうと、服部家とその門下が我々を全力で潰しに来るでしょう。それは望むところではありません。ですから、ここは穏便に、時雨坂善三と時雨坂黎明に関しては忘れてもらう、というのはいかがでしょうか」
俺は無意識のうちに、手に持っていたクナイを抜刀に投げつけた。抜刀は鞘に入った刀でクナイを上に弾き、心地いい音とともにクナイが天井に刺さった。
「ごめん。間違えた。手が滑った」
「気にしないでください。手が滑る事なんて誰でもありますよ。二つ目の提案ですが、もし一つ目の提案が飲めないのでしたら、明日の夜まで二人を確保しててほしいのです。生憎、私は一日一人しか殺さない、しかも午後九時から午前四時の間でしか殺さないと、心に堅く誓っているので。そうしてもらえると、こっちは大助かりなのですが、いかがでしょうか」
抜刀が言い終わると同時に、返答代わりのクナイを再度投げつける。抜刀は再びクナイを上に弾き、クナイが天井に刺さった。
「また手が滑ったのでしょうか」
「それが返答だ」
抜刀は「素晴らしい」と言いパチパチと手を叩いた。「二人が抜けた後には、是非とも狩人に入っていただきたい」
「爺さん。予定変更だ。とりあえずこいつを今から片付ける」
「勝算も無く挑むのは無謀だぜ」
「勝算はあるさ。あんたが俺の言う通りに動いてくれればな」
爺さんは「やれやれ」と呆れ槍を構える。抜刀も腰に刀を戻し、居合切りの体制で迎撃準備を完了していた。
相手の実力は未知数。だが勝ち筋の『仕込み』は完了した。後はそれがどこまで通用するかの勝負。
俺は腰から小刀を抜き、すぐさま抜刀に距離を詰める―――と見せかけ、手に結んである釣糸を床に叩きつけるように引っ張った。
抜刀に弾かれ、天井に突き刺さったクナイと繋がっている釣糸は勢いよく落下し、抜刀の頭上に来たところで、ポケットの中にある起爆スイッチを強く押し込んだ。
「爺さん伏せろ!」
爺さんはすぐさま伏せの体制に移行する。その直後、抜刀の頭上に落下してきた『クナイ型手榴弾』が閃光と共に炎に包まれ、爆音とともに社長室の窓ガラスが一斉に割れた。
爆発の際、抜刀は大きく吹き飛ばされ、背後の壁に吸い込まれるように叩きつけられた。致命傷は与えたが、あれならギリギリ生きている。
「あー、湿気ってなくてよかった。久々に使ったから」
「おい兄ちゃん!あんた忍者だろ!全然忍んでねーじゃん!」
「最近の忍者はハイテクなんだよ」
俺はポーチから消火煙幕を取り出し、火の中に投げ入れる。一瞬にして白い煙が炎を包み込み、炎は跡形もなく消え去った。
「朝に来る清掃員ってさ、この丸焦げの部屋とかも掃除してくれたりする?」
「するわけねーだろ」
「ついでに、瀕死の抜刀も片付けてくれねーかな」
抜刀を確認するため、俺たちは煙の向こうに目を凝らす。霧のように部屋を覆う煙が、割れた窓ガラスから流れ出し、薄っすらと向こうの壁が可視できる。
「……抜刀は死んだのか」
「俺に人殺しができるわけないじゃん。火薬量は調整してある。重体だと思うけど」
「いいえ……まだ少し動けますねぇ」
背後からの声と同時に、肉を切り裂くが聞こえた。すぐさま後ろに飛び、距離をとりつつ背後を確認する。
そこには肩で息をする満身創痍の抜刀と、血まみれの爺さんが横たわっていた。
抜刀はコートを身に着けておらず、仮面の左上が黒ずんでいた。死ぬことはなくても、体の一部が抉れる程度には威力をもたせたはずだが、想像以上に鬼の面は頑丈な素材でできているらしい。爺さんと先輩の仮面は木製だったが、全員同じ素材の面を使っているわけではないのか。
「いやはや。明日の打ち合わせに黒槍に会い来ただけだったのですが、まさかこんな事になるとは思いませんでしたよ」
クナイの投擲モーションに差し掛かったところで、抜刀は「動くな」と口を開き、刀を爺さんの首元に添える。命令口調の一言が、先ほどまでの丁寧な『お願い』とは別のものだと俺に強く認識させた。
「さっきも言いましたが、私は一日に一人しか殺しません。そういう自分ルールなんです。今日は既に一人殺しているので、できれば『今日は』黒槍を殺したくないんです。そこで提案なのですが、今日のところは私を見逃してくれないでしょうか」
「断ったら?」
「見ての通り満身創痍なんでね。さっきのように、クナイを弾くことは難しいと思いますが、飛んでくるまでの間に老人の首を撥ねるくらいは出来ますね」
カチャリと、嫌な音を立て、爺さんの首に刃が押し付けられる。
「明日先輩を殺すのか?」
「殺します。何か月もかけて忍者一人殺せない殺し屋など、殺し屋失格ですから」
「それには同感だな」
俺は得物を下ろし、抜刀も刀を鞘に納めた。抜刀は俺の横を悠々と通りぬけ、脱いだコートの塵を払って身に着ける。
俺が爺さんを見捨てることはないと、見透かしていると言わんばかりの余裕な態度に腹が立った。
「俺と先輩は明日学校に居るからさ。お仲間連れて遊びに来いよ。満身創痍の殺し屋一人ボコっても面白くないから」
「ご忠告ありがとうございます」
抜刀は勢いよく割れた窓の方へ走り出すと、そのまま下に落下していった。もしかして下で死んでいるかもと思い、念のため確認するが抜刀の姿はどこにもなかった。
「何が満身創痍だよ。めっちゃ元気じゃん」
ビルの下を眺めていると、背後から「おぉぃ」と、消え入りそうな声が聞こえる。俺は装備ポーチを漁りながら、声の元へ近づいた。
「思ったより元気そうだな」
「……久々に泣きそうだ」
爺さんは苦悶の表情を浮かべながら、芋虫のように悶えていた。傷口は細い線のように綺麗だった。余計な傷をつけず、真っすぐ体に刀を入れ抜き出すのは非常に難しい。爺さんの言った芸術的な技術というのも頷ける。
「殺し屋が腹に一つ穴開いたくらいで泣くなよ。応急処置したら病院行くぞ」
久しぶりに使う応急キットは、説明書を読んでも使い方がイマイチ分からなかった。いっそアフロさんに連絡して使い方を聞いた方が早いかと考えたところで、丸焦げの部屋を見渡した。
「この部屋のどうやって誤魔化そう」
俺はアフロさんに連絡することを諦め自力で応急処置を施すと、爺さんを抱え逃げるようにビルを後にした。
青春シノビのディストレス―殺人少女は後輩忍者を殺したい― 漉環利郊 @rokuwa-rikou
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