灰色のアウラ(スニーカー大賞応募)

シェンマオ

第1話

私は太陽が嫌いだ。眩しいし、燃えるような明かりの下に過ごしていると、眼と頭が酷く痛む。

おかげで、外を歩く時は可愛気のない大きな麦わらを常に被っていないといけない。

だから、太陽が嫌いだ。


私の世界に色は無い。

街も人も、空も、全てが灰色。

しかし、それを悲観した事は無かった。自分の事を不幸だと、恵まれていないと思った事など一度も無かった。


「アウラ、おはよう!」


けど、周りの人はそうじゃなかった。

色の感じられない私の事を、口々に可哀想だと、ツイていないと言った。


「おはよう、サシャ」


この子もそう、同じ学校に通うサシャ・イルクーリ。

数少ない同年代の友人で、色盲である私のよき理解者。そして、私の事を可哀想だと言う人の一人。


「私ね、家からパン持ってきたんだ! 一つあげる!」


サシャの家はパン屋さん。毎日遅くまで手伝いをしているらしく、彼女の体からはいつも暖かな小麦の香りがする。


「ありがとう」と、私は礼を言い、彼女からパンを受け取る。

丸くてふっくらとしたソレは、手に持っているだけで何だか暖かな気持ちになれた。

億劫な朝の登校時間も、友達とこの暖かなパンのおかげで少しは愛する事が出来た。ちょうど、お腹も空いていた事だし。


私たちの学校は、住宅街から少し離れた海沿いに建っている。白を基調とした外観はとても洒落ていると評判だ。

パパとママも、とても褒めていた。だから私も、この学校の外観は好きだ。


大きな学校の門を潜り、靴を履き替えて自分たちの教室へ入った。室内に入ると、幾らか気分はマシになる。

相変わらず麦わらは取れないけど。


開け放たれた教室の窓からは、爽やかな海風が部屋の中に清涼を吹き込んでいる。


私の席はそんな窓際の最後列。サシャの席は真反対の廊下側、それも最前列。この学校で最も忌み嫌われる席の一つだ。


因みに私の席も嫌われている。

他の生徒曰く、髪が痛みやすいから。そんな事の為にこの席を嫌うなんて勿体無い話だと、私は思う。


クラスの中に友達の多いサシャは、既に教室の中に居た女生徒たちに一通り朝の挨拶をしてまわり、それから最後に私の席へやってきた。

彼女は大きく開け放たれた窓に少し嫌な顔をしてから、私にいつも通りの笑顔を向けてきた。彼女も、髪の質が気になるお年頃らしい。


「アウラ、今日の美術、一緒にやろうね!」


「あぁ、美術あったっけ。忘れてた」


「えー、もう授業が始まって半年は経つよ。そろそろ授業日程は覚えようよー」


「どうでもいいもん」


そう、どうでもいい。特に美術は。


「どうでもよくないよ! アウラ、忘れちゃったの? 今、結構危ない状況なんだよ?」


「知ってる、ちゃんと覚えてるよ」


私のこの投げやりな姿勢は何も美術だけに限った事ではない。

他の教科も適当に流し、眠ったり、ぼんやりしていたり。

すると、何時だったか担任に呼び出されて注意を受けた。

曰く、「このままだと退学も有り得る」との事だ。


修学の意志が無いとの判断らしい。まさか、退学とまで言われるなんて思っていなかった私はとても驚いた。

驚きはしたが、やる気が出るかはまた別だ。その証拠に今だ私の授業態度は欠片ほども改善していない。


そんな私を見て、サシャは頬を膨らませている。怒っているというより、心配しているらしい。有難い話だ。

彼女を心配させたままにするのは心外なので、私は「分かった、覚えるよ。授業日程」とサシャに言って聞かせ、出来る限りの笑顔を見せた。


そうこうしている間に、始業のベルが鳴った。

先生が教室に入ってきて、当番の生徒が号令をかける。いつも通りの光景。


座るや否や、私は机に突っ伏した。

数十分後のベルが鳴るまで、窓の外をただただ、ぼんやりと眺めていた。


海の音に耳を澄ませていると、心地がいい。何だか自分も海の一部になれるような気がする。

そうして夢の中で、自由に海の中を泳ぎ回るのだ。イルカとじゃれ合い、クジラの背に乗り、海の中から太陽を眺めるのだ。その夢には、色があった。

私が自分で色を塗り、自由に彩った。


私は海が何色かなんて知らない。

イルカやクジラがどんな色をしているかなんて、見た事も無かった。

だから私は自分で彩った。頭の筆で、何事にも縛られず。

その筆にかかれば、太陽なんて取るに足らない光源の一つに過ぎない。


「……ウラ……アウラ・グレーク!」


「は、はい!」


名前を呼ばれ顔を上げると、すぐそこに先生の顔があった。眉間に皺が寄っているのを見るに、どうやらお怒りのご様子だ。


「あー……先生、何か御用ですか?」


「あぁなに、大した用ではない。ただ後で職員室に来るよう伝えようとな」


「は、はは。そうですか」


先生は怒った顔のまま、早い足取りで教卓へと戻り授業を再開した。

文字で埋め尽くされた黒板は、最早何処からノートを取ればいいのか分からない。他の生徒はこんなのを生真面目に取っているのだろうか。


私はノートを開き、先程頭に思い描いていた海の世界を思うままに書き込んだ。教科書ももちろん開いておく。

こうしておけば、少なくともこの授業内でまた叱られる事は無いだろう。


問題があるとすれば、周りから聞こえてくる薄ら笑いの声が、少々気になるくらいだろうか。



美術はあまり好きじゃない。


「今日はコレを見ながら描いてもらいます。この時間内に色まで塗りきるように。良いですね?」


では、始め。と言う先生の合図で生徒たちは一斉に筆を走らせる。

今日の課題はバケットに盛られた数種類のフルーツ。

大して難しくもない、簡単な課題だ。


しかし、開始早々隣から唸り声が聞こえてきた。サシャだ。彼女は美術が大の苦手で、線画か、はたまたデッサンの構想かで躓いていた。


ペンの走る音と、サシャの「うー」という唸り声が美術教室を埋め尽くす。

とても心地好い音だ。私はこの音が好きだった。


