第2話 ニコという女

胸元がよく見えるぶかぶかなキャミソール。ハリのある太ももをアピールするホットパンツ。廃れた酒場の横に女は立つ。


女の名前はニコ。


9歳から親の命令で売春を始め、25になった今は自分の意思で体を売っている。

ある日を境に、必死に金を稼ぐ必要がなくなった。だから今は、寝たい男としか寝ない主義だ。


カツンカツンというヒールの音が近づいてきたので、ニコは顔をあげた。友達のルカかと思ったのだ。

ルカではなかった。少年か、青年の中間、といった男が、ニコの方に歩いてくる。

元々背は高い方だろう。ヒールのせいで余計に大きくみえ、190cm近い。だが威圧感はない。

ぴったりと体のラインを浮き出すレザースーツ。貧弱ではないが、しなやかな筋肉がついているのがわかる。

フードを深くかぶっており顔はほとんど見えない。

不思議な男だったが、もっと奇妙なのはその胸元の存在だった。

男は胸で抱くタイプの抱っこ紐を付けていて、そこには赤ん坊が寝ていた。

開いている手にはずた袋を下げていて、旅人のような風情があった。


男はニコがじっと見ていることに気づいて、ペコリとお辞儀をした。

そしてニコが立っている横を通り過ぎ、酒場に入っていった。


ニコはそっと酒場のガラス窓から中を覗いた。


ヒールの男は店内でも靴音を響かせ、まっすぐカウンターに向かった。

元々、表の酒場で集まれないような連中の吹き溜りになっている場所だ。治安は良くない。

客はじろじろとヒール男を観察し、時に卑猥な言葉を掛ける。

だがヒール男は何も気にしていないようだった。

カウンター越しにバーテンダーに声をかけた。

酒場の壁は薄いので、中の声はニコにもよく聞こえる。


「ミルクをください。混ざり物のないミルクを」

「うちは託児所じゃねえんだ。そんなもんねえよ。酒を頼め。頼まないなら出てけ」

「ぼくが飲むんじゃないんです。この子にミルクをあげたいんです」

「ここがスーパーに見えんのか?ニイちゃん」

「なんなら、俺の下のミルクを飲ませてやろうか?」


周囲の罵声も加わり、ヒール男は困ったように肩を竦めた。特別怯えているようではない。ミルクがもらえない事実にだけ、さも困ったという様子だった。

そのどこか太々しい態度に、酒場の男たちも気づいたのだろう。酒場全体の空気が鋭さを増していく。

ニコは迷ったが、酒場に入っていった。

馴染みの男がニコニ気づいて声をかけたが、ニコはまっすぐヒール男に向かっていった。


「ミルクならあげる。ついてきて」


ニコは男の腕をとった。思ったよりも太く、男らしい腕だった。

周囲が色めきだったがニコは気にせずヒール男を引っ張って酒場を出た。

ヒール男は大人しくついてきた。



ニコは自分のアパートにヒール男を連れ帰った。

赤ん坊はその間、一度も起きなかった。

ニコの部屋は脱ぎ捨てた服や、口の開いたシリアルの箱が散乱していて決してきれいではなかった。

しかしヒール男はただ嬉しそうだった。ミルクがもらえるのが本当に嬉しいらしい。


「助かりました。どこに行っても手に入らなくて」

「ミルクが?あなた、馬鹿なの?あいつらと同じことは言いたくないけど、表のスーパーだろうがどこでもミルクぐらい買えるでしょ。よりによってなんであんなところに」

「表のお店にはいけません。ぼくは追われる身なので」

「はん。何やったの?その子供でも誘拐した?それとも殺人?」


ニコは冗談のつもりで言ったが、ヒール男は唯一のぞける口元で笑って答えなかった。


「ぼく、雪佳といいます。あなたは?」

「ニコ」


ニコは男の胸から赤ん坊を取り上げた。その振動で目を覚ました赤子は、弱々しく泣いた。どれほどミルクを飲んでいないのだろう。

履いている布おむつはボロボロだった。何度も洗って使っているのだろう。ミルクが手に入らないのならオムツも逼迫しているに違いない。


「明日の朝になったら、買い出しに行ってあげる。今日はミルクしかあげられない」

「本当ですか?何から何まで、ありがとうございます」


ヒール男、雪佳はフードを脱いだ。白い髪に赤い目。あどけなさを残した美形だった。

