かささぎ
月庭一花
かささぎ
わたし、結婚する。
そう、言われたとき。咄嗟におめでとうって、言えなかった。素直にお祝いの言葉が出てこなかった。
わたしは言葉に詰まってしまったのをごまかすようにブラックのアイスコーヒーを一口飲んで、白を見た。白は照れくさそうに笑っていた。
「式は、いつ?」
わたしの声は自分でも笑っちゃうくらい掠れていた。冷たいコーヒーを口にしたばかりなのに、全然役に立ってくれない。店の中の微かなざわめきが、やけに耳についた。
「六月はもう式場が空いてなくて、無理だったから。七月の、……ええと」
白は手にしていたフラペチーノを置き、傍らの鞄から取り出したスマホを見て、
「第一土曜日」
と意味ありげに言った。そう言われても日付がわからないので、わたしもスケジュール帳を取り出してその日を確認した。
「七日じゃない。七夕の日?」
「うん」
ロマンチックでしょ?
白の髪が西日を受けて、亜麻色に光っていた。
「一番に、Uに報告したかったの。……喜んでくれる、よね」
「もちろん」
「ありがと。でも……なんか照れるね」
はにかむ白を見つめながら、もう一度、コーヒーを口に含んだ。味なんてなんにも感じない。ただ苦いだけ。わたしの胸に開いた暗い穴の中に、流れ込んでいくだけだった。
スタバを出ると白は自然な仕草でわたしの右手を取った。そして外の眩しさに目を細めて、薄い色のサングラスをかけた。
「今は実家?」
わたしがふと訊ねてみると、白は小さく首を横に振った。
「アパート。結婚前に一度戻ると思うけど。しばらく部屋は解約しないつもりだから。あとでまたお酒でも飲もうよ」
白がわたしの方に顔を向け、にっこりと笑う。サングラスをしていてもちゃんとわかる。わたしはそうね、いつにしようか、なんて言いながら、見知った白の住む街を眺めた。
午後三時の商店街は人通りもまばらだ。
おばちゃんの乗った自転車がわたしたちのすぐきわを通り過ぎていく。風が流れてきて、白のやわらかな髪が少しだけ揺れた。
駅までそのまま歩き、別れた。わたしの右手には、彼女の指先の感覚が、ずっと残っていた。
わたしの右肩と、白の左肩には、同じ刺青がある。
大学生の頃、軽音部でバンドを組んでいたときに入れたものだった。ふたりともシド・ヴィシャスの大ファンで、パンクロッカー気取りで。若気の至りというやつだったのだろう。幾つものピアスとともに、勢いで入れた。意匠化された、烏と薔薇の花だった。
電車に乗りながら、考えた。あれほど開けていたピアスの穴も、あらかた塞がってしまった。肩の刺青だって、色褪せてしまった。
わたしはため息をつき、あれからもう八年だものね、そりゃ結婚だってするよね、と。小さな声でそっと、呟いてみた。怪訝そうに近くに立っていたおじさんがわたしを見たので、思わず睨みつけてしまった。おじさんは慌てて視線を逸らした。……やだな。自分自身に嫌気がさして再び深いため息をつく。どうしてこんなに苛つくんだろう。地下鉄が次の駅に着いた。おじさんはどこかに消えてしまった。
白が大学を辞めたあとも、わたしたちの友達としての関係は続いた。在宅の仕事をするようになった白は、一人では出歩くことも少なくなっていた。引きこもりがちな生活を送っていたはずだ。
そんな彼女だったから、どこでその男と知り合い親しくなったのか、よくわからないのだ。説明された気もするのだけれど、呆然としているうちに右から左へと耳を素通りしてしまった。結婚したら彼の地元の……佐賀県と言っていただろうか……で暮らすらしい。でも、それにしたって……。
結婚。……結婚かぁ。
久しぶりに白からお茶がしたいなんて誘われたと思ったら、まさかそんな話をされるとは思ってもみなかった。というか、白に恋人がいたことすら知らなかった。軽くショックだった。
しかし、お互いにそういう歳になったということなのだろう。
わたしにしたところでこれまでに何人かの男と付き合ったり、寝たことはある。結婚を意識したことだって、ある。でも、どの恋愛もそれが現実になるほどには長続きしなかった。セックスというものに対してわたしが積極的になれなかったのが原因で、別れたときにはいつも、単純に体の相性が悪かったのだと思っていた。
だが、あるとき理解した。
一緒に過ごしていて、ある瞬間にふっと伝わってくる、やれるかやれないかといったような、そういう気配が嫌なのだと。男を感じさせる匂いそのものが嫌いなのだと。だから。