やがて、私もペンを取り、目の前のキャンパスに幾つもの線を走らせた。




「先生、描けました」


暫くもしない内にペンを置き、その手で先生を呼んだ。

見たままのバケットを描ききった私は一つ、大きな伸びをする。

やってきた先生は私の絵を見るや否や感嘆の声を上げた。


「いやぁ、流石グレーク家のご令嬢。絵に関してはこの学校の生徒の中で右に出る者はいないな」


「どうも」


未だ真っ白のキャンパスと睨み合っていたサシャも私の絵を覗き込み、おぉ。と声を上げた。


「やっぱりアウラは上手だね!」


と、サシャは言ってくれた。

それだけで少し誇らしい気分になれた。


「ふむ……だからこそ、惜しいなぁ」


そう言ったのは私の背後にまわっていた先生だった。

見ると、顎に手を当てて、何故だか悲しそうな顔をしている。

まぁ、想像はつくが。


「惜しいって、何がですか」


そのせいか少し声に力が入ってしまった。

先生は慌てたように


「何でもないよ。これで完成で良いね?」


と聞いてきた。笑顔で。

私は小さく頷き、そそくさと私から離れていく先生の後ろ姿を目で追った。


それから、再度自分の描いた絵を眺める。

迷いの無い線は父譲り、大胆な構図は母譲り。

絵描きの元で育った私の、数少ない取り柄であり、私が両親に忌み嫌われる最たる理由が、コレだった。


「色、入れよう」


灰色の、フルーツバスケット。

私は絵の具を取り出し、筆を伸ばした。


▶▶


私は学校が嫌いだ。

サシャみたく、色盲に理解があるならまだ良いが、殆どの生徒はそうでは無い。


「おぉい、グレー!」


休み時間、自分の席で本を読んでいた私の耳にそんな声が聞こえてきた。

顔を上げると、廊下から馬鹿にしたような笑みを浮かべた数人の男子生徒がこっちを見ていた。


グレー、灰色。私の目の事を茶化してつけられたあだ名。

そして、私はそのあだ名が大嫌い。


彼らは口々に私の事を馬鹿にした。

やれ麦わらが似合ってないだの、リンゴが紫色なわけないだの。


分かっている、分かっているのだ。そんな事は。

私は再び本に目を落とした。必死に文字を追っていくが、どうにも頭に入ってこない。

雑音が頭の中で反響している。

先程の美術の授業の回想が、思考を一杯にしていく。


あの後、私は絵に色を入れた。

結果的に言ってしまえば、大失敗だった。

彼らの言う通り、リンゴは紫になってしまったし、その他のバケットの中身もそれはそれは大変な事になっていたらしい。

完璧だった線画を、無意味な線の列に変えるくらいには酷い出来、らしい。


完成した絵を見て、先生は大袈裟なくらい嘆いていた。まさか「酷い出来」とまで言われるとは思っていなかったが。


リンゴは紫じゃなく、赤色。

じゃあ、赤色って一体どんな色なんだろう。分からない。


自分の事を不幸だと思った事は無いと言ったが、どうやらそんな事はないらしい。たった今、私は私自身を哀れんでいた。色の機微を感じ取れない私には、絵が描けない。


それだけなら、まだ良い。私が辛いだけだ。でも、パパとママは絵描きだ。

世界的に有名で、とても格好良い自慢の両親。二人は私の絵を見ると悲しそうな顔をする。


それがとても、辛くて辛くて仕方がなかった。


私は本を閉じ、椅子を蹴って立ち上がった。雑音がピタリと止む。

空気が私の一挙一動を監視している。


もし私が暴挙に出れば、彼らは逃げるだろうか、はたまた拳を向けてくるだろうか。どちらにせよ、今の私には都合が悪い。


だから、私は目元が見えないくらい深く麦わらを被り直し、足早に教室を後にする事にした。

私の事を茶化していた彼らは、案外あっさりと道を開けてくれた。


「あれ、アウラ、どうしたの?」


トイレにでも行っていたらしいサシャが今更顔を見せた。

先程の彼らはサシャの事を大の苦手としている。ハッキリと物事を言い、誰よりも堂々としている彼女を前にすると、流石の男子諸君も押し黙る。

だからこそ、もう少し早く来てほしかった。


もちろん、そんな事口にはしないけど。


「ちょっと外行ってくる」


「え、私も行くよ」


「いいよ、一人で行く」


「どうしたの、アウラ? アウラってば!」


心から私の事を心配してくれる友達の声を背に、私は靴を履き替え、校舎から出た。

何なら、このまま帰ってしまおうか。


まだ家には帰れないし、その辺の公園にでも……そんな事を鬱陶しい日差しの下で考えていると、ふと嗅ぎなれた匂いが何処からか漂ってきた。


絵の具の匂いだ。海の匂いが混じっていて少し分かりにくいが、家で毎日嗅ぐ匂いなだけに、感じ取れた。

そうでなくても鼻は効くほうだ。

私は匂いの元を辿って、フラフラと歩いた。習性というか、なんというか、絵の具の匂いがしたら足が吸い寄せられてしまうのだ。


外を歩いていると、地面から反射した光が私の目を刺激する。あっという間に頭の痛みが私の思考回路を苛んでいった。


今は昼、太陽が高く昇り、地面を明るく照らす。つまり、私が最も苦手とする時間帯。

海岸ともなると、その太陽の鬱陶しさも一入だ。穏やかな海が、逆に私を悩ませる。


ふらふら、ふらふらと私は歩いた。

どれだけ歩いただろうか?よく覚えていない。気が付くと、私は一枚のキャンパスの前に居た。


太陽が描かれていた。


滾るような炎の星が、キャンパスのど真ん中に鎮座していた。

目が、意識が吸い込まれていく。圧倒的な存在感だった。


そうしてずっと見ていると、心の奥の方がぼんやりと暖かくなってくる、そんな絵。


「どう? 私の力作」


不意に、背後から声がかけられた。

振り返ると、そこに一人立っていたのは細身のお姉さんで、ワンピースの上から着けているエプロンには、絵の具の跡が数多く染み付いていた。


その人が絵描きだと私はすぐに感じ取れた。彼女が絵描き特有の独特な雰囲気を醸し出していたから。


