さすらう孤独な魂「ミス・ハリエット」②

 いよいよミス・ハリエットの登場。


 ……と、ここであらかじめお断わりしておきたいのですが、僕は現在ではあまり使ってはいけないとされる差別的表現をあえて用います。そういう言葉にかなり敏感な時代になっているのは承知ですが、19世紀の作家であるモーパッサンを扱う上では、男女だの階級だの人種だのに対して、差別だ蔑視だと言っていられないからです。そういう社会であったし、原作のニュアンスを理解して頂きたいので、乞食、百姓、年増、などなど、今ではあまり好ましくない言葉を使うことをお許しください。もうすでに使ってますけど。


 そして、このミス・ハリエットはと言うと。

 イギリスから来た独身の年増女。これが彼女の形容詞です。中庭で食事をしていた絵描きが見たのは、痩せぎすで背の高い、ショールをきつく巻いた五十路の女。

 ──ミイラのような顔にグレーの巻き髪が揺れる様子は、なぜかニシンの燻製が紙に包んであるところを想像してしまう。彼女は目を伏せて急ぎ足で僕の前を通り過ぎ、一目散に家の中へ入ってしまった。


 なんだあのひと?!

 あまりにも個性的な彼女の登場に画家は笑い出しそうになりました。それから彼は少しずつこのイギリス人女性に関する噂や評判を耳にしていきます。


 ミス・ハリエットはある時ふらりとこの地に現れました。もう6週間は滞在しているとのことですが、一向に村を出て行く気配もない。食堂ではひと言も口をきかず、プロテスタントの啓蒙冊子を読みながらさっさと食べ終わってしまう。実際彼女はプロテスタントにひどく傾倒していて、村の人たちにもその冊子を配りまくっているという話です。それだけでは飽き足らず、教会の神父にまで献上して啓蒙しようとするんだからものすごい心意気。


 フランスはカトリックの国ですから、こういう人ははっきり言って困ったちゃんです。村の人は彼女を嫌い、学校の先生や神父さんも「無神論者」「異端者」のレッテルを貼り付けてしまいます。そもそもたった一人でこうして外国をさまよっているところを見れば、おそらく何かしら良くない理由で家族に放り出されたのでしょう。

 宿のおかみさんはミス・ハリエットにこっそりと「悪魔デモニアック」とあだ名をつけ、ことあるごとに彼女の奇行を画家に話してくれます。

 足の潰れたヒキガエルを自分の部屋に連れて帰り、洗面器に入れてなでなでしていたとか、漁師のところへ行き、釣ったばかりの魚を買ったが、買った途端に海に放してしまったとか。馬小屋番は彼女を骨董品扱いし、女中もミス・ハリエットを無視。それもこれもすべて彼女がデモニアックだから。


 しかし、この画家自身は、ミス・ハリエットに対して他の人のような嫌悪感は抱きません。むしろ興味を持って彼女を眺めていたのです。


 ──彼女はよく田園を一人で散歩していた。神と会話してたんだろう、一度草むらの中でひざまずいているところを見たよ。僕に気づくと、見られていたことを恥じるように行ってしまった。

 それから、ファレーズにも一人で立っている時があった。僕が絵を描いていると、彼女が崖の上でじっと海を見つめているんだ。その乾いた表情の中には、うちに秘めた深い喜びがあるような気がして、僕は思わず早足で歩く彼女へ近づいて行ったものだ。

 あと、農場の端でも彼女を見かけた。りんごの木の下で、例の冊子をひざに乗せて、どこか遠くをぼんやりと眺めていた。

 僕がこの宿を離れずにずっと居続けた理由は、もちろんこの村やこの風景に惹かれたのもあるけど、本当のことを言えば、ミス・ハリエットのことをもっと知りたいと思ったからだ。この年増のイギリス女には、どんな孤独な魂が宿っているのだろう、それを知ってみたくなったんだよ──。


 そして、二人の距離が急激に近づくのは、そう先のことではありませんでした。


 ──その日、僕は自分でも傑作だと言える絵をひとつ完成させたところだった。15年後に1万フランで売れることになる絵だ。右手には崖があり、苔むした岩を太陽の光が染めている。左手には海。青い海じゃなくて、碧の、翡翠のような色の海が濃い空の下に広がっている。

 僕はこの作品の完成に大いに満足して、世界中に見せびらかしたい気分だった。農場の牛にその絵を見せて、「どうだい、こんな上出来、なかなかお目にかからないだろう」って言ったぐらいだよ。


 宿に戻ると僕はすぐおかみさんに絵を見せた。

「ほら見て、おかみさん、すごいでしょ。褒めてくださいよ!」

 だけどおかみさんにはそういうのを見る目がなかった。描いてあるものが牛か家かの区別すらつかないような目で、ボケっと眺めてるだけだった。


 そこへミス・ハリエットが戻ってきた。ちょうど僕の後ろを通ったから、彼女にも絵を見せるような格好になった。彼女はぴたりと足を止め、僕の絵に見入った。それから「オウ!」と小さく感嘆の声を漏らした。

「描いたばかりなんです」

 僕が振り返って言うと、彼女は興奮を隠しきれない様子で、でもとても優しくこう口にした。


「ああ! あなたは自然をよく理解していらっしゃるのね。心を揺さぶられるような絵ですわ」


 うわあ、本当ですか――!


 そんなこと言われちゃったらさあ、興奮しちゃうよね。星をたくさんもらってレビューまで書いてもらっちゃったら、舞い上がっちゃうよね。(あれ、何かとごちゃ混ぜにしてないか)

 僕は真っ赤になって、まるで女王からの賛辞を受けたみたいに感動して、その頬にキスしたいとすら思ったよ!


 ……そしてこの出来事をきっかけに、二人の間に友情が芽生え始めます。

 では、そのあたりのお話は、次回に。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る