006

 部室を後にした俺は、まっすぐ帰宅せず公園や河川敷を当ても無く彷徨っていた。風に当たりながら最善策を模索するが、妙案が浮かぶ気配は一向にない。見るからに悩んでいる様に振舞えば、神様が名案をくれたりしないかなーと思っての行動だったが、完全に時間を無駄にしてしまった。

 悶々とした気持ちを抱えながら帰宅する。家に着いた時には十九時を過ぎていた。

 姉さんに悟られたくないため、いつも通りのテンションを意識し「ただいまー」と戸を開ける。姉さんは台所からひょっこり顔を出し、「おかえりなさい。すぐ御飯にしますよー」と笑顔で返してくれた。他愛の無いやり取りが、今は心地いい。

 自室に戻り着替えている途中、姿鏡に映った自分の顔色に驚いた。インフルエンザとノロウィルスに同時に罹ったかのような具合の悪そうな顔をしている。同時に罹ったこと無いけど。

「あー駄目だ駄目だ」

 俺はパチパチと頬を叩き、バイタルを無理やり正常に戻した。こんな顔を姉さんに見られたら、なんて言われるか分かったもんじゃない。天然の姉さんなら、即入院手続きを始める可能性もあるだろう。

 入念に顔をチェックし、顔がいつも通りな事を確認してダイニングへと向かった。

「今日は部活遅かったのね。小説はちゃんと進んでる?」と姉さんが言い、俺は「まぁね」と適当に返事をした。

 いつも通りに席に座り、いつも通りに「いただきます」と言って、いつも通りに夕食を摂る。平然を装おう訓練も小さい頃に受けている。機微は見せていない。俺はいつも通りに振舞えている。

 姉さんは気づいていない様で、他愛の無い話をしながらいつも通りに笑っていた。いつもなら鈍感だとか能天気だとか思うんだろうけど、今日ばかりはそんな姉さんに救われる。

「ご馳走様」と言って食器を下げようとした時、唐突に姉さんが「時雨坂さんとはどんな感じ?」と口を開いた。

「特に変わったことなんて無いよ。何で?」

「なんとなく。特に深い意味は無いけど」

「あっそ」

「ただ帰ってきたとき顔色悪かったから。まるでインフルエンザとノロウィルスに同時に罹ったような顔してた」

「……」

「もしくは死にかけのアザラシ」

「ごめん。それは分かんない」

 ここ最近、姉さんの中では『死にかけたアザラシ』がマイブームのようだ。早急に昇天して欲しい限りである。

「何かあったなら、姉さんに相談に乗るよ?」

 姉さんの問いかけに答えることなく、俺は黙々と食器を洗い続けた。

 服鳥香澄。元くノ一。今でこそ俺の親代わりをしてくれるが、両親が死ぬまでは現役の忍だった。俺より才能も技術もあったのに、長男である俺が未熟なばっかりに、姉さんは忍びの道を断った。

 自分の不出来に腹が立つ。あのときから筆舌に尽くしがたい後悔を抱いて俺は生きてきた。

 だからこそ、余計な事に姉さんを巻き込みたくない。巻き込むわけにはいかない。

 幸い姉さんはド天然だ。というか馬鹿だ。

 俺が上手く立ち回れば、気を遣わせることも、面倒ごとに巻き込むことも避けることができる。俺がしっかりすれば。

「姉さんに相談に乗るよ?」

 いつの間にか背後まで来ていた姉さんがツンツンと肩を叩く。俺は手を止めることなく「相談するようなことなんて無いよ」と言う。

「でも顔変だよ?」

「生まれつき」

「じゃなくて顔色」

「帰ってきた時でしょ。外暑かったんだよ。部活で疲れてたし」

「……今もだよ」

 思わず皿を洗う手を止め、壁に掛けてある鏡で自分の顔を確認する。

 目は薄っすら死んでおり、髪の毛はモジャモジャ。やる気の無い雰囲気が顔に張り付いている。大丈夫。平常時の俺だ。ボロは出ていない。

 言い返そうと姉さんを見ると、姉さんからいつもの笑顔は消えており、不安そうな顔で俺を見ていた。

 俺の代わりに不安を請け負ってくれている様な気さえする。いつもは天然で、鈍感で、フワフワしているのに、どうしてこういうときだけ勘が鋭いんだ。

 作っていた平静が徐々に解けいく。大きく鼻から息を吐き出すと、俺は白状するかのように「迷ってる事があるんだ」と言葉を零した。

「何?」

「例えばの話だけど、成功可能性は高いけど誰かが不幸になる選択肢と、失敗するかもしれないけど成功したら皆幸せになる選択肢があったら、姉さんはどっち選ぶ?」

 姉さんは黙って俯いた。俺は蛇口の水を止め、再び大きく息を吐き出した。

「分からない。時と場合によるだろから」

「そうだよね」

「でも律ちゃんがどっちを選ぶかは、何となく分かるよ」

「……俺は正義のヒーローって柄じゃない。なんでも一度持ち帰って吟味する性格なんだ。いつだってリスクは極力避けてきた」

「知ってる。だから悩んでるんだよね」

 姉さんは後ろから俺を抱きしめ、左手で頭を撫でた。こんな風に接するのは小学生かもしれない。恥ずかしいと思う反面、荒んだ心が少しだけ和らいでいくのを感じる。

 俺は本当に未熟だ。でも今日だけは、自分が未熟でもいいんじゃないかと思えた。

 姉さんを巻き込みたくはないが、それ以上に姉さんの期待を裏切りたくない

 姉さんは撫でるのを止めると、俺の後頭部に指でクルクルと何か書きだした。俺を励ますときにしてくれるいつもの十八番だ。

「昔から変わらないね。また不思議のおまじない?」

「うん。律ちゃんの体調が少しでも良くなりますようにって」

「さっきより大分マシになったよ」

「よかった」

「皿洗いまだ途中だけど……今日だけ任せていいかな?」

「いいよ」

 姉さんは後頭部をポンポンと優しく叩いて俺から離れた。

 不安要素が減ったわけじゃない。ほんの少し気持ちが軽くなっただけだ。

 それでも、一歩踏み出すくらいの充電はできた。あとは流れに身を任せ、幸運を祈るくらいしかないだろう。

 俺はキッチンから一歩出たところで、咄嗟にある事を思い出し「もう一個聞きたいことあるんだけど」と言って振り返った。

「さっきの『おまじない』って何書いたの?」

 後頭部を指さしながら尋ねると、姉さんはクスクス笑いながら口元を押さえた。その表情にさっきまでの不安は見る影もない。やっぱり、姉さんは笑っている顔が一番綺麗だ。

「縁起の良いもの」

「何それ?」

「知りたい?」

「知りたい」

「死にかけのアザラシ」

「……」

 とりあえず、出発前に後頭部を重点的に洗おうと心に決めた。

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