「凄いでしょ」


私は視線をキャンパスに戻し、それから黙って頷いた。

無愛想に思われたかもしれないが、そうじゃない。ただ単に声が出なかった。こんな絵は滅多に見ない。


「静かな子だね。服を見るに、あそこの学校の生徒かな?」


そう言って、学校を指差した。

今度は「はい」と返事をした。緊張からか多少上擦ってしまったが、そんな事はどうでも良かった。


この空に生まれてから今まで、遺恨の対象でしかなかった太陽の姿に、私はすっかり心を奪われてしまっていた。


そんな私を見て、絵描きの女性は嬉しそうに笑い、ついさっき買ってきたらしい缶ジュースを一つ渡してきた。

丁重にお断りしたが、しつこく押し付けてきたので、最後には受け取ってしまった。


缶はとても冷えていて、額に当てると、とても気持ち良い。


「ありがとうございます」


「別に良いよ。それよりさ、君!」


彼女はキャンパスの傍に置かれていた椅子に深く座り込み、一息に缶の中身を煽った。


「君は、あの絵を見てどう思った?」


「……どう、ですか」


私は今一度、キャンパスの太陽を横目で眺めた。本当に、圧倒的な熱量。存在感。

この絵を言葉に表す為には、私の稚拙な舌下ではどうにも役不足で、身振り手振りで表現しようにも、今度は手をワキワキさせるばかりで、とてももどかしい思いに苛まれた。


そうして、私は諦めて思ったまま。見たままの感想を述べた。


「凄いです」


我ながら幼稚な回答。

この人が学校の先生なら容赦なくペケを寄越してくるだろう。


しかし、彼女は怒るどころか、見開いた目を細めてニヤリ、と笑ってみせた。口元がだらしなく緩んでしまっている。


「そう、そうでしょ。凄いんだよ、この絵は!」


なんでだろうか、彼女の事を見ていると少し苦しくて、でも、それでいて何だか安心する。

この人が何となくサシャに似ているからだろうか。この人が底抜けに明るいからだろうか。


サシャと同じ、まるであのキャンパスの太陽のように、真っ直ぐな明るさを私にぶつけてくるから。

だから、こんなにも眩しくて、羨ましいのだろうか。


「本当に、凄いです」


「うん、凄いの。全部凄いけど、その中でも一番のポイントはやっぱり色彩の表現だね。ほら、ココとか……あれ、どした?」


彼女の言葉を聞き終わるより前に、私は席を立った。

背後から声が聞こえてくる。私はそれに「缶ジュース、ご馳走様でした」。とだけ返事をし、静かにその場を去る。


太陽も、いつの間にか降り始めていた。


▶▶▶


この家は好きだ、落ち着くから。


「ただいま」


ドアを開け、靴を脱いでからいつものように帰宅の挨拶を済ませる。

返事が無いのもいつもの事だ。


二人とも、今日は外で働いているのだろうか。靴が無かったから、多分そうなんだろう


自分の部屋に入り、学校の鞄と汗を吸って少し重くなった麦わら帽子をベッドに投げ捨てた。

閉め切った窓からは夕暮れの明かりが薄く漏れ出している。


服を着替え、汚れたスツールに腰掛ける。相対するは私用のキャンパス。


「……はぁ」


ダメだなぁ。

見ていると溜め息が零れる。


夕暮れの海、波打ち際に立つサシャの後ろ姿を描いたもの。

その絵は、決して下手ではない。

色も入れていないし、充分上手いと思う。


でも、それだけ。

私の絵はそれだけだ。上手いだけで何も無い。


キャンパスを外し、何も書いていないものを新しく取り変える。

ペンを取り、無地に向き合った。


自由に線は引かれ、キャンパスに世界が彩られていく。

授業中に思い、ノートにも描き出した海のそれを、鮮明に出力していく。


流麗な波々が気ままに踊り、私とイルカが虹の輪を創り出していて。

そして微細な水沫は太陽の光を受けて鮮やかに輝いている。


日の下にありながら、楽しげに笑う私自身まで描いて、ペンを置いた。


「ふぅ……」


天井を仰ぎ、息を着く。目を瞑ると、あの強大な「太陽」が瞼に浮かぶ。


暫くの間、その圧倒的な記憶に浸り、閉じていた目を開く。


そして、ペンの横に置いてある小さなカッターを手に持ち、力の限りキャンパスに刺した。

何度も何度も、飽きるくらい刺し、切りつけ、キャンパスはズタズタに裂けていった。


何度も、何度も、何度も、何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も。


何度も。


その手を止めたのは、家のドアが開く音が聞こえたから。

両親が帰ってきたのだろうか、そう思った私は乱れた息を落ち着け、少し深呼吸をしてから、部屋から出た。


「おかえりなさ……い。パパ、ママ」


両親の帰宅をで迎えようと上げた声は、消え入るように萎んでいってしまった。

何故か、それは二人の横に見知らぬ少女が立っていたから。


「ただいまだな、アウラ」


「うふふ、さぁ。早くご飯にしましょう。お腹空いてるでしょ? アウラ」


二人と一人は靴を脱いで、私の横を通り過ぎて、スタスタとリビングへと入ってしまった。

私もすぐにその後を追いかけた。

滅多に家族以外を家に入れたがらない両親が、知らない少女を家に迎い入れた事も驚きだったが、それより驚いたのは二人が私の名前を呼んだ事だ。


何時からだったか、二人は私の名前を呼ばなくなった。

「おい」だとか、機嫌が良い時でも

「お前」が精一杯。だから、少し嬉しくなった私は、ママが料理を作るまでの間、度々頬を緩ませてしまった。


パパと少女の二人がソファに腰掛けているので、私は一人用のチェアに静かに座っていた。


小説を読んだりしていると、二人の会話が聞こえてくる。

やれ学校生活はどうか。やれ好きな事はあるか。実に他愛のない話だ。


まるで親と子のような、微笑ましい会話。頑固で滅多に笑わない父が、楽しげに笑っているのをみると、少し嬉しくなる。


