大成功をおさめたはずが…「ジュールおじさん」②

 ジャージー島へ船の旅に出た家族。


 ノルマンディー名物だけに、デッキには牡蠣売りスタンドがあります。そこには金持ち風な紳士に付き添われたエレガントな婦人がいて、年老いた船乗りがナイフで開ける牡蠣を優雅な手つきでつるりと呑み込んでいました。父はその仕草を見てうらやましくなり、自分もやってみたくなりました。

「どうだい、お前たち、牡蠣でも」

 出費のことが心配な母は父の申し出に首を振り、僕にも食べることを許してくれません。牡蠣ぐらい食べさせてやればいいじゃないかと思いますが、家計をやりくりしている母にとってはそれも贅沢すぎること。それで父はお婿さんと二人の姉だけを連れて牡蠣売りのところへ行きました。


 父はさっきの婦人たちを真似て得意げに「こうするんだよ」なんて姉たちに食べ方を見せていますが、慣れないものだから牡蠣の汁を上着にこぼしてしまう。その様子を眺めながら「だからやめときゃいいものを」と憎々し気に呟く母。ここまでは、日曜日の光景みたいで微笑ましかった。


 ところが──。

 

 急に父が真っ青な顔でこっちに向かって来たのです。そして声を潜めると、母にこう言います。


「おい、驚いたぞ。あの牡蠣売り、ジュールにそっくりなんだ」

 

 母は、はあ? となって、

「何言ってるのよ、アメリカで大成功してる人と一緒くたにするなんて、あなたもおかしなことを言うわね」

「じゃあお前ちょっと行って確かめて来い」


 牡蠣売りの顔を見て戻ってきた母は震えていました。


「あの人に違いないわ」

 船長に確かめてきて。でも気をつけるのよ。身内だってことになったら、またあの厄介者を背負う羽目になるんですからね。


 母にそう言われ、疑惑を晴らすために船長のところへ行った父と僕は、男の身元についてさりげなく尋ねました。

 すると船長はこう答えます。


「ああ、あれはアメリカで拾ってきたフランス人の乞食だ。ル・アーヴルの出身だそうだが、家族に借金があるから帰れないんだとよ。確かジュールっていったな。アメリカじゃ羽振りがいい時もあったようだがね。今はほら、ご覧の通りさ」


 その言葉に父は硬直し、口のなかで礼だけ言ってすごすごと引き返しました。

 もう疑う余地もない。一旗揚げて帰って来ると言ったおじさんは、浮浪者のような姿をした惨めな牡蠣売りに落ちぶれていたのです。

 客に向かって顔を上げることもなく、手にしたナイフで黙々と牡蠣を開け続ける年老いた船乗り。これが家族の期待を一身に背負っていたジュールおじさんとは。希望の星だったおじさんのなれの果てとは……。


 事実を知った母は怒り心頭の様子で、

「言わんこっちゃない。私には分かってたのよ、あの泥棒はなんの役にも立ちやしないだろうって。結局は家族のお荷物にしかならないだろうって!」

 そして僕に100スー硬貨(5フラン・約5000円)を渡して言いました。

「お前、姉さんたちを連れ戻して代金を払っといで。うちの大事な婿さんにあんな奴のことがバレたら大変だ。気づかれる前にさっさと逃げないと」

 

 僕は牡蠣売りに近づき、

「おいくらですか、ムッシュ」

 と尋ねました。──本当は「おじさん、」と声をかけたかった。

「2フラン50です」

 僕にお釣りをくれる水夫の手はシワだらけで、その老いぼれた顔は悲しく、打ちひしがれていた。

 これが父の兄。僕のおじさんなのだ。

 僕はたまらなくなって10スーのチップを渡しました。そしたら水夫はこう言いました。


「おありがとうごぜえます、若旦那様。あなたに神のお恵みがありますように!」


 その言い方は、おじさんがアメリカでもこのセリフを言い続けていたに違いないと思わせる、乞食そのものの口調でした。


 母は僕が過分にチップをやったと言って怒りましたが、お婿さんのいる手前それ以上は責めず、間もなく船はジャージー島に着きました。


 船を降りる前に僕はもう一度ジュールおじさんのところへ行って、何か優しい言葉をかけたかった。でも、もう客がいなくなったせいか、牡蠣売りの姿は消えていました。きっと船底の薄汚いねぐらにでも戻ったのでしょう。


 それから僕たちがジュールおじさんに会うことはありませんでした。


 だから、僕は今でも、物乞いの人間に会うと必ず100スー硬貨をあげることにしているのです──。



 世の中には「役に立つ人間」と「役に立たない人間」がいて、後者の最たるものであるジュールのような人間は、淘汰される運命にある。アメリカで彼がどう人生に失敗したのかは書かれていません。彼について分かることは何もない。ただ一つだけ明らかなのは、彼が家族の恥であり、役立たずであり、敗北者であること、それだけです。おそらく、この末路はジュールに一番ふさわしかったのでしょう。


 一見残酷なように見える母のセリフや振る舞いは、人間の本音です。ひとはみな自分を守ることに精一杯。羽振りがいいと聞いていた頃はあんなに待ちわびておだて挙げても、いったん落ちぶれたら視界に入らぬよう見放す。人間は結局、損得でしか物事を量らない。冷たいと思うか? 君もそうじゃないか? とモーパッサンが言っているような気がします。


 ただ唯一の優しさは、大人になった「僕」が物乞いに差し出す100スー硬貨。それだけで、この真実に満ちた話がほんの少し、救われるような気がするのです。




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