老画家の思い出「ミス・ハリエット Miss Harriet」①

 モーパッサンはノルマンディーの出身です。だからノルマンディー地方を舞台にした話がたくさんあります。でも、ノルマンディーノルマンディーと言われてもやはり見たことのない、行ったことのない方にはピンときませんよね。だからこの話を紹介する前に、いったんノルマンディー観光ガイドとしてその魅力をお伝えしましょう。


 えっと、ノルマンディーの場所は、フランスの地図の左上あたりです。イギリスと目と鼻の先のちょっと出っ張った部分(すごく出っ張ってるのは隣のブルターニュです)、そこからパリのあるイル・ド・フランス県のすぐ隣まで来るので、けっこう広い地方です。で、モーパッサンが好んで舞台にするのは、海峡を目の前にした港町。ノルマンディーにはドーヴィルとかオンフルールとか、バカンスや旅行で賑わう町がいくつもあるんですが、中でも人気はエトルタという町です。夏は観光客でいっぱい。これはもう画像をググって頂くしかないのですが、巨大な真っ白の岩が海岸沿いにそびえ立つ光景は圧巻です。長年の波によって削られたそのファレーズと呼ばれる岩は、本物を目の前にすると、「自然ってスッゲー」という当たり前の感想しか出てこなくなります。

 日本の風景で例えられるものがあるとしたら、そうですね、能登半島なんかどうでしょう(行ったこともない奴が言う)。日本海の荒波と大西洋の荒波がこれもリンクするような気がするのですが。

 とにかく、絶景。モネなどの印象派の画家はよだれを垂らして(かどうかは知らないけど)このエトルタのファレーズを描きました。ちなみにこの町にはモーパッサン通りがあります。誰得? 僕が嬉しいだけ。

 

 はい、この舞台を理解して頂いたところで、ようやく物語に入りましょう。なぜわざわざ画家がよだれなんて余計なことを言うかと申しますと、物語の主人公が画家だからです。現在は渋く歳を取り、白いひげを生やした老画家が、自分の若かりし頃の思い出を語る、という形でこの物語は進みます。そして、絵描きを主人公にするだけに、この物語のモーパッサンの風景描写は、ペンで書く印象派とでも呼びたくなるほど素晴らしいのです。だからそこらへんもちょいちょい引用していきたいと思います。


 さて、画家の回想はこのように始まります。


 ──僕はその時25歳だった。背中にバックパックを背負って、絵を描きながら、ノルマンディーの海沿いをさすらい歩いていた。町から町へ、宿から宿へ、この風来坊のような暮らしほど素晴らしいものはない。何の不安もなく、明日のことすら考えない毎日。きれいな湧き水があったから足を止め、ジャガイモを揚げるいい匂いがしたから宿を決め、時にはテッセンの香りに呼ばれてみたり、宿屋の女の子のナイーブなまなざしに誘われたりする。


 だけどね、このたった一人のさすらいの何が一番いいかって、それは自然だ。田園、森、日の出、日没、月明かり。そういうもの全部が、僕たち画家にとっては、地上との蜜月の旅なのだ。太陽が燦燦と降り注ぐ中、マーガレットやヒナゲシの咲き乱れる野原に寝転がって、はるか遠くに見える村を眺め、小さくとがった教会の鐘楼から響く正午の鐘に耳を澄ます。

 樫の根もとから湧き出る清水のそばで、緑に輝くつやつやとした髪のような草むらに腰を下ろす。そしてひざまずいてその冷たく透明な水に唇をつけ、のどを潤す。それはまるでこの泉と口づけを交わしているような心地だ。

 丘の上では愉快に、池の端ではメランコリックになる。そして大海に沈む夕日が、雲を血のような色に染めながらその真っ赤な影を河の上に投げかける時は、気持ちが熱く高揚する。夜のとばりが降りて、空に佇む月の下にいると、昼間の日差しのもとではけっして浮かぶことのない摩訶不思議な考えがいくつも押し寄せてくるんだ──。


 どうですか、このくだりだけですでに数枚の絵が出来上がりそうだと思いませんか。


 こうして旅をするうち、絵描きはベヌヴィルという小さな村に辿り着きます。エトルタへ向かう途中の、白亜の壁のごときファレーズの断崖絶壁の海岸線。真っ青な空にはカモメの柔らかく曲がった白い羽、碧の海には漁船の茶色い帆。潮の匂いのする風。心に曇りなく、自由を満喫する若い画家の姿。


 彼は海岸線から外れ、その小さな村にある一軒の宿に落ち着くことにしました。5月の爽やかな季節。りんごの花が香り豊かに咲き乱れる小さな一軒家。

 日本で言えば「民宿」みたいなものでしょうか。滞在者は自分の部屋を割り当てられ、食事はダイニングで他の宿泊客と一緒に摂ります。ついでに近くの農家の人たちや、宿のおかみさんも一緒に食べます。すごく家庭的ですね。


「僕の他には誰かここに泊っているのですか?」

 絵描きが尋ねると、

「ああ、いるさね。女の人さ、年増のエゲレス人の女がいるさね」

 おかみさんはノルマンディー訛りで答えました。

 

 せっかく天気のいい季節なので、彼は中庭で一人の食事を頼むことにしました。ノルマンディーの痩せた鶏を食べ、リンゴ酒を飲み、4日前のパンを食べながらご機嫌、ご満悦の画家。


 その時です。おもての通路に続く垣根が開き、見たことのない人物が家に向かってやって来ました。その人こそ、この小説のタイトルであり、のちに画家の忘れえぬ存在となるイギリス人女性、ミス・ハリエット。


 二人の出会い、そしてその後の展開は……?

 つづきます。  


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