ここしばらくは恋人のいない生活を送っていた。友達とつるんでいる方が楽しかった。なんとなく、白もそうだと思っていたのに。
ちらりと視線を上げると電車の扉のガラス窓に、薄い影のような自分の顔が映っていた。ひどく情けない表情をしていて、まるで迷子の子供みたいに見えた。いつもの帰り道のはずなのに、どこかで曲がる道を間違えてしまって、気づいたら取り返しがつかない場所に立っていて泣きそうになっている。そういう子供の顔だった。
わたしは地下鉄の扉に背を向けて、目をつむった。そして考えた。
白が結婚する。
喜んであげるべきなのに。
どうして、……こんなに胸が痛むのだろう、と。
それが二月下旬の頃のことで、気づいたらもう、四月も半ばに差し掛かっていた。
「約束、覚えてる?」
白から電話がかかってきたとき、一瞬なんのことかわからなかった。約束、約束……と心の中で呟きながら、空想のメモ帳をめくってみる。時々メールのやり取りはしていたが、はて、約束なんてしていただろうか。
「もう。一緒に飲もうって、言ったじゃない」
「ああ、うん。それね」
「忘れてたでしょ」
忘れるわけがないじゃない、なんて言いながら、実は忘れていた。
ううん。違う……。
本当は忘れたふりをして、忘れようとしていただけだった。そこにどのような違いや差があるのかはわからない。でも、わたしはなるべく白のことを考えないようにして日々の生活を送っていた。心のもやもやをそのままにして、蓋を閉じるようにして。日々をやり過ごしていたのである。
「今夜、空いてる?」
白の言葉にふと我に帰る。
「U?」
「聞いてる。空いてるよ」
「じゃあ、飲もうよ」
「どこで?」
久しぶりに、あそこに行きたいな。
白ははにかむようにそう言って、小さく笑った。彼女の声がスマホを通してわたしの耳をくすぐった。わたしはその声に甘い痛みを覚えながら、いいよ、付き合うよ、と答えた。
彼女が指定したのは、三田駅近くの飲み屋だった。
わたしは夕方近くになってから家を出た。その飲み屋のことは忘れられない。大学生時代によく通った、薄汚れた感じの、どこにでもあるような安酒場。違っているのは壁面がセックス・ピストルズの写真で埋め尽くされていたこと。もちろんそこにはシドの写真も含まれていた。当時から相当年季が入っていたから……今ではかなりぼろぼろになっていることだろう。そんなことを思いながら、わたしは懐かしさに頬を緩めた。
喧嘩もした。
お店が閉まるまで飲み続け、そのまま日比谷公園まで歩いて行ったこともある。
覚えている。ふたりで朝日を見たこと。
歩きながら見た東京タワーが綺麗だったこと。
全部。全部が懐かしい。
その頃の白は髪を脱色しすぎていて、金髪というよりも銀色に近かった。いつも同じ擦り切れた革ジャンを羽織っていた。黒く塗られた唇が綺麗だった。
今ではその唇は、淡いピンクの色をしている。もう、擦り切れた革ジャンなんて着ないだろうし、髪の毛だってゆるくパーマをかけていて、ふわふわだ。
ふと思う。
結婚する彼は、彼女の昔の姿を知っているのだろうか。
左肩に刻まれたタトゥーを知っているのだろうか。
そして、……鏡のように同じ刺青を刻んだ人間がいることを、知っているのだろうか。
地下鉄の駅から出ると、そこはもう夜だった。
ビルの向こう側に、オレンジ色にライトアップされた東京タワーが顔を覗かせている。
八年前と変わらずに、そこに佇み、輝いている。
わたしは小さく息をついて、しばらくその姿を眺めていた。
ふらふらと脇道に入って行った白が、暗がりで嘔吐していた。
わたしは、あーあ、と小さく口にしながら、
「何してんのよ。大丈夫?」
と声をかけた。
白は涙と鼻水でぐしょぐしょになった顔で、あはは、と笑った。
そういえば酒、酒と言う割に、白はアルコールに弱かった。けれどここまでしたたかに酔った姿を見るのは久しぶりのことで、たぶん学生の頃以来、だろうか。
「今日はちょっと飲みすぎ。ほら、口の周り拭きなよ」
「ありがとう」
白はそう言って、わたしの差し出したハンカチを手に取った。
「洗って返すから」
「いいよ、あげる。ご祝儀の代わり」
「……ずいぶん安くあげられた」
なら返せ、と言うと、白はまたケラケラと笑った。