ニコは着ているキャミソールをグイッと引き下げ、片方の乳を出した。

雪佳が少し目を見開くのを小気味よく思いながら、赤子の口に乳首を含ませた。

赤子は乳房からミルクを飲んだことがないのかしばらく戸惑っていたが、やがて本能が思い出したようだった。

噛み付くように吸い上げ、必死にミルクを呑み出した。


「…あなたのお子さんは?」


雪佳が部屋を見回す。赤ん坊の気配がないことに気づいている。

ニコは乳を与え続けながら答えた。


「もういないよ。2年前、教会に連れてかれた」

「…能力者だったんですね」

「そういうこと」


懸命にミルクを飲む赤子の前髪を、ニコは優しくすいた。


「出産してすぐ、遺伝子検査で分かったんだ。私の生育環境じゃ、貴重な能力者のためにならないってんで、速攻で強制没収さ」

「お子さんの名前は?」

「マイケル」


赤子はニコの乳首を口に含んだまま眠ってしまった。そっと取り上げて、唯一きれいなバスタオルで簡易的なベッドを作り、そこに寝かせた。


「不思議だよね。あの子はもういないのに、私からはまだ乳が出る。あの子は戻ってこないのに」


ニコは二つの汚れたマグカップをティッシュで拭いた。湿気たインスタントコーヒーを目分量で入れる。


「いつもは風呂場で一人絞って、無駄になるミルクだから。今日はちょっと嬉しかったよ。久しぶりに、役立って」

「本当に助かりました。次の街に行く前に、物資を揃えたいのにどうにもならなくって」

「盗みはしないって?お綺麗なことだね」


朝に沸かしてそのままだった保温ポットの湯をカップに注ぐ。もはやぬるま湯だったが、部屋にはコーヒーの香りが広がった。


「座りなよ。私もあんたの問いに答えたんだから、あんたも教えて。それがミルクの対価」


雪佳はギシギシ軋む椅子に座って、コーヒーに口をつけた。


「あの子はあんたの子?」

「いいえ。身内の子です」

「名前は?」

「イヴァ。女の子です」

「さっきさ、追われてるって聞いたけど、誰から?」

「教会と、警察、そして、とある宗教団体からです」


ニコは押し黙った。雪佳はチラッと、眠る赤ん坊、イヴァを見やった。


「とある宗教団体が病院の新生児センターであの子を殺そうとしていると知って、ぼくは先周りして彼女を連れ出しました。宗教団体が知っていたのは、今の時期にその病院にいる新生児を生かしてはおけない、ということだけで、どれが殺すべき赤子かは知りませんでした。連中は、その新生児センターにいる赤子、関係者、目撃者、全てを殺害しました」

「…」

「事件の調査を始めた警察は、新生児の遺体が足りない事に気づきました。そして、いなくなった赤子が、教会が超重要としてリストアップしていた能力者だった事で教会も調査に参加しました。事件前の防犯カメラなどを能力者に直させ、ぼくがイヴァをさらった事に気付いたようです。彼らは重要参考人としてぼくを追っています。」

「…」

「警察の調査が進むうち、宗教団体は、殺すべき赤子が殺した赤子の中にいなかった事に気づきました。一足早くぼくの足取りを掴んだようで、ホステルを襲撃されましたが、適当に返り討ちにしました」

「返り討ちって…」

「ぼくは特級能力者なので、その辺の連中にはまず負けません」

「あんたの能力ってなんなの?」

「詳しくは言えないんですが…殺し専門です。それ以外に用途はないと言っていい」


ニコはコーヒーカップをクルクル回した。


「思ったよりやばいやつを引っ張り込んじゃったか」

「後悔してますか?」

「いや」


キッパリと否定し、顔を上げて、ニコは笑った。


「つまり、あんたは教会にとっても厄介な人間だろう」



「最高だよ、そんなら。私は今、私の子を奪った奴らを困らせてるんだ。復讐だよ。復讐。復讐。復讐。こんな楽しい事ないだろう?」


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子連れヒール男 satou @satou999

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