月庭一花

サカブ

 構えた銃口の先、こちらを睨んでいる熊の口から、漏れ出た呼気が白く煙った。距離は五間と離れていない。マオは音を立てて鳴る奥歯を強く噛み締め、照準を定めた。仁王立ちになって吠え猛る熊の姿に、思わず息を飲む。……胸。胸に白い毛の模様が、ない。

 月輪のない皆黒ミナグロ。……やっぱり、こいつが。

「お前が、母さんとジュンの仇かっ」

 怒りを込めて引き金を引く。降りしきる雪に紅い火花が混ざり、熊の右前足から同じ色の血が飛び散った、そのときだった。地響きのような音と共に大気がびりびりと震えた。

 慌てて背後を見ると、ブナの木をなぎ倒すようにして白銀の壁が迫ってくる。そんな、まさか。マオは驚愕に目を大きく見開いた。

 ……雪崩だっ。思い至った時にはすでに遅く、マオは白い闇に深く飲み込まれていた。


「お父さんは、どうして熊をつの」

 マオは父に訊ねた。父は黙ってマオの頭を撫でていた。何も語らずに。ただ次の日の朝早く、もやのたなびく三ツ月山へと、まだ眠い目をこするマオを連れて出たのだった。

 朝日に照らされて、幼いマオの目の前には、若葉に萌える山の景色が延々と広がっていた。雪解けの小川の水はまだまだ冷たいが、ブナの林を抜ける風はどこか穏やかだ。父は不意に立ち止まると、木の幹を指差してこう言った。これはイタズの爪痕だ、と。

「熊? この辺り、熊が出るの?」

 まだ幼かったマオは、驚いて辺りを見回した。あれだけ美しく思えた山の風景が、途端に恐ろしいものに見え始めたのだ。

「山菜採りに山に入った人間が時々熊に襲われる。新聞やなんかでも、時々聞くだろう」

 父は幹についた深い爪痕に指を這わせつつ、そう言った。マオは父の服にしがみつくようにしながら、その様子を見ていた。

「人を襲うから……だからお父さんは熊を?」

 父はマオを見下ろして、首を横にした。

「人も熊も、山に生かされている。山の実りは何も、人のためだけにあるんじゃない」

 幼いマオには父の言葉の意味がわからない。けれどそれ以来マオは父について時折山に入るようになった。山菜を採り、秋には大きな舞茸を採った。けれど狩りにだけは同行させて貰えなかった。冬になると父は銃を携えて一人で山に入り、鹿や熊を獲って戻ってきた。

 この地方では冬ともなれば身の丈を超えて雪が降る。山が雪に閉ざされてしまう晩秋から初冬のあいだだけが熊の猟期として認められている。事件はそんな秋の始めに起こった。

 その年は例年になく実りの少ない秋だった。

 冷夏で農作物が壊滅的な打撃を受け、それが山にも波及していた。熊が冬篭りをするための十分な食料が、山になかったのである。

 マオは成長し、美しい女学生になっていた。

 その日はたまたま補講で帰りが遅くなった。すっかり暗くなった道を急いでいると、なにやら家の周囲がざわざわと騒がしかった。

「何が、……何があったんですか」

 近所に住む世話好きなおばさんはマオの声を聞くと慌てて駆け寄り、顔を伏せて泣き出してしまった。マオちゃん、マオちゃんのお母さんと、妹のジュンちゃんが熊に……熊に。それ以上は声にならなかった。マオは蒼白になって、ただ、その場に立ち尽くしていた。


 ぱちり、という火の爆ぜる音で目が覚めた。

 慌てて跳ね起きようとすると、足に激痛が走った。恐る恐る触れると左足には添え木がしてある。手当て……一体誰が。

「おや、目が覚めたようだね」

 鈴が鳴るような、美しい女の声だった。今時珍しい絣の着物姿で、髪を結っている。家も今様ではなく、ひどく古くさい。囲炉裏のそばには三つのねんねこが置いてあり、その中で幼子が三人、すやすやと眠っていた。

「ここは……?」

「あたしの家だよ。あんた、雪崩に巻き込まれたんだ。半分雪に埋もれて、死にかけているのを見つけたんだよ」

「手当ても?」

「他に誰がいるのさ?」

 女はそう言ってくつくつと笑った。口元に添えた右手には包帯が巻かれていて、まだ新しい傷なのだろうか、血がにじんでいた。

「あんた、女なのに獣を殺しに山に入るのだね。昔は猟期に女が山に入るのを嫌ったものだが……これも時代かね」

 マオは唇を噛み、視線を逸らした。父が生きていたなら……仇を討ってくれていたなら。自分が山に入ることにはならなかったはずだ。

「わたしの……銃は?」

「わたしの銃?」

 女は薪を焼べながら、また笑った。

「あんたはまだ子どもだろう? 猟銃シロビレを手に取れる年ではないじゃないか。それは……ああ、そうか。父親の、だね?」

 マオは答えない。女は笑い続けている。

「あの男は偉大な、最後のマタギだったのに。あんたはそれを、穢してしまったんだね」

「他人のあなたに、何がわかるっていうのっ」

「大声はよしとくれ。子らが起きてしまう」

 ちらりとねんねこを振り返り、女は言った。

 ……冬眠前の熊が食料を求めて人里に降りるケースは、決してまれではない。熊は基本的には自ら人を襲わない。けれど、例外はある。餌を目の前にした時。人間に騒がれた時。マオの母と妹の場合も、まさにそれだった。