暗がりの中で、白の目だけが光って見えた。こんな路地に街灯はなく、大通りの車のヘッドライトが、時折わたしたちを濃い輪郭線で縁取っていく。
「ほんとはね」
ぽつり、と白が言った。
「ちょっと迷ってるんだ」
「なにを?」
「んー。結婚?」
「……どうしてよ」
わたしは訊ねた。
「マリッジブルーってやつじゃないの、それ」
そうね、そうかもしれない。乾いた声で呟いて、白は小さく笑った。……でも。
「でも、……こうやってUを呼び出して、一緒に吐くまで飲むことなんて、たぶんもうない。いつでも近くにいると思っていたのに。九州。九州って、そう思ったら急に、……怖くなった」
わたしは何も言えなかった。静かだった。車が背後を走り抜ける音がする。それだけだった。
そのうち、鼻をすする音が聞こえた。わたしはたまらなくなって、白の手を掴んだ。
「……U?」
「行くよ。いつかみたいに。歩こう」
わたしは路地から彼女を引きずり出し、明るいほうに向かって歩き出した。オレンジ色に輝く、あの東京タワーに向かって。
一緒に。ふたりで。
芝公園の向こう側に、大きくそびえ立っているのが少し前から見えていた。
公園の入り口に設置されている平和の灯がチラチラと燃えていて、ぼんやりと光っているその先。増上寺の境内の後ろに暖かな色で照らされている。
東京タワー。
わたしたちは手を繋ぎ合わせたまま足を止め、その姿を見つめていた。通りを行き交う雑多な人種に混じって、ぼんやりと、ただ黙って見つめていた。
「……綺麗。わたし、今日見たあのタワーのことを、絶対に忘れない」
白が感慨深げな声で言う。わたしも同じことを思っていた。この先も東京タワーを目にすることはあるだろう。一人で。あるいは他の誰かと。でも、わたしだって忘れはしない。白と二人で見たこの東京タワーを何度も、何度も。今見ている光景を夢に現に、リフレインするだろう。
いつまでもそうしてタワーを見上げていたら、白が不意に、
「ねえ、わたしの嫁ぎ先……佐賀県の県の鳥って、なんだと思う?」
と訊ねた。
「何それ?」
わたしはちらりと白を見た。あまりに脈絡がなさすぎて意図がわからず、思わず訊き返してしまった。白はくすくすと笑っている。
「答えは、……かささぎ」
「知らないなぁ。そんな鳥、初めて聞いた。見たこともないよ」
嘘。知らないわけないよ。
白はそう言って、上着を脱ぎ、左腕の袖を肩口までまくってみせた。そこにいるのは見慣れたはずの、薔薇に烏。
なのに。
「この鳥。本当は烏じゃなくてかささぎなんだよ。ほら、胸のところが……白く抜けているでしょう」
「え? 気づかなかった。本当に?」
わたしも着ていた薄手のスプリングコートを脱いで、カットソーの右襟を思い切り肩まで下げた。下着の紐の、その向こう側。
……ずっと烏だと思っていた。
「なんてね。たまたまそう見えるだけ。烏だよ、これ」
「もう。つまんない冗談言わないでよ」
わたしはいそいそと襟を戻し、コートを羽織った。白は左腕を肩まで覗かせたままの姿で、東京タワーを見ていた。
「……だってさ。もしもかささぎだったら、さ」
ふと言葉を切り、白は袖を戻した。わたしはそんな彼女を横目で見ていた。
「距離も何もかも、いろんなこと全部。飛び越えられるかもしれないじゃない。わたしたちをずっと、いつまでも繋いでいてくれるかもしれないじゃない」
「なにそれ?」
「七夕の……。かささぎの言い伝え。Uは知らない?」
白がわたしを見た。わたしは知らないよ、と答えた。それから胸の痛みに気づかないふりをして、小さく笑ってみせた。
「ねえ、白。どんなに遠く離れていてもわたしはこのタトゥーを見るたびに白を思い出すよ。このタトゥーに触れるたびに白を想う。最初から距離なんて関係ない。……そうでしょ?」
「うん。……そうだね。わたしもUを感じながら生きていくと思う」
わたしたちはじっと見つめあった。
四月の夜は、甘い花の匂いがした。
「……結婚おめでとう」
祝福の言葉が、初めてわたしの口をついて出た。
白は何も言わなかった。そっと目尻を拭うと、わたしの右手をとった。いつものように。……ううん。赤子を抱くように。
心から大切にしているものを、優しく抱き上げるように。
わたしの手を握った。
そしてそのままいつまでも、ふたりで東京タワーを見ていた。
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