第1話 雪佳という男
しなやかだがしっかりと筋肉の付いたその体を包むのは、美しいボディラインを際立たせる黒いレザースーツ。
その上に羽織ったフード付きの外套をひるがえし、ヒールが10センチもある編み上げのロングブーツを鳴らして、彼は歩く。
その腕に大切に抱かれているのは、無邪気に笑う赤ん坊。
青年の名前は雪佳(せっか)。
彼の目的はただ一つ。
この赤子を無事に育て上げること。
安っぽいホステルの玄関を抜け、事前に借りていた部屋にまっすぐ向かう。125号室。
ドアを開けると湿気たカビ臭さが鼻腔を襲う。
赤ん坊にはよくない環境だ。早めにここを出よう。雪佳はそう思った。
アンティークのような古ぼけたラジオをつける。しばらくは雑音だけを喚いていたが、チューニングを合わせると少しずつ人の声になる。
”…火の手は…まだ…、…出火もとは…、児室……”
雪佳がフードを脱ぐ。あらわになった白い髪を、椅子の背にかけてあったタオルで拭く。すす汚れを取りたかったのだ。しかし部屋と同じカビ臭さが染み付いただけだった。
”…新生児たちは…全部……9人……生存は……絶望的……”
赤ん坊が雪佳に手を伸ばす。汚れを知らない、柔らかくて小さな手。雪佳が指を差し出すと、キャッキャと笑いながら意外と力強く握る。
雪佳は昔、母親が歌ってくれた子守唄を歌い始める。
「小鳥を買って、もし小鳥が鳴かなくてもダイヤの指輪を買ってあげる」
”犯人は…まだ……逃走……周囲には……医者や看護…、見舞い客……両親の…遺体が……”
「ダイヤの指輪が真鍮になったらママが鏡を買ってあげる」
”被害の規模から見…警察は…犯人は…能力者の…可能性があると…”
「鏡がわれても雄ヤギを買ってあげる」
雪佳は歌いながら、赤子を抱いてくるくる部屋を回る。カツン。カツン。ヒールを鳴らして踊る。
さっきまで静かだったドアの向こうが騒がしくなってくる。複数の男の怒鳴り声。ドタドタという喧しい足音。
「もしヤギが逃げてもまた別のを買ってあげる」
男たちの粗野な足音。それがだんだん、雪佳の美しいヒールの音に近づいてくる。
「雄牛の荷車がひっくりかえっても、Roverという犬がほえなくても、荷馬車を、荷馬車が倒れても」
雪佳は部屋の中心にトンっと両脚を揃えて立った。いっぱい揺られてご機嫌の赤ん坊の鼻先をくすぐって、にっこり笑う。
「あなたは私の宝物」
部屋の扉が爆発したような勢いで開き、男たちが雪崩れ込んでくる。その手には銃が握られている。
まず1番に部屋へ飛び込み、雪佳へ引き金を引こうとした男が、悲鳴を上げて倒れる。
銃を持っている手が、床にぼとりと落ちて跳ねる。続いて首が落ち、悲鳴は止んだ。
「1955年。メラ・リングスという男が、自分の作ったウサギ取りの罠に過って突っ込み、首を落として死亡」
雪佳は詩を諳んじるように言う。
残りの男たちは、パニックに陥る暇はなかった。数人が喉を掻き毟って苦しみだした。掻き毟られてズタズタになっていく喉は、妊婦の腹のようにぽっこり膨れている。
残りは全員、どこからか現れた何百本というフォークで顔を刺され、唇を引きちぎられ、鼻や喉から入り込んだそれらに脳まで貫かれた。
「フォークでの死因は大人から子供まで、意外と多い。どれがどれかまでは、僕にもわからないな。そっちはゴムボールでの窒息。これも、子供の死因でとても多いんだよね」
部屋のカビ臭さはすっかり気にならなくなっていた。次々と湧き立つ新鮮な血の匂いがよほど強烈だった。
血の海が広がるっていくのを横目に、雪佳は数少ない荷物をまとめて、ラジオを止めた。
動かなくなった男たちを跨ぎこし部屋を出ようとしたが、いったん、雪佳は部屋の中に戻った。
テーブルの上のメモに「床を汚してごめんなさい」と書き、札束を置く。
コツコツとヒールを鳴らして血の海を渡り、今度こそ廊下へ出た雪佳は、一度部屋を振り向いた。
「それではみなさん、さようなら」
死体たちにペコリとお辞儀をして、赤ん坊の手をバイバイと振らせてから、雪佳は歩き出した。
廊下には彼のヒールの跡が、ポツリポツリと、赤く残された。
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