スキャンダラス・ハピネス

夏山茂樹

スキャンダルのタネと恋愛物語

「加藤さん! やっぱり憲法改正はよろしくないですよね!」


 四年前の八月十一日の夜、市長選挙の候補が支援会長である父と酌を交わしながらそう話しかけた。酒に酔った政治家や支援者、地元の人たちがジョージア産の赤ワインに舌鼓を打ちながら大人の話をする大広間の片隅にちょこんと座る俺は邪魔者扱い。


 母と支援者たちの妻たちが汚れた食器やおしぼりの片付けに勤しんでいるなか、男たちは大声で市長候補者に自身たちの希望や将来を託していた。


「誠に与党の憲法改正はいかんですなあ! 現に敗戦後、宗主国となったアメリカが何度参戦して失敗を繰り返してきたことか! 日本は世界を壊す存在として煙たがられてはならないのですよ、分かりますか?!」


「いや、実にその通りですよ! だから私はあなたを支援して、こうしてこの支援会を開いたのです! 琵琶湖の付近でキャンプをする若者がいますねえ。彼らの残したゴミの問題を始め、**先生には実現してもらいたい政策があるのです!」


 酒に酔っているせいか、父の舌はよく回っているが論点がズレている。幼いながらも、父が支援会の会長を務める地元民の俺は、恥ずかしい思いをしながらオレンジジュースをちびちび飲んでいた。


「特に最近、レッテが住み着いていますねえ。奴らは体を売り、血を吸って我々人間を吸血鬼へと変えていく。奴らは早く追い出さないといけない存在です。先生、よろしくお願いします!」


「ええ、もちろんですとも! あの汚いゴミどもは私たちの街には要らないのでね。処分して当然です!」


 父の目はギョロっとしていて、琵琶湖に住み着く外来魚のような怖さを感じさせる。彼の目につかないように、俺は携帯にイヤホンを繋いで静かに動画を見ていた。だが、その言葉を聞いて、内心思い当たることがあって、そのことで体が震えていたのだろうか。


「おい真夏!」


 イヤホンをもぎ取られ、シャツの胸元を掴まれた俺は冷めた目で彼を見つめていた。小さな傷があちこちに付いた体は夏だから露出部分が多く、俺の待遇がよくわかる状況にあった。


「…………」


「何だその目は! 何も言えねえのかおめえは!」

 そのまま床に叩きつけられた俺は起き上がって、首を絞めようとする父をとっさに避ける。いつの間にかついた技らしい。

 生きるのに必死で、携帯を手に俺は裸足のまま家を飛び出した。時刻は夜の七時半を回った頃のことだった。


「おい真夏! 逃げんじゃねえ……」


 父の罵声がだんだん遠くなるのを感じる。この健脚で、あの湖水浴場へ、父の嫌う琵琶湖岸に逃げてみせる。その途中にある派出所には、俺の恋人を誘拐したとして指名手配されている柚木藍の写真も貼られている。


 父と喧嘩した夜、外へ飛び出した俺は、その先で泣いていた少女と出会い恋に落ちた。彼女が俺の垂らした鼻血を、ティッシュで拭ってくれたのが始まりだった。


「ねえ、苦しくても笑うのはなぜ?」


 そう真顔で聞く彼女に困りつつも、俺は自分なりの答えを教える。


「だって笑わないと、前へ進めない気がするから……」


 彼女は俺の姿を見て、自分の苦しみをよそに他人である俺を心配してくれたのだ。涙を拭いてほしくて渡そうとしたハンカチも、彼女は避けて逆に自分がティッシュでその他人の涙を拭いて慰めてくれた。


 水面に満月が浮かぶ一日の夜、他に誰もいない湖水浴場にふたりきり、湖を眺めながら沈黙が続く。その沈黙を破った彼女の言葉。


「私は自分を持つ人が好き」


 その言葉でついに心が決壊した。ふたりで愛を確かめ合おうと、自然と口を交わして彼女を押し倒していた。だが、例のポークピッツが彼女には、彼にはついていたのだ。それでも愛していることに気付いて、俺は毎日のように足繁く通っていた。


 やがてその後、彼がレッテであること、つまり日光を浴びられない、吸血願望などといった症状を持つインデル症候群の患者であることを知り、さらに彼らを統括する団体から追われて逃げていることも知った。


 市長候補者の支援者を父に持つ俺は、さっきの言葉を自分の恋人に告げないといけない。そう心に決めながら湖水浴場へ向かっていた。


 やがてそこに着いて、機嫌よさそうに裸足で湖に入っていた恋人を見つけた。ああ、こんな緊急事態にもかかわらず、俺の心はその白く伸びた脚へと向かうのだ。恥ずかしいことだ。