私の話もしているのか、時折「アウラ」という名前が出る。会話相手の見知らぬ少女は、その名が出る度に何故だか気恥しそうにモジモジと体を捩っている。


日もすっかり沈みきり、空も黒んできた頃。キッチンから料理が出来たという声が聞こえた。ママの声だ。

気のせいか、いつもより機嫌が良さそうだ。


私は小説を閉じ、チェアから立ち上がって、お決まりのダイニング・シートに着く。もちろん、スプーンとフォークは自分で用意した。ママと私の幾つかある約束事の一つだ。


その後、向かいに例の少女が座った。

彼女も両の手にスプーンとフォークを持っている。というか、握り締めている。

その姿は、まるでカトラリーを使い慣れていない赤ん坊のようだった。


そして、少女の隣にパパが座った。


「えっ?」


と、驚いた声を発したのは私だ。

なぜなら、いつもパパは私の横に座るから。そして、今まで一度だってその席から動いた事は無かったから。

毎日隣に座って、隣どうしで夕食をとっていたから。


だから、私は驚き、それと同じくらい深い悲しみに襲われた。

パパを取られたと、まるで子供のような、幼い嫉妬心に駆られたのだ。


でも、まぁ。そういう事もあるのかもしれない。パパだって人間だ、気まぐれに心がなびく事だって、きっとあるだろう。私は自分をそう言い聞かし、何とか納得させた。


遅れてキッチンからやってきたママは、大きな鍋を持ってやってきた。

調理中の香りでなんの料理か大体の察しは着いていたが、鍋を見てそれは確信に変わった。


母の得意料理の一つ、「ムサカ」だ。

私の大好物の一つで、この料理が食卓に出る時は大抵、何か良い事があった時と決まっていた。

きっと、パパかママの描いた絵が高い評価を得たのだろう。その証拠に、早くもパパがワインを開けている。


ママはその他にも幾つかの小品をテーブルに並べ、席に座った。

パパとは逆側の、これまた少女の隣。

けど、そこは毎日ママが座る席でもあったから、パパの時より驚きは少なかった。


こうしてパパとママ、そして謎の少女が揃って私の向かいに並び座った。

その事に得体の知れぬ不安感を抱きつつ、ママが各自の取り皿となるウッドボウルをそれぞれに渡していく。

当然、私も手を伸ばした。


このウッドボウルで食べるムサカが堪らなく美味しいのだ。じっくりと煮込まれたチーズの濃い香りが、鼻を軽く擽ってくるだけで涎が止まらなくなる。


「「「いただきます」」」


三人の声がダイニングに響く。


私のウッドボウルは、私でない、少女が使っていた。「アウラ」と私の字が書かれた、私のウッドボウルなのに。


それに、私の所には何も無かった。

何も渡されていない。これで何を、どう食べろというのか。

うっかりにしても少し酷いと、私はママにもう一度両手の平を差し出した。


「ママ、その子のボウル、私のだよ。間違ってるし……というか、私の分忘れてる」


「どうアウラ、美味しい?」


無視された。いや、名前は呼ばれたけど、しかし、その顔は私の方を向いていない、スプーンをぎこちなく扱う少女の横顔に向けられている。ずっと。


「ママってば、聞こえてるでしょ」


「うふふ、アウラったら。違うわ、スプーンはこうやって持つの。あら、もうこんなに零して」


私と同じ、アウラと呼ばれる少女は本当に赤ん坊のようだった。

握り締めたスプーンで恐る恐る掬ったムサカは、彼女の口に到達するまでにその半分以上がテーブルや彼女の服に滴り落ち、彼女の周りはあっという間にドロドロに汚れてしまった。


なのに、ママはそれを叱るどころか、楽しげに笑い、彼女の手の上にそっと手を起き、スプーンの使い方を教えだした。私の声はまるっきり無視して。


「ねぇママ」


三度目になる催促をしようと、ママに声をかけようとしたその時だった。

ドンッ、という大きな音が部屋に響き渡った。見ると、パパがワインのボトルの底をテーブルに叩きつけたらしい。ボトルの中身が大きく揺れているのが見えた。


そして、それを持つパパの手と顔は見た事が無いくらいに紅潮していた。

酔っているらしい、ひと目で分かるくらいには、その表情に酒気を帯びていた。


「パ、パパ……?」


私が恐る恐る声を掛けようとすると、またパパは大きな音を立ててボトルをテーブルに叩き落とした。


その音にビクリ、と私は身を竦ませた。

それが嬉しかったのか、パパはニヤリと笑い、ゆっくりとその口を開いた。


「あぁ、お前。なんだ。まだ家に居たのか? 出てけって言わなかったか? 俺」


停止した。鼓動する心臓以外の私の全てが、パパの言葉で一瞬動きを止めてしまった。

そんな私を見て、パパは尚も続ける。


「言ってなかったなら、今言ってやる。出ていけ、不良品。出来損ない。お前はもう用済みだ。今日からこの子が俺たちの子「アウラ」だ。なぁ?」


パパは少女の肩に優しく手を置き、ママに訊ねた。


「あら、パパったら。そんな言葉使いしちゃダメよ。アウラに悪い影響を与えるわ」


ママはそこまで言い、そしてパパ同様に少女の肩にその手を置いてから、今日初めて私の目を見た。

体の芯が痺れるような、触れる事も出来ない冷たい目で私を見て、言った。


「新しい、アウラに、ね」


足元が崩れた。私の体を支えていた全てが、ガラガラと大きな音を立てて崩れ去っていった気がした。


「今日中に荷物をまとめろ。何も死ねとは言わん。金はやるから、その代わり今後一切我がグレーク家に近づかないでくれ。無論、名を語る事も許さん」


「え、な、何を……何を、言ってるの?パパ、ママ……?」


覚束無い思考回路、理解不能の現状にようやく私の口は動き出した。

といっても、出るのは疑問符ばかりだ。意味の分からない現状に混乱した脳が、不意に涙を零させた。

拭っても拭っても、涙は止まる気配は無い。


「なんで、なんでなの……パパ、ママ。わ、私、良い子にするから。二人に迷惑かけないから、目も頑張って治すから、それで、沢山絵を描くから。上手な、絵を、たくさん……描く、から」


