つましい暮らしの貧乏人であるがゆえの心理を深掘りした小説だと思いましたが、十年以上も音沙汰がない時点でも持ち続けていた希望が失望に変わった瞬間、打ち砕かれた思いでいっぱいで生活を守る方に走ってしまう心理がほんとうに残酷で切ないし、少年は親たちの手のひらを返すような言動が辛かったでしょうね。
今回は朗読を見つけて視聴しましたが、朗読が上手いせいか物悲しい気持ちでいっぱいになりました。
作者からの返信
中澤さん、コメントありがとうございます!
いい朗読を聴かれたようで、お気持ちがよく伝わりました。
>つましい暮らしの貧乏人であるがゆえの心理を深掘り
その通りだと思います。この家族の心の動きを責めることはできないですね。これが正直な反応だと思います。それが切ないです。だから余計少年の優しさが沁みるというか。
一箇所だけ突っ込むとすれば、10年音沙汰がないにも関わらずジュールの成功を信じているところですかね。
でもそれを差し引いても本当に人間の心理を抉っている作品だと思います。
柊さん、こんにちは。
この話を読み始めて、前に読んだことがあるのではと思いました。チェーホフかトルストイの話で、たしか、「ロベルトおじさん」?
それで調べてみたのですが、彼らにこういう内容の小説はなく、私が読んだのはモーパッサンのこの「ジュールおじさん」ではなかったのかと思いました。
子供のための世界名作〇〇選とかに載っていたはず。
ストーリーはここの家はものすごく貧乏。でも、お母さんは、アメリカに行って大成功しているおじさんが帰ってくれば、すべでかうまくいくと言います。でも、いくら待っても、大金持ちのおじさんは帰ってきません。ある日、船に乗ることがあり、そこにおじさんそっくりの掃除夫を見るのです。以後、母親は二度とおじさんのことを口にしなくなります。
そんな話で、「僕」がそれ以後、物乞いの人を見ると100スーのチップをあげるようなる、という肝心のエピソードについては全く記憶のかけらにもありません。
柊さんの文章の中の、
「おありがとうごぜえます、若旦那様。あなたに神のお恵みがありますように!」
その言い方は、おじさんがアメリカでもこのセリフを言い続けていたに違いないと思わせる、乞食そのものの口調でした。
ここのところが特に痛いです。心にぐさりです。
私の場合、子供の時の思い出は、この本に対する記憶のように正確ではないのが多いです。でも、それは大人になって、たとえばこういうすばらしい文章に出逢う時、昔のことを思い出して二度味わえることになると思いました。
時々、美術館に行きます。会員なので、いつでも入れます。それほどの作品はないのですが、ただ古い友達に会うような感覚で行きます。
先日は土曜日が無料日なのを忘れて行ってしまったのですが、無料日には子供を連れたアジア系の母子がよく来ます。子供は絵画なんてわからないから、当然、走り回ります。いつもは迷惑だと思うのですが、その時は、「ジュールおじさん」を読んだばかりだったので、思ったのですよね、
今はわからなくても、この子供たちがいつか大人になり、絵を鑑賞した時には、その思いはこの記憶の上に重なるのだろうな、と。
「ジュールおじさん」とはあまり関係のないことを書いてしまいましたが、わたしが柊さんの文章を読んで、感じたことを書いてみました。
作者からの返信
九月さん、コメントありがとうございます。
なるほどそういう名作選みたいなのに入ってるんですね。あらすじからすると多分このお話ですよね。内容的には高学年向けでしょうけど、子どもが読むとどういう風に感じるんだろう。
モーパッサンが上手いのは、ジュールにほとんど喋らせないところですよね。表面しか見えない手紙や家族の間だけで作り出されるジュール像だけで成り立っていて、本人の気持ちとかの説明が一切ない、要は他人から見える人物像でしか人を判断してないところですね。引用された部分で男の子はおじさんの過ごしてきた日々を察しますが、ほかの登場人物にはそれがないですし。