「りんねぇ!」


 その名を呼ぶと、恋人も俺の声に気づいて手を伸ばして俺の名前を呼び返す。


「まなつ! やっほー!」


 俺はそのまま裸足で湖に足を入れて、琳音の手をつかんだ。俺が何を伝えたいのかに気づいたのだろうか。彼はどこか顔を曇らせて、心配した様子で聞いてきた。


「何かあったのか?」


 不安げな表情も見ていて愛おしい。そんな背徳的なことを思う傍らで、俺はさっき父が叫んでいたことを告げた。


「親父がよお……。市長候補者に頼んだんだ……。『琵琶湖付近のレッテを追い出してくれ』って。それってお前が先生もろとも……」


 ヤバい。さっきの太ったオッさんが市長になって、レッテへの政策が実行された時のことを考える自分がいて、その果てを想像すると涙が止まらなかった。


「お前が……、いなくな……っ、いやだ。ずっといっしょに……、しぬまでそばにいたいんだ……」


 大きなネコ目が歪んで、涙を流し続ける俺を映し出す。ああ、きっと今の俺、琳音の瞳にはブサイクに見えているだろうな。

 そんなことを思いながら自分の気持ちを吐露する自分に、琳音が手を引いて砂浜へ案内する。その手は優しくて、今までここまで気遣ってくれる人がいたかと自分でも思うほどだった。


「真夏……。話そう」


 砂浜に座らされた俺は、自分がずっと涙を流し続けているのとは対照的に、琳音が凛として冷静なのに違和感を感じた。だって、今まで通りの暮らしができなくなる可能性が出てきたのに、よくもそんな……。


「なあ、お前は怖くねえの? 家もなくなっちまって、またどこかへ逃げなきゃいけなくなるんだぜ?」


「……、何だろう。慣れちまったからかな。そのことについては何も感じないんだ。でも、お前と離れるのは嫌だな」


 琳音がこちらを伺うように俺を見つめて、ありのままの答えを漏らす。日本中をさまよってここに来た奴は違う。俺とも、普通のレッテとも。


「政治って怖いんだぜ。ある国では少数民族へ迫害があって、ある国では意見の相違で内乱が起きて、国を追われる人たちも出てくる。そしてお前の親父が支援してる候補が当選すれば、俺もこの街を追われる……」


 目に涙を溜めた琳音が、自分の過去をポツリポツリと語り出す。どこか肩は震えて、俺の手を握って、肩を寄せてきて。いつもの凛とした姿の彼とは違い、何かを恐れているようだった。


「なあ真夏、今日はこの手を握っててもいいよな?」


「何を突然……、俺はいつでもいいんだよ。お前が避けてきただけで」


「おれさ、いつも腹が減ってんだ。普通の食い物じゃねーぞ、血って意味でだ。あの団体は会員には安く薬を買えるようにしてるが、おれは隠れて住んでるからそんなことができなくて薬が手に入らねえんだ」


「えっと、つまり吸血願望を抑える薬が高くて買えないと?」


「ああ……。だから先生の血を吸って、先生もおれと同じ存在に……。日に日に弱っていって、おれがとうとう世話する側に回っちまったぜ。今日もシャワーを浴びさせてきた」


 楽になりたい。政治から来る貧困に、貧困から来る悲劇に巻き込まれてしまった彼の境遇を憂ながら、俺は琵琶湖の湖に浮かぶ月を見た。その月は出会った時と同じように、満月だった。

 その小さな体で大きな大人を、しかも若い男の体を世話するのは大変だろう。俺は琳音を抱きしめて彼に話してみた。


「この世は苦しいことや悲しいことでいっぱいで、俺はそれを変えることができない。あの政治家候補は……、その……、大多数の幸せのために、少数派を不幸にできる精神の持ち主だ。今のお前では無理だけど、俺にはできる。レッテがどんなに苦しい生活をしてるか。その証人がお前だ」