鼻をすすって、私は何度も言った。

懇願とも、謝罪とも言えない。何かに媚びるような、何の意味も無い言葉を、誰にも届かない言葉を連ね続けた。

もしかしたら、冗談だと二人が言ってくれないかと、その少女に向ける笑みを私に向けてくれないかと、そう信じて。


パパとママ、そして間に挟まれる少女は、そんな私を前にして尚も楽しげに笑い合っていた。

もう、私の事は見えていないようだ。


「アウラ、貴女は自慢の子よ。だって、この世界の色鮮やかさを、美しさを理解出来る目を持っているのだから」


ママがそう言ったその瞬間、この世界に私の居場所は、もう何処にも無くなった。



▶▶▶▶


一人は嫌いだ。


ぼんやりとそんな事を考えながら、私は一人、自分の部屋で荷物をまとめていた。今日中にこの家を出ていかなくてはならない。


あまりにも話が早すぎて、まだ私は状況が飲み込みきれていなかった。

でも多分、ゆっくり、丁寧にこの状況を説明されたとしても、きっと理解出来ないだろう。


パパとママは、元々私の事があまり好きじゃなかった。

私に絵を教えてくれていた時は、そんな事は無かったと思う。二人とも空いた時間を使って私の相手をしてくれていた。


最近は、そうじゃなかった。

食事の時に会話は無い。あっても、私の頭を越えて二人だけの話し合いが時折交わされるだけ。


ご飯にしても、あからさまに私の分だけ少なく、粗末なものだった。

冷えて固まったパン一つとか、チーズ一切れとか。だから、私はサシャのパンが大好きだった。

美味しいし、何より暖かい。本当に、文字通り彼女は私の恩人なのだ。


その時、背後から物音がした。

灯りをつけていなかった部屋が突然明るくなった。振り返ると、開けたドアにもたれ掛かる「アウラ」の姿があった


キョロキョロと部屋の中を見渡し、うんうんと何事か頷いている。


「今日からココが私の部屋なんだ。何か、変な感じ……あっ、違うよ。良い部屋だって意味ね」


「アウラ」はそう言って恥ずかしそうに笑いながら、部屋の中を歩き出した。

締め切られた窓であったり、私の荷物が乗せられたベッドや、汚れたスツールを見て、また満足気に頷き、スツールの方に腰掛けた。


「何か、用」


私は引き続き荷物をまとめながら、彼女に訊ねた。多分、いつもより寒色の濃い声色になっていたと思う。


対する彼女は底抜けに明るい口調で言った。


「私ね、売られたの」


「……!」


全く、明るくない内容を。淡々と。


「金貨三枚、それが私の値段。どう? 結構高いでしょ」


「……そうだね」


「えへへ、でしょ。 あのね、うちのママも画家だったんだけど、私の事、邪魔だったみたいでさ。それで売られたの」


「でも貰い手があって良かったじゃない。きっと大事にして貰えるよ」


「絵が描けたらね」


彼女はそう言ってズタズタに引き裂かれた私のキャンパスを眺めた。


「これ、あなたがやったの?」


私は黙って頷いた。


「そう……凄いね、この絵」


「何処が」


私は俯いたまま「アウラ」に問うた。

手だけは動かし続けて、ただ無心で荷物をカバンに詰めるフリをしながら。


「何処が凄いの、そんな絵」


「凄いよ。全部凄い」


「だから何処が凄いの!? そんな、そんなただ綺麗な妄想を並べただけの、何にも無い、空っぽなそれの、何処が……!」


また涙が零れる。さっきの分も合わせると、今日だけで一生分の涙を流し尽くしてしまうかもしれない。

それでも良い。どうせ今日以上に悲しい日は来やしないのだから。


「凄いよ……」


彼女は尚も同じ言葉を呟いた。

私は潤む瞼を擦り、顔を上げた。

その時になって、私はやっと彼女の顔をちゃんと見た。


とても、悲しそうだった。


「私ね、絵が描けないの。描ける、得意だ。って言ってこの家に来たの」


先程までの明るさとはまるで違う、手を伸ばす事も躊躇うほどの陰鬱な表情でキャンパスを見つめる彼女に、私は何も言う事が出来なかった。


「じゃあ、どうするの。絵が描けないって、そんな嘘すぐバレちゃうでしょ」


「そうだよね。ふふっ……どうしよっかなぁ」


「どうしようって、そんなの―――」


知らないよ。私はそう言おうとして、途中で止めた。


私は不意にベッドから離れ、手にしていた荷物を床に置くと、おもむろに彼女の方へ歩み寄った。


悲しげに笑っていた彼女は、少し驚いたように近付いてくる私をじっと見つめた。

その目は少し潤んでいて、それでいて何処か怖がっているようだった。


そしてその目は私が近づくにつれその恐怖の色をより濃くし、私が目的の場所に辿り着く頃にはキュッと瞑ってしまっていた。

私が怒りのあまり頬でも叩いてくると思っているのだろうか。


それも良いな、多少の気晴らしにはなるかもしれない。


そう思い、私はゆっくりと、手を伸ばした。


「これ、あげる」


少女は瞑っていた目を片方だけ、恐る恐る開けて、自分に向けて差し出されたキャンパスを見た。


日暮れの波打ち際、一人の少女が夕日を見つめている。その絵を。


「え、こ、これって?」


「私の絵、ここにあるの全部あげる」


「で、でも……」


「絵が描けないって言っても、色の違いくらい分かるんでしょ。だから、この絵に色を塗って、あなたの絵にすれば良い。そうすれば」


あなたがこれ以上虐げられる事は無い。私は最後まで言わなかった。

今度はわざと言うのを止めた。そこまで言ってしまったら、何となくこの少女は絵を受け取ってくれない気がしたから。


「……だから、好きに使ってよ。アウラ」


彼女は、ゆっくりと、手を震わせながら私の絵を受け取った。受け取って、両腕で強く抱き締めた。


「ありがとう」


彼女、アウラは私に感謝の礼を言った。

その姿にそれ以上物を言えず、私はパンパンに膨らんだカバンと、麦わら帽子を持った。


ついさっきまで自分のものだったその部屋のドアを閉める直前、ズタズタに裂けた最後のキャンパスが目に入った。


イルカと泳ぐ私がいつまでも楽しげに笑っているのを見て、私はこの日、生まれて初めて自分の欠陥を大いに恨んだのだった。


▶▶▶▶▶


それから幾つもの日が昇り、そして沈んで、また昇りゆくある日の朝。

私は湯気の立ち上るパンに囲まれていた。


「アウラ、そっちの全部頼むぜ!」


「はぁい!」


窯で焼き上げられた熱々のパンを、専用の板に乗せて次々と棚に運んでいく。

まだ空が薄暗い時間からの大仕事に、私の体はあっという間に汗まみれになっていった。


あれから私はサシャの家にお世話になっている。

パン屋の仕事を手伝うという条件付きでサシャと、サシャのパパとママと一緒に充実した日々を過ごしている。


学校には通っていない。

サシャの両親は学費を払うと言ってくれたが、居候の身でそこまでしてもらう訳にはいかないので、礼を言ってから丁重に断った。


サシャは悲しんだが、それ以上に友達

が自分の家に居る事がとても嬉しそうだった。

私としても、彼女の明るい笑顔が何時でも見れるというのは、とても嬉しい。


彼女の家はいつでも明るく、そしてこのパン同様に暖かかった。


「アウラ、お前が来てくれて本当に良かったよ」


「ほんとにね! とっても働き者だし。サシャにも見習ってほしいくらいだわ」


「お、お母さぁん」


パン生地をこねていたサシャが情けない声を上げると、両親は楽しげに笑った。サシャも笑い、それに釣られて私も笑った。

あの夜、サシャの家を訪ねてから、ずっとこんな調子だ。


きっと、ずっとそうなんだろう。

サシャがあんなに明るい性格なのも、どこか納得がいった。


それから少しして、太陽がすっかり顔を見せる頃。朝食を済ませたサシャが服を着替えて、学校のカバンを背負った。


「パパママ、アウラ、行ってきます!」


「「「いってらっしゃい」」」


麦わら帽子を被って外まで見送るのがいつもの決まりだ。サシャが何度も振り返っては大きく手を振ってくるのも、それで手を振り返すのも、とても楽しい。


居候を始めてすぐは、鼻孔の隅に絵の具の匂いを感じる事があったが、今ではすっかり小麦の香りに染まった。


あれから、グレーク家の話は全く聞かない。私が意図的に避けているのもあるが、それでも、このあまり広くもない街で何も噂が立たないという事は、きっと向こうのアウラは上手くやっているのだろう。


そもそも私があまり外に出ない人間であった事もあり、私がもう一人のアウラ・グレークだと知っている人も居らず、日中は店の手伝いをして、私は平和な日々を過ごしていた。


絵は今でもたまに描く。と言っても、前みたく本格的な画材を使ってというものではなく、サシャのノートの隅に小さなイラストを描いたり、日が暮れてから外に出て、適当な紙切れに適当な絵を描くだけ。