男の子の優しさ以外はとてもシビアな視点ですが、子供もこういうの感じ取るのかな。
美術館のお話もそうですが、大人になってもう一度触れることで腑に落ちるって多いでしょうね。小説や絵は特にそうかも。子どものうちに触れておくことは、その時は分からなくてもどこかで眠っていてくれるんじゃないかなと思います。
もしかしたらフランスと日本は感覚が似てるのかなあ、と思いました。
そしてアメリカとは多分違う。
いいとか悪いとかじゃなく、考えさせられます。
作者からの返信
こういう落ちぶれた男をどんな視線で描くか、みたいなところでしょうか。モーパッサンの中には人間の弱さに対する侘び寂びの感覚があるようにも思えますが、もし月森さんのお考えのことと違ったらごめんなさい。
柊圭介様
ジュールという名前にハッとさせられます。
『ジュールの森』を拝読中ですが、ジュールの運命があまりにも過酷で哀しすぎてこちらに逃げて(!?)来たというのに…モーパッサンが描くジュールも可哀想でした。
学生時代に化学で習ったジュールの法則といい、ジュールというのはポピュラーな名前なのですね。
ジュール、ジュール…と、この短い文にいったい私は何度ジュールの名前を連呼するのでしょうか(;´∀`) (ああっ、美しいジュール! 君の境遇に胸が痛む。でも、きっとムッシュ圭介が幸せにしてくれるからね)
こちらのジュールおじさんも家族という柵に縛られることなく自由に生きて、ある意味幸せだったのだと思います。
作者からの返信
ブロッコリー食べましたさん、コメントありがとうございます。返事が遅くなってすみません💦
「ジュールの森」も読み進めてくださりありがとうございます。本作と交互に読まれているのを見て納得していました(笑)実は以前にもそういう方がおられたのです。ブロッコリー食べましたさんも繊細な方なんですね。
モーパッサンのジュールおじさん、皮肉で悲しい運命でしたね。仰るとおりこの時代はジュールって名前がとても多いです。長編のジュールがどんな運命をたどるか、どうぞ見守ってやってください(しかしムッシュ圭介とは……w)
前話でジュールおじさんの手紙を読んだとき、私は「きっと嘘だろうな」と思っていましたが、少しだけ違っていたようですね。雇っていた船長は「羽振りが良かったときもあったようだ」と言っていましたから、アメリカで少しは稼ぐことが出来たのかもしれません。しかしそれもジュールおじさんの嘘だったのかもしれませんが……。
作者からの返信
ジュールおじさんはきっと暮らしぶりのいい時もあったんじゃないかなと思います。商売でつい欲が出て失敗してしまったとか……。余計なことに手を出しばかりに全財産を失くしてしまったとか……。いずれにせよ金に縁のない人生を送る運命だったのかなと。
おじさんの視点で語られる部分がないだけに色んな想像ができますね。
救いようの無い人間の、いや生物の本質を突くようなお話ですね。役に立つか立たないか。実はこれ、本人の力というよりは、その時代の環境に適合しやすいか否か、という面もあるように思うのです。そして、適合しない者は棄てられる。残酷なまでの掟です。
そして。主人公の少年の『過分なチップ』が意味するところとは。刹那の憐れみは自己満足に過ぎないのか。それとも他者への優しさは、冷酷な掟を少しずつでも氷解し得るのか。
伯父さんやお母さんは、対局にありながらも固定した地位を占めるように思われるため、苦労は大きくても悩み得ないようにみえました。しかし、少年は。
悩み得るからこそ、その優しさが意味を持つのか。新たな苦悩を生じさせながら。
いけない。ランチタイムはとっくに終わっていました!