 その後山狩りがあり、父もそれに参加した。目的の熊を見つけたのは父だった。けれど仇を討つことなく山を降り、父は自殺した。奴は皆黒だった。タテを返す。そう言い残して。

「あんたの父親が自殺したのは、山の摂理に絶望したからさ。そうするしかなかったんだ」

 女が言った。マオは驚いて、思わず女に掴みかかろうとした。雪の音がした。飄々と。古い家に、雪の当たる音がした。

「手当はしてやった。山を降りるんだね」

「……そうはいかないわ。あの熊を、仇をっ」

「なら、思うようにするがいいよ」

 それから女は静かな声で、山は命を育み、命を奪うと言い、三人の子どもたちの頭を順に撫でた。子どもは皆すやすやと眠っていた。


 猟には連れて行ってもらえなかったが、猟の話は色々と聞かされた。主に、熊の話を。

 曰く、熊は山の神の使いだ。特に胸に月輪模様のない皆黒は、山の神そのものだ。獲ってはならない。また四匹で行動する熊も四つ熊と言って獲ってはならない。もしも殺したら、タテを返さなきゃならない。タテは山言葉で槍のこと。猟師をやめるということだ。

 いつの間に眠ってしまったのか、幼い頃の、父との会話を夢に見た。真央が目を覚ますと女も子どもも消えていた。囲炉裏の火も消えかけ、刺すような冷気が部屋を包んでいる。

 父の猟銃は壁に立てかけられていた。

 雪は止んでいた。空き家を出るとすぐに、熊の足跡を見つけた。雪の上には点々と血が滴っていて、跛行している。これは昨日の皆黒に違いない、マオはそう思い、痛む足を引きずりながら、山を登っていった。猟期が雪の時期に設定されているのは、雪のおかげで熊も足跡も、見つけやすいからでもある。

 熊は昼過ぎに見つけた。三匹の子熊と一緒に、沢を渡ろうとしていた。マオは銃の扱いに不慣れだ。五間の距離で急所に当てられなかった。だから自分自身を犠牲にすることにした。母と妹の仇が討てればそれでいい、と。

「皆黒っ」

 マオは叫ぶ。

「勝負、勝負しろっ」

 それは奇しくも、マタギが熊を撃つときに叫ぶ言葉だった。左足を引きずり、木々の遮蔽を避け、狙いをつける。母熊は子熊を守るように、右足の負傷も気にせずに、マオに向かって黒い弾丸のように駆けてくる。

 雪煙が舞う。真っ白く覆われた山肌に、血をしたたらせながら、皆黒が迫ってくる。

 荒々しい吐息。血と獣の匂い。眼前に皆黒が仁王立ちになる。両手を大きく広げ、今にもマオの頭上に振り下ろそうとしている。けれどもう、マオには恐怖も畏れもない。相打ちでいい。攻撃を避けるつもりなど毛頭ない。銃口をピタリと喉元に向け、引き金を引いた。

 ダン、と一際大きな音が響き渡り、熊は仰向けに倒れた。二三度大きく喘いで、そして、

「……どうして。どうしてなのっ?」

 皆黒の熊は、女の姿に変わっていた。

「食べるものがなかった。子どもたちに食べさせるものがなかった。仕方がなかったんだ」

 それはマオを手当てし、一晩の宿を貸した、あの女だった。女はごぼりと血を吐きながら、でも、これであたしは山に還れる、と言った。

「ずっとずっと昔、山の禁を犯したあたしは、熊になった。次は……あんたの番だ」

 女が息をひきとると、途端に空が掻き曇った。瞬く間に猛吹雪となり、マオの視界を奪っていく。それは山で熊を撃つと起こるという、山神様の怒りそのもの。熊嵐だった。

 強い風の中で声が聞こえた。

 母様、母様と言う、子どもの声だった。

 マオは恐る恐る目を開ける。三匹の子熊がマオの周りを取り囲んでいる。慌てて銃口を向けようとして、自分の手が、すでに人のものでなくなっていることに気づく。指先まで毛に覆われ、鋭い爪を持ったそれは、あれほど憎んでいたはずの、熊のかいなだった。

 山神様は醜女だと言われている。だから女が山に入るのを極端に嫌う。その上皆黒を、四つ熊を撃ち、山を穢した。罰を受けるのは当然だった。マオは吠えた。それはもう人の声ではなかった。子熊たちはマオの周りを巡りながら、母様、母様と呼びかけ続けている。


 マオは遂に村には戻らなかった。

 ただ、雪の激しく降る日には、悲しそうなサカブを聞くことが、あるという。

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月庭一花 @alice02AA

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