今日もそう。

サシャから貰ったいらない紙とペンを持って、何となく、海の向こうへ沈む夕日が見たくなった私は、いつぶりかの海辺へ訪れた。


すっかり磯風も涼しくなった。季節が一つ変わっていく。

海も、夕日も、前とはすっかり姿を変えた。


いや、実際には何も変わっていないのだろうが、まるで全く違うもののように思える。


絵を描くのにちょうど良い場所を求めて波打ち際に沿って歩いていると、遠くに人影が見えた。

目を凝らしてみると、何やら見覚えのある影だ。どうやら、今日も絵を描いているらしい。


向こうも私に気付いたのか、手を振ってきたので私も振り返して、彼女の方へ走っていった。


「やぁ、久しぶりだね、麦わら帽子の女の子!」


「はぁ、はぁ……お久しぶりです、缶ジュースのお姉さん」


絵の具に汚れた顔と、走って疲れた顔、見合わせると、お互いの変な顔に思わず吹き出してしまった。

私も、お姉さんも。


「というか、麦わら被ってないんだね。

それに、表情も以前とは全然違う」


「……色々、あったんです」


「ふぅん……でも、きっと良い事なんだろう? 本当に以前とは全然違って、とても明るい顔をしている」


彼女の言葉に、私は曖昧な笑みだけで返事をする。

そこに言葉を混ぜても、あまり面白い話でもないと思ったから。でも、お姉さんにはそれで充分だったらしく、一人で満足気に頷いている。


私は、そんなお姉さんの後ろに、大きなキャンパスがある事に気付いた。

どうやら、また太陽を描いているらしい。相変わらず巨大で、力強い太陽だ。


「太陽、また描いてるんですか」


私はお姉さんに訊ねた。

彼女は頬を掻きながら、自らのキャンパスに向き直った。


「そう、描いてるんだ。凄い奴をね」


位置的に彼女の表情は分からなかったが、何故だか、その背中はとても悲しそうに萎んで見えた。

しかし、振り返って私の方を向く頃には元の、太陽みたいに明るい顔があった。


「そういえば、前に説明しそびれたね。私の太陽の一番のポイント!」


聞いてくれる? と彼女は小首を傾げた。それが何だかやけに子供っぽくて、おかしくて、私はまた笑った。


「……本当に、良い表情をするようになったね。よく笑うようになった 」


「ふふっ、え? 今何か言いましたか?」


「いーや、何にも。それより、聞いてくれるね。私の太陽の凄さを」


私は頷いた。お姉さんはニヤリと口を歪ませ、とても嬉しそうな口ぶりで説明を始めた。


「私の太陽の凄さはね、この大胆な色使いにあるんだよ―――」


以前、私が彼女から逃げたのは、この絵の本当の凄さは色にある。と言われたからだ。

こんなにも凄い絵なのに、色が分からないから、その絵の本当の良さも分かりはしない。そんな事実に私は、素直にショックを受けたから。

耐えきれず、私は席を立ってしまった。けど、今は大丈夫。


彼女は日が沈み、空が黒み始めても尚、語り続けた。

私もそれに耳を傾け、時折感嘆の相槌を漏らしていた。

彼女が一呼吸置いたのは、月の灯りが暗い海を照らしだしてからだった。

つまり、すっかり夜。


私は夜が好きだ。

暗闇ではものがよく見える。

月明かりの鮮やかさは何物にも変え難い。私の宝物だ。


私は彼女に、自分の目の異常を打ち明けた。それなんの意味があるか私自身よく分からなかったが、実は太陽が苦手だという事や、その代わり月がとても綺麗に見えるということを、滔々と語った。


彼女は静かに私の話を聞いてくれた。


「―――まぁ、そんな感じです。そのせいで、お姉さんの絵の本当の良さも、私には分からないんです。すみません」


私が頭を下げると、お姉さんは缶ジュースを一口飲んでからポツリと言った。


「いや、ありがとう」


「え?」


「君、前に私の絵を見て、凄い。って言ってくれたでしょ? だから、ありがとう」


お姉さんは月を見上げていた。

慈しむような、優しい目で。


「そっか、凄いか……ふふっ」


微笑みながら、「良かった」と彼女は小さく呟いた。穏やかな夜海の波の音に掻き消されそうなくらい小さな声で。


「私の太陽は赤色なの」


「赤色、ですか?」


「そう、赤色……怒りの色だよ」


「お姉さん、何かに怒ってるんですか」


お姉さんは缶ジュースを傾け、一息に中身を飲み干して、海辺に寝転んだ。


「私ね、子供がいたの。とっても可愛い女の子でね、名前はアウラっていうの」


「でもね、アウラが産まれてすぐ、旦那は何処かへ消えちゃった。

私には身寄りが無いし、一人で育てなくちゃいけなかった……正直、キツかったよ。当時私は売り出し中の画家で、仕事に手一杯だったし。その中で子育てなんて、私には到底出来なかった。元々器用な方じゃ無いしさ」


私も、彼女のすぐ側に座り込んだ。

月灯りが海と、私たちとを照らしている。


「だからね、昔の私はアウラを手放す事にしたんだよ。あの子に値段をつけて売っちゃったの……ふふっ、本当に馬鹿だよね。馬鹿過ぎて笑っちゃうよ。笑って、笑って、どうしようもなくて、私は今も後悔してる。あの子を売った事、何処かに売られて、そのお金を受け取った事。その全部」