 ああ、できないことを言ってしまった。後悔で心中はいっぱいだったが、琳音はその話を聞いて、顔を上げた。


「……えっ?」


 このハッとして目を丸くした顔。今更嘘をついただなんて言えない。自分がしないといけないんだ。


「俺を信じてくれ……」


「うん……」


 肩を抱き合って、俺たちは自分たちの境遇を嘆き、またそれを一方が変え、一方が信じる決意を固めた。


「なあ青崎ぃ、今週の日曜日に選挙があるだろ?」


 勉強していた青崎雅彦に、俺は例のことを漏らしてみせる。奴の父親はジャーナリストの息子だ。それもかなり有名な。


「なんだよ、ったく……」


 それがなにか? メガネをクイと上げて、肘をついて彼が聞いてくれた。


「俺さ、**って人の支援会に参加したんだよ。親父が支援会の会長でさ」


「ああ、で?」


「聞いちまったんだ。……その、優生主義っつーの? その人がレッテを『ゴミ』って呼んでるところに遭遇したんだよね」


「……おい、マジかよ」


 静かに騒ぎ出す青崎に、オレはあの後、彼が何度も言っていたレッテへの言及を録音した携帯音声を聴かせた。


『……何が幻影灯劇だ! 何が『正しき者』だ! あいつらにはそのまま『ヴァンパイア』とでも呼んで全てを奪ってやればいいんだ!』


『夏休み、湖水浴場に来るレッテどもが邪魔ですねえ。でも、アイツらは私たちより力が強い。どうしてでしょう? なぜ国政に関与できているのでしょう?』


「……ありがとう、真夏。いいスキャンダルになりそうだ」


 そうニヤける青崎の顔はどこか悪らしい。きっと例のじいちゃんからこの音声をネタに、小遣いでももらうのだろう。


「携帯は一日借りるぜ、いいか?」


「どうぞ」


 こうして、俺は笑顔で彼にあの日、例の市長候補者が吐いた優生主義の言葉を録音したデータを渡した。


 それから数日後、大阪の新聞で例の音声がスキャンダルとして取り沙汰され、大津市長選は東京の官僚たちが注視するほどのものとなった。


 当日、父は焦った様子でデータの元を探そうとしたようだが、無駄だった。まさか子供が、こんなことをしているとは思いもしなかっただろう。中学受験で習ったことが役に立った瞬間だった。


 そんな夏がまた訪れ、俺もまた十六歳を迎える八月十一日が近づく夕方。病室で眠る琳音の体勢は、半身を起こしていた。この体勢は戦争が多かった中世ヨーロッパの人々が、有事の際に起きることができるようにしたもので、彼は入院してから、寝るときはずっとこの体勢だ。


「もう怖くないのに……」


 俺が文句を静かに言うと、彼が目を開けた。傷がやっと癒えてきた顔をタオルで彼は拭いて、俺と目を合わせる。


「……っ、真夏!」


「よっ、もうすぐで八月十五日だな」


「その前に真夏の誕生日が待ってるじゃねえか。おめでとう」


 さりげなく言われた「おめでとう」という言葉に、俺はつい嬉しくなって彼のあちこち火傷した体を抱きしめる。電気絨毯で、死ぬか死なないかの間を行き来した形で拷問されたその体も少しずつ癒えてきていた。とはいえ、最初は膿がすごかったが。


「痛えな。でも、嫌いじゃねえ」


 ひばりのような声で静かに答える彼の言葉に、俺は無言になって四年前の出来事を思い出す。


「……なあ、お前はずっと辛くなかったか?」


「なにが?」


「市長選があっただろ?」


「……ああ、あの人ね。もう昔のことじゃん」


 過去のことを語るように、琳音は静かに言って黙り込む。


「俺は忘れられねえ。あの時、もし市長選でアイツが当選したと考えるともう……」


「過去を憎んでも囚われるだけだよ。昔のことなんて忘れて、今を楽しんで、どう生きればいいかを考えて、仲間たちとバカやればいい」


「……それって真中も含まれるのか?」


 恋敵の千代真中。奴が離れ離れになっていた俺と琳音を再会するきっかけを作ったのは違いないが、あの巨乳が憎い。ウザい。それでも、四年前の八月十五日、輪姦とリンチがきっかけで別れたままの俺たちを繋げた恩は忘れられない。


「うん。アイツ、何でもしてくれるからな」


 あくまでも俺が好き、と言ってくる琳音は顔を赤くして、俺と目を合わせる。照れ屋の琳音にしては珍しい。

 そして近づけあった唇はあの日のようにキスをして、お互いの愛を確かめ合うように何度もねちっこく絡めあう。唾液が溢れて、布団の上に落ちても俺たちは気にしなかった。


 その途端、扉が開く音がした。俺たちは何もないフリをしようとしたが、遅かった。リンゴを持って見舞いに来た真中が、俺と琳音のキスを目撃してしまったのだ。


 お互いに黙りあって、何を話せばいいかわからないまま何分も経つと、真中がやっと我に返って、リンゴを椅子に置いてそのまま帰っていった。


「邪魔してごめん」


 閉じられた扉は、空虚な世界観を病室に作る。だが、俺はその空気感を破るように昔の話へと話題を戻す。


「あの大阪の新聞でのスキャンダル。あれ、俺がネタもとだったの、今も親父は知らねえんだぜ? 滑稽だろ?」


「ああ、あの小さな体の子供がやるとは思いもしなかっただろうよ? 親父さんが機械音痴でよかったねえ」


 そう笑う琳音は、どこか明るさを取り戻した子供のように戻っていた。むかし、小学生だった頃に戻って大津の湖水浴場で遊んだ頃のように。

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