005

 夏休み二日目の朝。俺はわざと遅刻するように家を出た。

 急かす姉さんを適当に誤魔化し、いつもよりゆっくりのペースで、遠回りをしながら学校までの道のりを進んでいく。

 色々と考えなくてはならない事があるはずなのに、頭がちっとも働かない。昨日の事を思い出そうとする度、先輩の唇の感触が考える事を邪魔してくる。昨日までは面倒くさいだけの人だと思っていたのに、たかだか数十時間でここまで気持ちが変動することを誰が予想できただろうか。

 夏休みは人を変えると聞いたことがある。

 夏休み前まで清楚だった委員長が、夏休みが明けると茶色に髪を染めピアスを付けていたりだとか。

 特徴のない平凡な男子が、金髪に日焼けと、テンプレートなチャラ男になっていたりだとか。都市伝説だと思っていたが、今の自分を俯瞰すると本当の事に思えてくる。

 二日でこんな調子の俺だ。夏休みが終わる頃には、金髪アフロとかになってても不思議ではない。不幸にもアフロに詳しい人が身近にいる。

 本当に考えなくてはいけないことから目を逸らし、不毛な事なかり考えていると、いつの間にか学校に着いてしまった。

 どんな顔で先輩に会えばいいのだろうか。いや、普通の顔で会うのが一番に決まっている。しかし、今の俺には普通に接するという事が一番難しい。昨日までどんな風に接していたかも、よく覚えていない。

 いっそ、先輩を受け入れてしまえば楽かもと、そんなことまで考えてしまう。

 いつか先輩に殺されるかもしれないけど、悩まないという一点を突き詰めるなら、それが最良の答えなのではないだろうか。

 もし狩人がこの街に来ず、昨日の黒槍と接触しなかったら、俺はキスされたときに勢いで先輩と付き合う事になっていたのかもしれない。

 もっとも、黒槍に会わなければ、先輩に会いに行くこともなかったが。

 狩人。集団であり集団行動をしない殺人集団。

 そんな奴らがこの街に集まってきて、俺の名前を知っている奴が居た。メンバーの一人が俺を殺そうとしていて、そのくせ俺に好意を抱いている。

 噛み合っているようで、噛み合っていない。何か大切な事を勘違いしているような気がする。

 俺は部室の前で深呼吸を挟み、ゆっくりと戸を開けた。

「あれ」

 部室には誰も居なかった。

 もしかして、怒って先に帰ったのかと思い急いで携帯を取り出すと、一通の通知が届いていた。

『今朝から熱っぽいので、今日は休みにします。服鳥君も熱っぽいと思うので、各自家で作業をしましょう』とのことだった。

 俺は再び溜息を吐き出す。さすがに来て早々、炎天下の中を再度歩きたくないと思い、窓を開け自分の椅子に腰かけた。

 寂しいような、でもほっとしたような気分。

 蝉の鳴き声と野球部の掛け声だけが聞こえる部室で、俺は何も考えず外を眺めていた。窓から吹き抜けていく風が心地いい。徐々に瞼が閉じていく。

 そんな夢心地を楽しんでいると、戸を叩く音が部屋に響いた。俺は反射的に返事をして顔を上げた。

「ちょいと失礼。文芸部さんってのはここの教室であってるかね?」

 そこにいたのは見覚えのない爺さんだった。緑色のポロシャツにベージュのベレー帽を被り、ショルダーバッグを肩にかけている。笑っているかのような糸目から、優しそうな印象を受ける。

「はい、そうですけど。えっと、何か御用でしょうか」

 ぎこちない言葉で応対する。爺さんは室内を見渡した後、腰を数回叩いて「少し腰かけてもいいかね」と言った。俺はどうぞと先輩の席へと促した。

「実際にこの教室に入ったのは初めてだ。気持ちい風だな。夏の匂いを感じる」

 爺さんは羨ましそうに、白球を追いかける野球部を眺めていた。その腰の様子から

 察するに、あまり丈夫な足腰ではないのだろう。外を見つめる目は、どこか悲しげにも見える。

「もしかして、この学校のOBの方ですか?」

「いいや。この学校には、知り合いに用があって寄っただけさ。子供のころ野球はやっていたがね。でもこんな立派な校庭じゃなかった。いっつも砂利があって、ひどい校庭だったよ。こんな綺麗な場所で、野球ができる子達が羨ましいね」

 うちの学校だって別段設備がわけではないのだが、爺さんくらいの年齢だと、普通の学校でも立派に見えてくるのかもしれない。あまり実感は湧かないが、普通に学校に通えるという事は幸せな事なのだろう。