お姉さんは泣いている。話しながら、拭くこともせず、涙を流し続けた。


「だから、私の絵は全部赤色なんだ。私が、私自身に感じている怒りの赤。おかげで評価は散々でね。この前の太陽もボロクソに非難されたよ」


横目で私を見てくる。笑ってはいるがとても、悲しそうな表情だった。


「全部って、人とか、街も赤色で描いてたんですか?」


「そうだよ」


彼女はあっけらかんと言った。

そんな事をしていれば非難もされるだろうと思ったが、彼女の事を見ていると、とても口には出せなかった。


「……はぁぁ。せめて、絵だけでも教えたかったな。産まれて数日で決断しちゃったんだもん、親として、何も与えてあげられなかった」


そう言って、彼女は立ち上がった。

どうやら体が冷えてしまったらしく、激しく身震いして、垂れてきた鼻水を豪快に擤んだ。


「あの」


「んー?」


その時の、月明かりの下で振り返ったお姉さんの姿は今でもとても印象に残っている。

思えば、あの瞬間こそが私の最大の転機だったのだろう。


「一つ、聞きたい事があるんです」


▶▶▶▶▶▶


家に戻った私を見て、サシャの両親は酷く安心し、それから酷く私の事を叱った。と言っても、殴ったり、悲しい事を言われたわけじゃない。


心配したという事や、準備した料理がすっかり冷めてしまった事を怒鳴られ。

それから、強く抱き締められた。

二人の大きな体はとても暖かく、優しい匂いがした。


「あれ、ねぇアウラ、その大きな荷物って、なに?」


サシャが不思議そうに訊ねてくる。

私を抱き締めていた二人も、その言葉に体を放し、私の荷物を見て驚いた表情を浮かべた。


私は三人の顔を順に見つめ、それから思い切り頭を下げた。

それはこの家に来て最初の、そして最後のわがまま。


「また、絵を描きたいんです。借りている部屋を汚しちゃうと思うけど、キチンと掃除もするので、どうかお願いします」


と。

決して良いとは言えない絵の具の匂いを、小麦の香りが大事なパンの傍に置かせてほしいという、無茶なお願いだった。

サシャのパパとママも、その辺を危惧しているのか返事に迷い、その場ではサシャだけが「良いじゃん!」 と私に親指を上げてくれた。


結局、私の願いは聞き届けられなかった。サシャは私以上に落胆し、そして私以上に自分の両親へ、必死にお願いをしていた。

私に絵を書かせてやってくれ、と。

一生のお願いまで使ってくれた。

それが果たして何度めの一生のお願いなのかは知らないが、私のためにそこまで言ってくれる事が嬉しかった。


正直、私は心のどこかでサシャを遠ざけていた。

それは彼女が私にとっての太陽だったから。私を照らし、苛み続ける負の象徴だったから。


でももう、そんな事は欠片も思わない。


だって、赤色は怒りの色だと言っていたお姉さん。だったら、何故あんなにもあの太陽は暖かったのだろう。


私は思う、きっと、その赤色の中には怒りともう一つ、不惑の感情があるのだと。

それは、きっと――――――。


▶▶▶▶▶▶▶


あれから幾年もの歳月が経った。


すっかりパン屋の仕事にも慣れた私は、今日、親友のサシャと共にこの家を出る事になっている。


きっかけは私の絵が世界的に高い評価を受け、本格的に画家として生きていく決心が着いたと、パパとママに伝えた事だった。


わざわざ彼女が居ない時間を狙って言ったのに、何処からか話を聞きつけたサシャは「私も行く!」と、しつこく私につきまとい、結局私もそれに折れてしまった。


それで今日、遂に出発の日。

と言っても特別変わった事は無い。日が昇るより早く起きてパンの仕込みを始め、掃除をし、皆で朝食を食べる。


準備は前日に済ませてあったので、店を出るのは日も暮れ始め、店を閉める時間になってからになった。


「ねぇ、本当に行くの? 出発、別に明日でも良いのよ?」


ママはそう言ってハンカチで頻りに涙を拭いている。

昨日までそんな素振りは全然見せなかったのに。私の隣にいるサシャも既に嗚咽の声を漏らしている。


パパは何も言わない。照れているのか空を見ているのか、さっきからずっと上を向いている。目元が光って見えるのはきっと気のせいなのだろう。


本当に、自慢のパパとママ。


「ありがとう、今まで本当に……二人とも大好きだよ、愛してる」


「うぅ……ク、クリスマスに帰ってくるからね!」


二人とハグを交わし、頬にキスをして別れの挨拶は終わり、いつまでも泣いてるサシャを引きずるようにして、私たちは大好きな家を後にした。


▶▶▶▶▶▶▶▶


キャリーケースの転がる音が二人分、夕暮れに染まる閑静な街並みに響く。


この爽やかで心地良い潮の匂いに心震わす事も、当分の間無くなるのだ。

そう考えると、後ろ髪を引かれ続けているサシャの気持ちも少し分かる。


この街から空港まで伸びるバスの数はとても少ない。バス停で言うと僅か一つだけ、数少ない田舎街の弊害だ。


「ねぇアウラ、本当にこっちの道で良いの? 遠回りだけど、別にわざわざこっち道じゃなくても……」


「良いの。それよりサシャ、忘れ物してない? 今ならまだ取りに帰れるよ」


「それを言うならアウラだって……」


私は大丈夫だよ、と言って肩から提げたキャンパスと画材をサシャに見せつける。そう、私にはこれだけあれば充分なのだ。それに比べてサシャは随分な大荷物で、本当に大事な荷物を忘れてるんじゃないかと心配になる。


長い間一緒に生活して分かったのは、意外に彼女はそそっかしい所があるという事だ。向こうでアウラのマネージャー業をするんだと言っているが、あんまり期待はしていない。

仕事有りきじゃなくて、ただ私と一緒にいたい、くらい言ってくれたら嬉しいんだけどな。


そんな事を考えているうちに、随分と懐かしい建物の姿が見えてきた。

愛すべき我らが学校、その姿を見てサシャはまたも涙ぐんでいる。


綺麗な白を基調とした外装が自慢の母校も、見ない内に傷や汚れが増えたように思えた。と言っても、私はサシャほどここに思い入れは無い。あっても、悪い思い出ばかりだ。


思い出に浸るサシャを置いて行き、私は一人先へ行った。


どの道バス停で待ちぼうけを食らうだろうから、そこで合流すれば良いし、何より出来ればここを通る時は一人で行きたかった。


そこは、良い思い出も、悪い思い出も沢山詰まった場所。

数年前、有名な画家夫婦に盗作の疑いが掛けられたというニュースを聞いた時、真っ先に彼らの事が脳裏に浮かんだ。

そして、疑惑の全ては議論の余地も無い事実だったらしい。

盗作された被害者本人でもある彼らの実の娘が、そう証言している映像付きで、ニュースには報じられていた。

その後、夫婦は逃げるようにこの街を後にし、表舞台からすっかりその姿を消してしまった。


今ではきっと何処か、ここ以上の田舎でひっそりと息を潜めて暮らしている事だろう。


そして、人が住まなくなった家というのは、あっという間にその形を失っていくというのは本当の話らしく、この家もまた、みるみる壊れてその形骸を露わにしていき、今では近所の子供たちに人気な心霊スポットにまでなっている。