作者からの返信
呪文堂さん、コメントありがとうございます。
社会に適合しない者、は、どうなんでしょう、結局いつの時代に生きても「だめな奴はだめ」みたいにも思えるんですよね。その時代だから生きられなかったのか、それともその人間の「質」の問題なのか、堂々巡りしそうです。いずれにせよ弾かれるという残酷な掟はどの社会においても同じで。
この時の「僕」はそれこそ純粋な優しさで刹那的に過分なチップを渡したんでしょうが、大人になってもそれを続けるというのは、社会の冷たさを初めて目の当たりにした時のやるせなさをこういう形で埋めているのだろうかと思えます。ある意味自分のためでもありますね。
しかしほとんどはこの母のような割り切った考え方がほとんどですね。みな自分を守るのに精一杯ですし、そのために「役立たない者」を捨てるのは仕方のないことで、それを責めることもできないわけで。
ランチタイムには少し重たい話だったかも知れませんね。いつも深い考察、本当に感謝ですm(__)m
ジュールおじさんの末路……彼の人生や心の中より、「僕の家族」の行動を描写される目線がモーパッサン先生らしく、「人間は結局、損得でしか物事を量らないのでは?」と問い掛けられているような気持ちになりますね。
「僕」の行動に救いを感じます。優しさを忘れなかった「僕」の心が、氷の中の砂糖みたいに描かれている気がして、こちらのジュールも印象的でした(´。•ㅅ•。`)♡
作者からの返信
ジュールの内面を書かずに外側だけを見せているのはわざとなのでしょうね。人は行為とその結果が全てでありそれだけでしか評価されない、と言われている気がします。そしてそれも事実だと思います。
読み手はおそらく「僕」に共感しその行動に安心するのでしょうが、この物語では彼は余計にチップをやって母親に怒られるような非常識な存在なのですよね。当事者になった時、自分が「僕」になれるかは分かりません。
氷の中の砂糖とは言い得て妙ですね。教えて下さった芥川の言葉を思い出しました。
色んなジュールがいますねえ(^^;;
人間の欲と本音がわかりやすくて、いい言葉を使えば、ある意味さっぱりと清々しいです。
「僕」だけが優しい人間に育っているのが不思議ですね。
モーパッサンも、「僕」のような例外に心救われたことがあったんでしょうか。
作者からの返信
手のひらを反すという言葉がぴったりと当てはまる展開ですね。でもジュールの過去を考えると、どうしても助ける気になれない人物だったと思います…。
「僕」は語り手であるとともに家族を「観察者」の目で冷静に見ていますね。たまにこういう優しさのある人が出てくるのも作家の多面性を感じます。偏屈な反面、意外と友人に恵まれていたのかも知れませんね。
この作品記憶にあります。
自己吟味させられました。
「金の切れ目が縁の切れ目」のような冷たさですね。
他人ではなく身内ですから余計にそう思うんですね。
うーん、ジュールおじさん、名前が微妙です。
私の大好きジュールを頭の中から消して拝読しました。笑
作者からの返信
自己吟味させられるというの分かります。自分が誰の立場だったらどうするか、色んな方向からの見方もありますね。血が繋がっていることにどれほどの意味があるのか、とも考えさせられます。
何が正しいとか悪いとかのはっきりとした線引きのできない話は、もやもやするけど、それがリアルな人間の姿なんでしょうね。
名前…(笑)僕も微妙な気分ですけど、モーパッサンではこの話はやっぱり外せません。
心にしみる物語というのはこういう作品なんでしょうね。
作者からの返信
やるせないですね。短い話の中に色々なことを凝縮させる手腕は、本当に短編の名手だと思います。
こんにちは。こちらの短編は皮肉の中に優しさが見え隠れしていてクスッとなりました。 日曜になると着飾って練り歩くけど、父親の一張羅のコートには毎回シミがあったり、船上で奮発して買った牡蠣の食べ方を見せようとして汁をコートに溢すところなんてコントみたいで、人間の可愛らしさが出ていて笑ってしまいます。モーパッサンは人間臭さを描き出すのが上手ですよね。なんか体臭まで伝わってくるような…それでいて結末は俯瞰で見せるという。
ならず者でももっと図太くて一生親戚に迷惑をかける輩もいますから、ジュール叔父さんはまだ気が小さくて良心的かも(笑)。
「ぼく」が大人になっても多めに施しをするのは、そう言った人達を「別世界」と捉えていないからなのかなと。船上で最後に叔父さんに会って優しい言葉をかけたかったという「はげしい欲望」を思い出すのかもしれませんね。
作者からの返信
葵さんこんにちは、コメントありがとうございます!
皮肉な物語の展開と同時に、コートのシミや牡蠣の食べ方みたいな、彼らの暮らしぶりや人となりまで浮かび上がらせる描写が差し込まれていることで厚みがありますね。悲劇の中に滑稽さが混じるのがより人間的というか。この家族は決して憎めない人たちで、だからお母さんの態度に読者は悔しくも同意せざるを得ない。非常に上手いと思います。そしてその一切を観察している少年の視線も切ないです。
悪びれずに帰ってくる人よりはジュールおじさんの方がいい人なのかも知れませんね笑
「本当は声をかけたかった」というひと言に何とも言えない淋しさと子どもながらの悔しさを感じるんですが、施しをする主人公の底には、それがずっと残っているんでしょうね。どんな物乞いでも他人事にできない強い記憶として刻まれたのだと思います。
こちらにも過分な星をありがとうございました!丁寧なコメントに重ねてお礼申し上げますm(__)m