「文芸部を訪ねてきたみたいですけど、文芸部の顧問の先生なら、幽霊部員ならぬ幽霊顧問状態なんで、基本的には部室に顔出したりしませんよ」

 爺さんは不思議な顔で俺を見つめると、「気づいてねえのか」と言って、ショルダーバッグを漁りだした。

「これなら嫌でも分かるだろう」

 そういうと、爺さんはバッグから出した『鬼の仮面』を顔の前で構えた。

 一本角に六つの目がある鬼の面。

 忘れるわけがない。

 刹那の硬直の後、眠気が瞬時に消え去り、全身に血液が勢いよく流れ出したのを感じる。

 俺はすぐさま背後に飛び、足首のホルスターからクナイを取り出し両手で構えた。

「妙な動きをしたら刺す」

 投擲の構えで最大限の牽制体制をとる。殺しはしない。狙うのは腕か足。この距離なら絶対に外さない自信はあるし、爺さん……黒槍は、ただ椅子に座ったまま微動だにしない。なにより、こんな狭い教室であの槍を振り回すことは絶対にできない。

「いい反応だ。やっぱり来て正解だった」

「動けば刺す。俺の質問にだけ答えろ」

 敵意をむき出しに警戒する俺を見て、黒槍は「ははっ」と笑った。

「刺したけりゃやればいい。声を出せる程度に生かしておいてくれればいいさ。昨日言ったが、俺はお前さんに頼みがあるんだ。頭を下げる元気だけ残しておいてくれれば、あとは腕で足でも、この老い耄れの四肢を持って行ってくれても構わねえ」

「……殺し屋の言う事なんて信じられると思うか」

 黒槍はバッグのチャックを全て開け、逆さにしえ見せた。中から財布や眼鏡ケース、ハンカチ等が床に散らばり、空になったバッグを廊下側に投げ捨てた。

「安心しな。得物は何も持ってきてねえ。だいたい、こんな狭い場所じゃオイラの槍は使えねえだろ。お前さんを安心させるために、わざわざ室内に来たんだぜ。まっ、それでも不安なら、オイラの両腕を早いとこ捥ぎ取ってくれや」

 黒槍は冗談のように淡々と話すものの、その言葉には不思議と説得力があった。

 覚悟を帯びているとでもいうべきか。

 忍者として生きていると、嫌でも他人の最期に関わる機会がある。そういう時、最期を覚悟した人間は目に見えない何かを纏っているように感じる。

 強さでもなければ、無謀さとも違う。それでも、明確にそこにあると実感できるもの。黒槍からもそんな気配を感じた。

 俺は黒槍を睨んだままクナイをホルスターにしまい、自分の席へ戻った。

「話くらいは聞いてやる」

「へへ。すまないね」

「敵に頭下げて、四肢差し出そうとしてまでの頼みって一体何だよ」

 俺は机の中に常備してあるクナイに手を掛けながら尋ねた。攻撃の意思が無いことは確認できたが、こんな状況で警戒まで解く馬鹿はいない。今のところは信用しておくが、いつでも刺す準備はしておく。

 黒槍は俺の机の方をチラリと見ると、見透かしたように小さく笑った。さすが殺し屋というべきか。うまく殺気を消していたつもりだが、机の中のクナイはバレているようだ。

「兄ちゃん。頼みってのは、兄ちゃんが今やろうとしている事さ」

「は?」

「黒槍……いや、時雨坂善三、一生の頼みだ―――オイラを殺してはくれないかい」

「時雨坂だと……」

 聞き覚えのある名字と、予想していなかった頼みに思考が追いついていかない。黙ったまま狼狽する俺を見て黒槍は続けた。

「兄ちゃんは、狩人の事をどこまで知ってる?」

「殺し屋で殺人鬼。五人組。メンバーが殺されたら、メンバーを殺した奴を次に入ってきたメンバーが殺しに行く掟がある事。そのくらいだ」

「ははっ。もっと知ってそうな口ぶりだな。まあ、それは元々『外部を牽制』するためのルールでな、『内部を抑制』するためのルールは他にも色々あるんだ。その内の一つが『無能殺し』と呼ばれるものだ」

「無能殺し……」

 なんだろう。とても嫌な感覚が迫ってくるようだ。噛み合わなかった歯車が嫌な音を立てて噛み合っていく。先輩の事も、黒槍の事も、狩人がこの街に集まってきたことも。

「オイラ達狩人がこの街に集まっているのは、お前さんも知ってるだろう」

「ああ。『五人』集まってきたんだろう」

 自分のたどり着いた答えを否定するように、俺は『五人』と強調したが、黒槍は首を横に振った。

「この街に集まってきたのは『四人』だ。この街にいた狩人『大剣』が、自分の先代を殺した男を見つけたのに、一向にそいつを殺そうとしない。だから、狩人のルールに従い『無能殺し』が発令された。残りの『四人』がこの街に集まったのさ」

