友情の末に芽生えたもの「ミス・ハリエット」③
食事のあと画家とミス・ハリエットは連れ立ってファレーズへ向かいました。燃えるような太陽が海を赤く照らしながら沈んで行こうとしている。並んで歩く二人の胸には、分かり合えた友人同士のような清々しい気持ちがみなぎっています。
ではここで印象派モーパッサンによる日没の描写を。
──それは肉体も精神も幸福に満たされそうな、穏やかな夕暮れだった。うららかな風には芝生と海藻の匂いがいっぱいに漂い、心を優しく潤した。僕たちは100メートル下に海を見下ろす断崖絶壁に立ち、口を開け大きく胸を広げてその海の空気を呑み込んだ。波の口づけで潮を含んだ風がゆっくりと僕たちの肌を通り過ぎて行く。
いつものショールをきつく身にまとったイギリス女性は、巨大な夕陽が海に落ちていくのを眺めていた。はるか遠くには三艘のヨットが燃え上がる太陽の中に影を作り、手前には、蒸気船が煙を細く吐き出しながら、水平線を横断していくのが見える。
赤い球体はゆっくりと下がり続け、海に触れた。水上に浮かぶ船が炎の額縁に彩られる。陽は少しずつ大海に呑み込まれ、小さくなり、そして姿を消した。
ミス・ハリエットは情熱的な瞳で黄昏の焔をじっと見つめていた。この空を、海を、水平線を全部抱きしめたいと願うかのように。
「ああ、私これが大好き…大好きなの…」
彼女は何度もそう呟いた。その目には涙が光っていた。
「このまま小さな鳥になって天空を飛んでいきたい」
僕はそのとき崖の上に立つ彼女の姿をスケッチしたい気持ちに駆られた。その姿は、恍惚というものを具現化しているかのようだった──。
距離が縮まるにつれて、画家はミス・ハリエットの持つ少女性のようなものに気づき始めます。肉体は五十歳、でも心は十五歳。仔犬が乳を飲んでいるところや、馬の親子が駆け回るところや、鳥の巣の中にいる小さな雛たちを見るだけで彼女は大袈裟なくらい感動するのです。そんな彼女を見て画家はこう呟きます。
──さすらう者。孤独で、ひとに笑われるだけの惨めな存在。彼女に出会ってから、僕はそういうものたちを慈しむ気持ちを知ったのだ──。
彼女は画家の創作活動にも同行するようになりました。ちゃっかりと折り畳み椅子を用意して、彼の隣に腰かけ、黙って何時間も絵筆を動かす様子を見つめている。大胆な手法を目の当たりにすれば「オウ!」と感嘆の息を漏らし、この自然の二次創作を尊敬のまなざしをもって見てくれる。そして暇さえあれば崇拝する「神」の話を持ち出して創作と結び付け、彼の目を開かせようと試みるのです。帽子の中やポケットの中、絵具箱の中、彼の持ち物のいたるところに例の小冊子を忍び込ませますが、そんな彼女の様子すら画家には可愛らしく映り、この冊子はおそらく天から直送されて来たものに違いない、なんて言っています。
しかし、こうして友情をはぐくんでいた二人に、変化が訪れます。
旧友のように感じていた彼女の態度が少しずつ変わってきたのです。彼を見て赤くなったり蒼くなったり、会話の途中で突然どっかに行ってしまったり。「え? 僕なにも悪いことしてないよね?」って画家が焦るような素振りを見せ始めるのです。
こないだまでは風に吹かれてボサボサになった髪を気にも留めずにテーブルについていたのが、いったん部屋に戻って髪を直してから食堂に現れたり。画家のちょっとした冗談に十五歳の女の子みたいに赤面してみたり。
そのうち口をきいてくれなくなって、絵を描いているところにも来なくなってしまいました。食事の時に話しかけても不機嫌っぽくイラついているような答えが返ってくる。だから画家はこう訊きます。
「ねえ、ハリエットさん、最近おかしいよ。どうして前みたいに話をしてくれないんです? 僕、あなたを怒らせるようなことしたのかな」
すると彼女は、
「話ならしてるわ。いつもと同じですわ。変わってないわ、何も変わってませんとも」
と言って、自分の部屋に閉じ籠ってしまいました。
……この辺でもうこの女性のなかに芽生えているものが何か分かりますよね。でもこの画家はまったく気づきません。その証拠にこんなことまで言います。
──そうかと思えば、僕をじっと見ている時があった。それはまるで死刑囚が今日刑の執行を告げられた時のような目だった。なんだろう、狂気というのか、それも神秘性と暴力性の混ざった狂気の目だ。こらえようがなく、遂げようがない、激しく高ぶった、渇望するような熱を帯びている。それと同時に、彼女は自分自身の中で何かと闘っているようだった。今までに知ることのなかった、強く、心が抑制しきれない何かと……。僕は知る由もなかった、何も知らなかったんだ──。
って、こら! これでも気づかないのか!
変わり始めた二人の関係はいったいどうなっていくのでしょう。
では、その後へつづきます。
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