それを知った時、思わず笑ってしまった。


雑草が鬱蒼と生い茂る庭をぐるりと回っていると、自分がここに住んでいた事が何処か別の世界、夢のお話のような現実味の無いものに思えてくる。


でも、私はここに住んでいた。

本当にいろんな事があったけど、それを含めて今の私がある。

それを再確認し、私は廃屋を後にして一人バス停へと向かった。


それにしても、あの二人が盗作に手を出しているという話を聞いた時は、とても驚いた。

親、さらに言えば人として問題のあった二人ではあったが、画家としては本物だとずっと信じていたから。


私に見せていた画家としての姿、あれも盗作による偽りの威光だったのか。


それとも―――いや、もうこの問いに答えを出してくれる人はいない。


「ふぅ……」


やっと着いた。バス停だ。

家を出て既に一時間以上経っている。

帰郷の度にこの道を歩かないといけないと思うと、溜め息が出る。


手元の時計を見やると、バスの到着時刻まであと十数分といった所まで迫っている。さらに次のバスは約二時間後、来た道を振り返ってもサシャの姿はまだ見えない。


まぁ、そんなに焦る事はないと自分を言い聞かし、取り敢えずベンチに腰掛けようとバス停に近付いたその時だった。


「あっ、やっと来た!」


見知った顔が先にベンチで寛いでいた。


「見送りわざわざどうも。結構待ったんじゃない?」


彼女は横に首を振った。

画家夫婦が失踪した後、実の家に戻った彼女は色々あったものの母親と仲を取り戻す事が出来たらしい。

最近始めた文通でそれを知った私は、正直、とてもホッとした。


「これ、返しておこうと思って」


「これって……あ、キャンパス?」


「うん、元々は貴女のだしさ」


丁寧に梱包されたそれは、確かに昔私が描き連ねたもので、そっと指を添わせると、懐かしい思い出がつい昨日の事のように蘇ってくる。


そして、こんな古いものをこんな大事に取り扱ってくれている事が嬉しくて、気恥ずかしくて、少し熱くなる頬を掻いて誤魔化し、彼女に笑って見せた。


「ありがとう、アウラ」


「ふふっ……どういたしまして、アウラ……っとと、今はそうじゃなかったね」


そう言うとアウラは懐に隠し持っていたらしい雑誌を取り出し、表紙を私の方に向けた。


「色盲の画家アウラ・イリョス・メルクーリ。折角だし、様もつけとく? それとも先生の方が良い?」


「じゃあどっちも……嘘、ジョークだから。そんな顔しないでよ」


えぇ、と引いたような表情を浮かべたアウラにそう言うと、彼女は分かってるよ。と言って笑いだした。

文通でもそうなのだが、彼女は彼女で結構、意地悪な所があるらしい。


でも、私はそんな彼女の事が、結構好きだった。好きになれた。


「あ、バス来たよ!」


アウラの言う通り、遠くからバスの来る音が聞こえてきた。

既に日も落ちた空の中で、道路を煌々と照らしているバスのライトが段々と近付いてくる。


そして、サシャの姿はまだ見えない。


「置いていこうかな……」


「とか言って、ちゃんと待つんでしょ」


「はぁ……まぁね。アウラは? もう行くの?」


「うん、もうすっかり暗いし、ママが心配しちゃう」


そう言って、アウラは自分の乗ってきたらしい自転車に跨った。


「じゃあ、行ってらっしゃい。アウラ」


「うん、行ってきます。アウラ」


別れの挨拶を済ませると、そのままアウラは自分の住む隣町へ向かって自転車を漕いでいった。

あっという間に、彼女の背中は夜闇の中に消えていく。


入れ違うようにして、プゥー、という低めのクラクションと、バスが停止する轟音が響いた。


自動ドアが開き、荷物を見かねてやって来た運転手に手伝ってもらって、私はバスに乗り込んだ。


荷物だけ、ね。


「あのぉ、お客さん」


「ちょっと待って。もうすぐ来るから」


困った顔の運転手を他所に、彼女は私の言葉通りやって来た。

大荷物を両脇に抱えて、汗まみれでサシャはやって来た。


「はぁ、はぁ……お、お待たせぇ!」


運転手に手伝ってもらい、荷物を全てバスの中に押し込み、私とサシャは座席に着く。予定時刻より数分遅れて、空港行きのバスは動き出した。


「学校見てたら、先生が来てさ……思い出話してたら遅れちゃったぁ」


「サシャらしくて良いと思う。本当に」


サシャにそう言いながら、私は幾つも重ねられたキャンパスの内の一枚を手に持って、じっと見つめていた。


私とイルカ、海、飛び散る水沫。

ズタズタに引き裂いたはずの、一枚は私の素敵な友人の手によって完璧に修復されていた。

……いや、一から描いたんだろう。他のキャンパスに比べて一枚だけ材質が劣化していない。


きっと、沢山絵の練習をして、コレを描いてくれたのだろう。彼女の暖かな感情が、絵から伝わってくる。


そして、ふとサシャに訊ねたい事が思い付いた。

彼女が持ってきたジュースを飲み干すのを待ってから、声を掛ける。


「ねぇサシャ、貴女がこの絵に色を入れるなら、何の色を基調にする?」


「えぇ、うーん……」


腕を組み、サシャは暫し考え込んだ。

私はその間、車窓から見える夜海を眺めていた。海沿いに浮かぶあの光の連なりが、きっと私たちの居た街なのだろう。


「えっーと……何となくで良い?」


「良いよ」


「じゃあ、赤。赤色かなぁ……本当に何となくなんだけど……海の絵でしょ? これ。やっぱり変かな」


サシャは恥ずかしそうに頭を掻いた。


「変じゃないよ」


返事はそれだけ。でも、サシャはホッとした表情をして、私と一緒に流れ行く夜景を眺めた。


変じゃない。少なくとも私はそう思う。

海が青って、誰が決めたんだろう。

別に赤でも良いし、そこに意図があるなら黄色でも黒色でも、何色でも良いと私は思う。


色盲の画家と呼ばれる私に、所謂「普遍的」な色使いは通用しない。セオリーなんて一つもない。

あるのは、抱く感情。それは怒りであったり、友情であったり、そして、愛であったり。


感情というのは多岐にわたる。

私は思うままに色を重ねる。

感情のまま、あの絵のように。


私に赤という灰色以外の色彩と、生まれて初めて「愛」を授けてくれたあの人のように、私はこれからも絵を描き続ける。


だから……またね、お母さん。


「アウラ、今なんか言った?」


「気の所為でしょ、サシャ・イルクーリちゃん」


「何よー、アウラ・イルクーリちゃん。あっアウラ・イリョス―――」「それはもう良いって」


私の世界に色は無い。

街も人も、空も、全てが灰色。

しかし、それを悲観した事は無かった。自分の事を不幸だと、恵まれていないと思った事など一度も……ううん、沢山あった。そして、これからも沢山の不幸があるのだと思う。

けど、きっと大丈夫。


煩わしい太陽の事も大分、愛せそうだ。


▶▶▶▶▶▶.▶


「その子の事を、今も愛していますか?」


「なに? 急に……当たり前だよ。もし何処かで会えたら、まずは思い切りハグして、それで……謝るよ、ごめんなさいって。こんな親、許してくれないだろうけど」


そうして、彼女はキャンパスを片付け、自分の家へ帰っていった。私はその背中を最後まで見送り、それから何処へともなく、ポツリと呟いた。


「大丈夫。きっと、許しますよ」


独り言は静かに、夜の空へと消えていった。

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灰色のアウラ(スニーカー大賞応募) シェンマオ @kamui00621

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