 とどめを刺すかのように、俺の中の歯車が完成し、そして崩れ落ちた。

 つまりこいつらは、先代を殺した俺を殺しに来たのではなく、先代を殺した俺を見つけたにも関わらず、何か月も俺を生かしておく先輩―――時雨坂黎明を殺しに来たのだ。

 俺はすぐさま立ち上がり、廊下に飛び出そうとすると、「どこへ行くつもりだ」と黒槍が言った。

「先輩のところに決まってんだろ!もしかして今頃」

 黒槍は「安心しな。それは無ぇよ」と言って、ポケットからスマホを取り出し、メッセージを表示させたまま画面をこちらに向けた。外面には『大剣・期限・二十日』と記載されていた。

「期限は明日一杯だ。それまでに大剣……黎明がお前さんを殺らなきゃ、黎明は殺される。確実にな」

「……そうか」

 俺は再度ホルスターからクナイを取り出し構えた。このメッセージもコイツの言っていることも全て信じたわけじゃない。でも、もし本当なら一人でも消しておいた方がいい。

 たとえ自分の枷を外すことになろうとも。

 構える俺を見ても、黒槍は構えずじっと俺を見つめるばかりだった。

「それでいい。兄ちゃんがオイラを殺してくれれば、ひょっとしたら優先度が変わるかもしれねえ」

「どういうことだ」

「掟だろうがルールだろうが、オイラにはできねえ。自分の孫を殺す片棒を担ぐなんざ死んでも御免被る」

「……」

「あの子はよ、黎明は、小さいころから殺し屋の技術を教えられたせいか、昔は暗い性格で友達が居なくてな。助けてやりたかったが、狩人に巻き込むまいと遠くに住んでいるフリをして見守る事しかできなかった。そんな時、息子がお前に殺されたんだ。憎いと思った反面、黎明と狩人の大きな接点が消えて、嬉しくも思ったよ。でも、黎明は狩人になっちまった。あの歳なら普通の道を選ぶことだってできたのにな」

「その後、狩人の掟に従って俺を見つけ出したって事か」

 黒槍は寂しそうな顔で黙って頷いた。

「お前さんと出会って黎明は変わったよ。直接話すことはできなくても、陰から見ているだけでも分かった。殺し屋と分かった上で、愚痴を零しながらでも接してくれるのが嬉しかったんだろうな」

 俺は何も言えぬまま、茫然と立ち尽くしていた。

 黒槍はゆっくり立ち上がると、床に膝をつき深々と俺に頭を下げた。

「一生の御お願いだ。孫が幸せになりかけ途端、その孫を自ら殺すなんてオイラには絶対できねえ。どうか、どうか俺の首を手土産に、服鳥一派に狩人を狩っていただきたい」

 黒槍の言葉を聞いた途端、肩の力が抜け、いつの間にか構えを解いてた。握っているクナイがいつも以上の重く感じる。

「あんたが今ここで俺を殺しても、その問題は解決するんじゃないのか」

「それもできねえ。それはあの子の幸せを奪い取るのと同じことだ。だからどうか頼む!老い耄れの命なんざどうでもいい。あの子だけでも助けてやってくれ!」

 胸の奥から溢れ出しそうな感情を一度飲み込み、大きく息を吐いた。クナイを持つ手が微かに震える。感情を抑え込むため唇を噛みしめると、手の震えが少し大きくなった。

 自分の中には二つの回答が用意されてた。

 俺自身が先輩に殺されること。

 俺が黒槍を殺し、服鳥の忍者総出で先輩もろとも狩人を殺すこと。

 どちらも成功する成功する見込みはある。この二つ以外に最善の選択肢は無いと思って間違いない。

「さっきのスマホの画面。先輩を殺すのは二十日ってことで合ってるか」

「間違いねえ。計画を仕切っているのは抜刀っていう奴だ。あいつは物事に几帳面なんだ。一日一人しか殺さねえし、夜にしか殺さねえ変わり者だ」

「……一日だけ時間が欲しい。今夜、また社長室で合おう」

 俺は言い捨てるように言葉を投げかけた。

 案件は一度持ち帰って考える。これがいつもの俺だ。この部に入部するときは勢いに任せて入部届を出してしまったが、本来はこういう性分のはずなのだ。

 最悪だ。

 冷静に考えて行動していれば、今回のトラブルは回避できたかもしれない。本当に最悪だ。

 だからこそ、ミスは絶対に許されない。ギリギリまで考えて最善の選択肢を掴まなくてはならない。

 俺は机の上のカバンを持って教室を後にした。

 その間、黒槍はずっと頭を下げ続けていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る