遅すぎた恋の成就「ミス・ハリエット」④
その出来事はある朝突然に起こりました。
その日、画家は一枚の絵に取り組んでいるところでした。幻想的な谷間の風景の中にかすかに浮かぶ男女。女は男に寄り添い、男は女へ体を傾けながら口づけを交わしている場面が、深い霧の中にうっすらと見える、という絵です。
夜明け前から外へ出てデッサンを始めた絵描き。あたりには朝靄がかかっています。
するとふいに誰かが現れる気配がします。ミス・ハリエットでした。画家を見ると逃げるようにその場から立ち去ろうとする彼女に、画家はあわてて声をかけます。
「待って、待ってくださいハリエットさん! あなたに差し上げたいものがあるんです」
ミス・ハリエットが後悔するように近づいてくると、彼は手にしたデッサンを彼女に差し出しました。
霧の中に浮かび上がる美しい恋人たちの姿──。
彼女がどんな気持ちでそれを見つめたかは、次の描写に書いてあります。
──彼女はしばらく黙ってその絵に見入っていた。が、突然、堰を切ったように泣き出した。抗いきれない涙と戦うように、息を詰まらせながら。いくらこらえようとしても、そのあふれ続ける涙に負けそうになりながら。
僕は動揺のあまり立ち上がった。彼女の悲しみのわけが分からぬまま、僕まで胸が詰まり、考えるよりも先に思わずその手を握りしめた。
すると、彼女の手がびくりと震えた。まるで全神経がよじれ、引きつってしまったかのように。すぐに彼女は僕の手を放した、いや、振りほどいた。
その時、僕にはやっと分かったんだ。
何歳だろうがどこの国の人間だろうが関係ない。その震える手から伝わったものは、まっすぐに心へ向かってくる、愛という感情だった。しかし、僕が何か言おうとする前に彼女はその場から立ち去った。そして残された僕は、自分が大きな罪を犯してしまったような悲しい気持ちで、ただそこに突っ立っているだけだった──。
無邪気に友達だと思っていた相手の想いに気づいてしまった時、その想いに応えられない時、ひとはどうするんでしょうか。
この画家は、宿を出て行くことに決めます。
夕飯の席で彼はおかみさんにそのことを告げました。おかみさんは残念がりましたが、目の端で見たミス・ハリエットはいつもの無表情で黙っていました。ただ、いつもふざけ合う仲だった女中が、彼の方へ目を向けていました。
夕飯の後ふらりと宿の外に出た画家は鶏小屋のところで女中を見つけます。画家の脳裏には、今朝の出来事、今までのミス・ハリエットとの日々、そして出発を告げた時のこの女中のまなざし、そんなものがごちゃ混ぜになって押し寄せます。そして半分やけくそな気分でこの女中を抱きしめてキスをしてしまいます。女中はいやいやをしながら笑っています。またいつもの画家のおふざけだと思ったのでしょう。
しかし、そういう時に限って見られたくない人に見られてしまうんですよね。
誰に? もちろん、ミス・ハリエットに。
彼女は亡霊を見るようなまなざしで二人を見つめていました。が、すぐ踵を返して闇の中へ消えていきました。
画家は彼女の目に映った自分を恥じながら、沈んだ気持ちで部屋へ戻りました。
次の日、食堂にミス・ハリエットの姿はありませんでした。夜明け前から姿が見えないので、また例によって日の出を見に出かけたのだろうとおかみさんは言いました。
ところが。
水を汲みに行った女中が、井戸が枯れていると言って戻って来ます。何かが中に落ちている様子なのです。
ランプの明かりをその暗い井戸の中にそろそろと降ろしていくと、あるものが画家の目に入ってきました。
それは人間の脚、そして体。
まさか──。
画家は大急ぎで下男と引き揚げます。が、時すでに遅し。その人間──ミス・ハリエットは、すでに亡き人となっていたのです。
おかみさんと女中が怖がって近寄らないので、画家は彼女の体を部屋へ運び、ベッドへ寝かせました。グレーの髪はべったりと濡れ、微かに開いた目は向こう側の国から自分を見つめているようでした。画家はびしょ濡れになった服を替え、髪を整え、遺体の周りにマーガレットやヒナゲシの花を散らしてやります。そしてろうそくの明かりのもとで一晩中その亡骸を見守ります。
──僕は思った。彼女の人生とは一体何だったのだろう。何を隠し、何から逃げてきたのだろう。見捨てられ、さまよい、一度も愛されることのなかった生涯。苦しみも絶望も、誰にも語ることなく閉じられた生涯。
そうだ、彼女は神だけを信じていたっけ。神だけが、彼女の唯一の理解者だったんだ。
これから彼女は自分の愛していた自然とひとつになる。大地に還り、今度は自分が花になって、太陽の光を浴び、牛に食まれ、鳥にその種を運ばせ、動物の肉となり、そしてもう一度人間の肉となるのだ。彼女の魂は、あの暗い井戸の中でその光を消してしまった。でも、もう苦しむことはない。彼女はその命を別の命に吹き込むことができるのだから。
夜は明け始めていた。ベッドの上にひとすじの光が差し込んだ。彼女の大好きだった時間だ。木々の枝では目覚めた鳥たちが歌い始める。
僕は窓を大きく開けて、空から僕たちの姿が見えるようにした。それから、冷たくなった亡骸の上に体を傾けると、その傷だらけの顔にそっと手をあてがい、ゆっくりと彼女の唇に口づけをした。長い口づけを。今まで一度も与えられることのなかった、その唇に……。
画家の回想が終わるところでこの物語も終わります。
性質の全く異なる二人が、通じ合うひとつの感性だけで繋がり、次第にバランスが崩れ、壊れてしまう。そんな切ない物語が雄大で繊細な自然の描写とともに丁寧な筆致で描かれています。
美しいエトルタの風景を最大限に生かした物語。たった一人で崖の上に立つ女と、それを見つめる若い画家の姿が、読後いつまでも脳裏に残ります。
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